第5話 はじめてのお誘いですが!

 中世盛期において、ゲラルドゥス・クレモネンシスは一○○冊以上の書物を翻訳したという。浩瀚な書物はなかったものの、僕と、奴隷身分の少女――名をレラといった――は、二人して一月足らずで、それと同じ程度の数を写字し終えた。仕上げた数は文字慣れした僕が後半怒涛のハイペースで追い抜き、結果として七対三程度の比率になったものの、俸給はきっかり半分で割った。これで、冒険者組合で完全に孤立してしまった僕を救ってくれた恩と、あのチンピラに一撃貰ったときに命を助けてもらった恩を少しは返せたものと願いたい。

『文字嫌い、もう見たくない、金輪際』

『字余りだな』

『いやぁああ、『字』ぃいいいい!?』

 僕の脳内女神も良い感じに壊れてきているが、僕も僕で根を詰めすぎて疲れた。大部屋に寝転んでこれからのことを考える。この仕事で稼げた金は、およそ半月ほどの生活費で消える。とするとまた別のものを探さなければならないが、流石に写字ばかりしているわけにはいかない。利率が高くないし、何より情報収集にならない。

 僕はこの世界に転生したわけで、この女神がぶちまけて強力な魔導書に変化してしまったらしい、決して失われてはならない僕の世界の稀覯本たちをどうにか無事に回収する使命がある。利率が高く、より広く見聞が出来るのは、市壁外へ外出する仕事であり、それを首尾よく行うには多かれ少なかれ魔法が必要とされる。魔法は、魔導書の題号とランダムな一文を続けて読み、最後に発動したい魔法の名を唱えることで起動するわけだが、女神の手違いによって全ての属性において魔法適性を欠く僕は、それができない。しかし――。

『――レラがいれば、どうにかなるかもしれない』

 恩をちょっと返したばかりでさらに借りようというのだからもはや悪質な詐欺に近い。だが、お互いに冒険者として生計を立てるにはいつか壁外の仕事につかなければいけないし、覚えた言語で見てみれば、定期的な薬草採取などはどうにか魔法なしでも乗り越えられそうな程度であり、写字よりずっと割が良い。一歩を踏み出してみる切っ掛けとしては、悪くないのではないだろうか。

『うわぁ、見損ないました! 女神ガッカリ。きゃはは、いくら年下だからって女の子におんぶにだっこが許されるのは小学校低学年までだよねーー!』

 脳内でやかましく騒ぐ女神の言葉に、今回ばかりはちょっと罪悪感を覚えながらも、僕はその提案を翌日、冒険者会館でしてみることにした。

「ごめんね、わたしも、魔法が使えないんだ」

 駄目だった。レラは申し訳なさそうな顔をすると、こう打ち明けてくれた。彼女はここエテロワからかなり離れた港町で両親と仲良く暮らしていたらしい。ある日のことだ。レラがいつものように飛行魔法を使おうとすると、何故か魔法は暴走してしまい、町の海上で大きな波を形成して、そのまま海岸線上の一区画を丸々呑んでしまった。他の冒険者たちの奮闘により、死者こそ出なかったものの、その町の冒険者組合会館は半壊、ほか何軒もの家を破壊し、彼女は両親ともども奴隷身分となり、互いに引き離され、賠償金の返済まで働くことになった。

『魔法の暴走、若い人にはたまに良くあることです。コントロールできないほど体調の悪いときに無理に魔法を使ったんでしょう。自業自得という言葉はちょっと厳しいですが、私たちが面倒を見るのはちょっと筋が違うかと』

 彼女の先行きを案じて思わず感情的になりかけていた僕を、冷静な声で女神が制した。ポンコツにしても、意外と女神然としたところがあるやつだ。最近僕は、感情的になって失敗することが多かった。これは改めなければならないことだ。レラに恩を返すには、順序や、やり方というものがある。思うままに彼女の借金を肩代わりして、少しずつお金を稼いでいる間に、魔王軍に世界は支配されてしまうかもしれない。そうすれば、借金を返したところで、彼女が元の暮らしを取り戻すのは不可能だ。

 女神によれば、魔王軍は加速的に強力になっている。というのも、僕の世界の図書が魔導書になってこの世界にばら撒かれ、その内の何冊かが魔王軍の手に渡ってしまったからであり、何度も言うが僕はそれらを回収しなければならない。

 横を見る。過去のつらい話をしたからか、レラの目には少し涙が浮かんでいた。それは彼女にとっても意外なものだったらしく、何度も何度も拭うが、涙は流れて止まらない。その悲壮さに息が止まりかける。しかし、僕はいますぐ彼女を助けることはできない。レラは、本音を吐くように、自分を痛めつけるように、大事に長年使われていたらしい古めかしいカバンから古い一冊の本を取り出して、消え入るばかりの小さな声で言った。

「お父さん、お母さん、ごめんなさい。わたしは呪われた子だ。もらった魔導書の文字、あの日から読めなくなっちゃった……。読めなくて、暴走させちゃった……。たくさんの人を傷付けた……」

 涙を含んだ重い言葉。魔法は、魔導書の題号とランダムな一文を続けて読み、最後に発動したい魔法の名を唱えることで起動する。魔導書の題号とランダムな一文が発声できなければ、発動に失敗するか、暴走してしまう。だが、彼女の言う通り、魔導書の文字が突然読めなくなるというようなことがありえるだろうか。僕は既に何やら嫌な予感がしていた。脳内の女神も何だかそっぽを向いてそわそわしている。レラが机の上に置いた本、それを改める。

