第9話 雑賀はほろ酔い
雑賀は六時から予備校の授業が始まってしまうので、荷物をまとめた。
エリに一声かけてから帰ろうかとも思ったけれど、あまりにも気持ち良さそうな顔をして眠っていたので、そっとしておくことにしたのだった。
それでも、エリが風邪をひかないようにと、自分の詰襟をエリの肩にかけておいた。
一年生の頃と比べると、かなり体にフィットしてきたと思っていた詰襟も、エリの背中には随分と大きく見えた。雑賀はそんなところに愛おしさを感じたのだった。
校門を出ると、そこには駅までの並木道が続いている。
緑から黄色に紅葉したイチョウの葉が、アスファルトのうえに絨毯のように敷き詰められていた。それを一歩ずつ踏みしめるたびに、趣き深い音がするのだった。
雑賀は首のあたりに秋の寒さを感じたが、特に気にはならなかった。
天気予報で、明日は最低気温がぐっと低くなることを思い出したが、あまり考えないことにした。
十月も半分が過ぎ、冬服への移行期間も終わっているので、生徒指導の先生に見つかったら注意されるだろうな、と雑賀は思ったが、それはそれでおもしろいとも思った。
「さいがーっ!」
雑賀と同じクラスの斉木彰人が後ろから駆けてくる。
斉木が追いついたところで、雑賀はぼそっと呟いた。
「なんだ、斉木か」
「俺じゃ悪いか?」
剣道部の大きなかばんを肩に負い直して、雑賀の頭を掴んだ。
斉木の手を邪険に振り払い、雑賀はわざとらしくため息をついた。
「わるい。すごくわるいよ。せっかく青春の甘いひと時に酔いしれていたのに、これじゃ台無しだ」
「あれっ? お前、学ランは?」
「――人の話、聞いてる?」
「聞いてるって。あ! そういうことか……」
斉木の顔つきが暗くなった。
「斉木?」
「俺も経験あるけど、なんてゆーか、あんまり引きずらないほうがいいぜ」
「何か勘違いしてない?」
「はっ? 失恋だろ?」
「違うよ。始まってもない」
「ちっ、秀才くんの挫折を見れるかと思ったのに」と明からさまに肩をがっくりと落とした。そう、斉木はオーバーリアクションの人間なのだ。
二年生の最初の席順は出席番号順で、雑賀は斉木の隣だったことから、二人はよく話す。雑賀は、こちらが爽快になるほど反応の良い斉木を、内心おもしろがっているのだ。
「友人に対してあんまりだ」
「って、えー!」
これでもかというほど目を見開いて、斉木は奇異なものを見るかのような目で雑賀を見た。
「忙しい奴だな」
「雑賀、お前、学ランどうしたっ!」
「そこに戻るのか。まあ、落ち着けって。人に貸したから今はないだけ。あーでも、あれは貸したっていうのかなあ……」
雑賀は事のあらましをざっくりと説明した。
「――ということなんだよ」
斉木には珍しく、表情になっていない表情で、口をぽかんと開けている。
「……雑賀、どこでそんな青春、買ってきたんだよ」
「待てよ、その言い方には誤解がある」
寝ている後輩の女の子に自分の詰襟をかけた、という雑賀の話に、斉木は興奮気味であった。
「放課後! 誰もいない部室で! 寝ている後輩、しかも女子! に、自分の学ランかけてあげるとかっ。なにそのシチュエーション、青春かよ」
「だから『青春の甘いひと時』って言ったんじゃないか」
斉木は声を潜めて、雑賀に詰め寄った。
「その一年の子、狙ってんの?」
「俗っぽい言い方するなよ、気持ち悪い」
ニヤニヤしている斉木の顔にムカついて、雑賀はつい語気を強めて言ってしまった。
だが、斉木はそんな雑賀を気にすることなく、問いただす。
「で? 正直なところ、どうなんだよ」
「どうって?」
「とぼけんな。ムカつくだろ。好きなのかどうなのかってことだよ」
「これだから恋バナ初心者は……」
「はぐらかすな。お前の黒歴史、全部ぶちまけるぞ」
「えっ、なにそれ。黒歴史?」
「冗談だから。さっさと言えって」
斉木への反抗心から「好きじゃない」と言いそうになったが、雑賀は自制した。
エリとの関係を、斉木との無粋な話のせいで汚したくはないのだ。誰かをあまりにも神聖視することは好ましくないが、それでもやはり、雑賀にとってエリは特別な存在だ。
できることならあのまま、エリには永遠に眠っていてほしい。そしてその小さな寝息を聞きながら、その隣で本を読んでいたい。
ふと頭に浮かんだ妄想に、雑賀は戦慄した。
ふっと短く息を吐いてから、斉木に言った。
「狙ってるよ、その子のこと」
斉木は期待以上の返答に大変満足していた。
終始、「うわー!」と「きもー!」を繰り返していた。
「それでそれで? やっぱ、寝るときは使うの? 名前だけでも」
斉木の言っている意味は容易に理解できるが、雑賀は苛立ちをおぼえた。
「お前、滅びろよ……」
「やってるな! これは!」
「俺、先帰る」
斉木を無視して、駅まで走った。
雑賀は、あのまま斉木と話していると大事な何かが崩れると感じたのだ。
すれ違う、自動車と人の話し声。その情報が乱雑に耳に入って、雑賀の頭の中を掻き乱した。その感覚が妙に心地良いと、雑賀は安堵した。
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