第7話 蛍光色の思い出

 二月十四日。東光学院、受験日。

 あらかじめ大きな赤丸の印をつけてあった日がとうとう来てしまったと思うと、エリは指先が震えているのを感じた。

 

 東光学院は神奈川県でも上位の名門私立と呼ばれるほどで、毎年の志願者数は多く、倍率もこちらが腰を抜かしてしまうほどである。


 中学校での成績も中の上くらいであるエリがこの学校を受験しようと思ったのには、もちろん理由があった。それは、制服がかわいいからだ。

 志望動機としてはあまりにも不純だと、自分でも自覚していたが、それでもあの制服に袖を通してみたいと思ったのだ。赤と紫のギンガムチェックの親子ひだのプリーツスカートに、高校のエンブレムのついた腰のあたりをしぼったブレザー。そして、少し大きめの、スカートと同じ生地のリボン。

 受験期のエリは、あの制服を着た自分を思い浮かべて、つらい夜をやりすごした。

 

 受験票を持ったことを確認して、駅までまっすぐに歩いた。手が冷えないように手袋をして、先生からもらった慰め程度のありがたいお守りを握っていた。

 すべてが、今のところ順調と思っていたエリはふと気づいた。

 

 鼻水が止まらない。


 緊張していると鼻水はでない、そうどこかで聞いたような気がしたが、出てきてしまった今はそんなことを考えている場合ではない。

 だが、エリはいたって、冷静だった。先生からのアドバイスから、ポケットティッシュを巾着に入れて大量に持ってきているのだ。さっそく、かばんの中に手を突っ込むが……

「巾着、厳寒に忘れた!」

 

 エリは受験票の有無を確認したときに、巾着を一時的にかばんから出していたのだ。そして受験票があることに満足して、巾着は忘却の彼方……

 ティッシュがなくとも、ハンカチなどで代用することもできたが、エリは若干のパニックに陥っていた。もう家まで戻る時間はないためそのまま行くしかない。

 鼻水はたらしっぱなしで少々、いや、かなり不恰好ではあるが、背に腹は変えられぬ。そうエリは決心した。


 電車の乗り継いで、最後の乗り換えのとき、改札口で何かを配っている人がいた。


「ポケットティッシュだ!」


 エリは駆け足で配っている人のほうへと向かった。エリはこのとき人生で初めて「配っているポケットティッシュが品切れになったらどうしよう」と思ったのだった。

 

 蛍光色のウィンドブレーカーを着た人の前まできて、またもや、エリは人生で初めてこう言った。

「すみません、ティッシュください」


 あのときは鏡を見ていなかったが、かなりひどい顔をしていたことは想像に難くない。おそらく、涙で目は真っ赤にはれて、鼻水はたらしっぱなしの顔だっただろう。

だが、あのときのエリに、恥じらいはなかった。どうせ、この人とは一生会うことも無いだろうし、どんな顔も見られてもいいや、という諦めからだった。 

 ティッシュ配りの人は状況を察したのか、かごに入っていたポケットティッシュのほとんど全部をエリに渡した。

 朦朧としていたエリの視界は蛍光色で埋め尽くされていた。その蛍光色は、ティッシュ配りの人の頭の位置まで広がっていた。少し首を後ろに傾けて、上を見上げると、蛍光色と駅構内の灰色との境目が見えた。


 エリは、ほとんど消え入りそうな声で「ありがとうございます」と一礼してから、試験会場である東光学院へと向かったのだった。

 ティッシュ配りの人が何かを言っていたような気がしたが、エリには思い出せなかった。


 

 エリには、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。

 エリちゃん、エリちゃん。


 家族はえっちゃんと呼ぶ。クラスメイトはエリと呼ぶ。先生は星野と呼ぶ。


 私をちゃん付けで呼ぶ人は誰だったっけ?

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