異教に対する神の国De Civitate Dei contra Paganos 』 アウグスティヌス著

『お前のせいじゃないかぁああああああああ!!』

『びぇえええん!! 大きな声で怒らないで!!』

 僕は冊子本の姿をした女神を懐から取り出して、プロ野球選手もびっくりの剛腕で床に叩きつけた。自分の魔導書は親からの贈り物。それをぞんざいに扱ったことで会館中から非難の目線が向けられるが、僕は怒りのままに悪魔にも似た眼力で睨み返す。机にあるのは、五世紀にアウグスティヌスという宗教者が書いた俗に『神の国』として知られる書籍の、冒頭部分の写本だった。写本自体の制作年代は一五世紀後半だが、歴史的にたいへん重要な著作だ。レラの扱いが良かったためか、目立った傷もついていない。ありがとう、本当にありがとう……。

 どうも、何冊かは、世界を渡って入れ替えてしまったみたいです……。おずおず訴える女神。どうも、本来僕の世界の『神の国』があるべきところにレラの魔導書が置かれているらしい。魔王を倒せば魔力が戻って取り戻せるというようなことを脳内のド阿呆は言うが、こいつはもう女神の職を解雇されて然るべきだと思う。

「レラ、大丈夫だ。行こう。僕たちが、君の全てを負う。まずは借金の返済だ」

「え……」

『えーー!?』

 少女が驚いたように目を見開くと同時に、脳内でやかましい声がまた弾けた。

『ダメ、ダメですよ西町さん。この世界で、あなたの世界の言語が読めるのは、私と魔王だけです。魔導書が悪用されたら借金どころじゃないんだって』

『やかましい! 魔王なんざついでにシバき回せばいいだろ!』

『シバき……?』

「ダメだよ、そんなことしたら。きみには将来があるんだから」

『本当にやれると思ってるんですか、あなたはクソ雑魚!』

「クソって言うな!」

「え……そんなこと言ってないよ……?」

「ごめん、間違えた……」

『ほーら、だからまずはしっかり魔王を』

『てめえに言ったんじゃねえ』

「考え直した方が良いよ。わたしはきみよりずっとお姉さんだから、大丈夫だから」

「でも、泣いてたじゃないか」

『そりゃあ、いつもいつも酷い扱いをされてますから……これってDV?』

「てめぇはそのまま一生泣いてろ!」

「えっ……、あの、何だか、分からないけど、ゴメン、ごめんっ、ね……」

「うあぁああああああああああ!?」

『最低です。女神ガッカリポイントプラス2です』

 しっちゃかめっちゃかだ。脳内と正面から話しかけられて、選ぶ言葉を思いっ切り間違える。もう半分くらい心が折れそうになりながら、目の前の少女をどうにか慰めようと手を伸ばしたところで、椅子に座っていた僕の視界が一回転して天井を向いた。後ろから思いっ切り肩を掴まれ、引き倒されたことは明らかであり、その下手人は燃え立つような怒りの表情で僕を見下ろした。

「おい、嘘吐き野郎。女の子を泣かすなんて、テメェはやっぱり男じゃねえよ」

 下手人、洒落た髪色をしたチンピラの青年は、その足を振り上げた。どうも口に出した分だけの会話を聞いていたらしい彼は、身に抱く抑え難い熱のまま、思い切り踏みつけようとしてくる。どん、と耳横数センチで勢いよく響く、硬い靴の音。とっさに涙目から顔色を変えたレラが青年に身体をぶつけなければ、いまごろ僕の顔面はぺしゃんこにされてしまっていただろう。

「何とか言えや、お前、あぁ!?」

 青年の怒りは収まる気配はない。彼は数歩後退って、呪文を唱え、手にいつかの赤い槍を握る。確か、冒険者会館内での攻撃魔法の使用は禁止のはずだが、そのことを知らないというよりも、もはや気にしていないという様子だ。空気が変わった。周りを見回すと、何人かが流石にまずいという顔で、慌て始めた。ただ、僕たちの間に入って止めるのではなく、あくまで巻き込まれないように距離を取るという感じだ。あの屈強な組合長の男性の姿はいまはない。

 孤立無援。だが、そこで彼らの薄情を糾弾することはできない。どう考えてもいままでの僕の振る舞いに原因がある。僕は『女神ゾッコン癇癪少年』であり、この組合に入ったときも、多くの善意ある人々の想いを無下にしている。突然襲われたとしても、誰も助けてはくれない。それは当たり前で、何の不思議もないが、何も学ばない僕でもない。一発目の魔法の槍を、さっきまで座っていた椅子を盾にして防ぐ。椅子で稼いだ一瞬の時間で身を捻らせ、全く威力が減退せずに迫ってくる赤い一撃を躱し切る。眼前に、白い服で細身の少女の背中が映る。レラが慌てた様子で、僕と青年の間に割って入ったのだ。

 まずい。彼女は僕と同じで魔法を使えない。青年が彼女を攻撃するわけがないと分かっていても、彼の力は強大だ。手違いで彼女を傷付けてしまうかもしれない。この急場を乗り越えるにしても、これから先、僕たちが負わせてしまったレラの借金を返すために市壁外の仕事に出るとしても、誰か、強力な仲間が必要だ。例えば、強い魔法が使えて、僕も知っていて、僕らと組んでくれるような、頼れる仲間が。

 そこで、結構まだしっちゃかめっちゃかのままだった僕の脳は、二、三の前提を派手に吹き飛ばして、一つの回答を得た。怯え、身体を震わせながらも僕を護るように立ちふさがる少女の脇からするっと抜けて、勢い良く眼前の青年の手を握ると、言う。

「僕ら、パーティーを組まないか。僕には君の力が必要なんだ。ね、レラ」

「「『……え?』」」

 青年と少女と女神の声が重なった。

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