第4話 はじめての引き分けですか!?

 ジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』では、年がら年中キレていそうなカナダ人の銛打ちが、ネモやアロナックスやコンセイユよりも僕のお気に入りだった。だがそれは創作の話で、実際に常にやかましいのを耳にすると、やはりストレスが溜まる。

『冒険は!? 魔物を倒したり、薬草を採集したり、困っている人たちを助けて、情報を集めたりとかは! 最低! 私のドキドキとワクワクを返してよ!』

『やかましい、返してやるから、不整脈でぶっ倒れてろ』

 騒ぐ女神に脳内で言葉を返す。静寂のなか、僕と奴隷の少女の二人は、冒険者組合会館の地下室に籠ってざらざらと厚い紙にペンで文字を書いていた。僕たちが選んだ最初の仕事は写字というもので、書籍を複製する作業だった。その数、百冊。終わるまで一月はかかる。僕には魔力がないので、市壁の外に出たりするものは選ぶべきではないし、あれだけ目立つことをやらかしたので、人と関わるようなものもしばらく不可能だ。会館の依頼板に人気なさげに置かれたこの仕事が、幸運にも机仕事しかしてこなかった僕の天職といえた。

『そういえば、複製魔法とか、活版印刷機とかはないのか』

『ありますけど、手ずから時間と手間をかけて作り上げたものにしか魔力は宿らないので、ただの文字記録になります。そんなのは大手の印紙組合が一手に引き受けていますよ。それとも西町さんはアレですか、魔法が使えるなら何でもかんでも魔法で作っちゃおうとか考えてるタイプですか、やだぁ、これだから最近の若者は』

 阿呆の女神が補足したことには、僕にないのは魔力適性であり、魔力自体はわずかながらあるらしい。写字やモノづくりは、身体から染み出す魔力を文字と共に流し込むだけの作業だから、低質ながら、僕にも魔導書を作ることは可能だそうだ。

 書き写すだけなら、意味が分からなくても出来る。が、僕はこの世界の言語を覚える必要があった。そこで、いままで何の役にも立たなかった冊子本女神が意外な活躍を見せることになる。僕が指示すると、冊子本は、装帳を変えることなく、日本語とこの都市で用いられている言語を渡す辞典へと変化した。しかも、僕が目に入れた文字を音韻付きで開いた頁に現すとんでもなく便利な機能が付いている。

 毎秒書き換わる頁とにらめっこしながら写字作業を進め、半月後、作業が半分終わった段階で、多言語慣れしていた僕は、中学生程度の見た目をしている自分が知っているであろう、語彙と慣用句、熟語表現を修学し終わっていた。

『はぁ、はぁ、そろそろ、女神的にも限界です、ちょっと休んでも……』

『大丈夫だ。ありがとう、助かった』

『感謝の言葉!? まさか西町さん私のこと大好き――』

『――そこまで言ってない』

 夕方。冒険者宿舎の露天大浴場でこれからのことを考えていると、見たことのある影が姿を現した。半月前に路地裏で出会った青年、そのリーダー格だ。湯船に僕しかいないのを確認した彼は、回れ右して脱衣所に置いていた自分の魔導書を持ち出し、炎の槍をぷっぱなしてきた。息を止め、お湯に潜る。僕は魔法が何も使えないし、体格差がある。何をどうやったって力では彼に勝てない。

 けれど、僕は不敵に笑って腕を組み、露天大浴場の入り口から向かって右側の竹垣の前に立った。青年は、観念したかというようなしたり顔でこちらに迫ってきたが、僕の背後から聞こえてくる話し声にたじろいで立ち止まった。そう、女湯だ。彼が炎の槍を打ち放てば、何はともあれこの壁の何処かに当たり、女湯との境を破壊してしまうだろう。そうすれば、大通りで社会的にほとんど死んでしまって、いまでも街往く人たちに『女神ゾッコン癇癪少年』なる陰口と憐憫の眼差しで以て日々こてんぱんにされている僕の立場に限りなく近くなるのだ。

 さあこい、この地獄へ。

 お前のセンセーショナルな醜聞で、僕のうわさも残り五日といこうじゃないか。

 溢れ出る覇気は身を焦がし、一四歳程度には思えない迫力を生む。これが大通りで衛兵の男たち相手に出来ていればよかったが、あのときはまだ社会的に死んでいなかった。

 睨み合うこと数秒。青年も青年で思うことがあるようで、意外にも逃げ出すようなことはしなかった。彼は僕の負の気迫に負けない程度の胆力のまま口を開く。

「どうして邪魔したんだ。俺は、」

 ――俺は、勇気を振り絞って、冒険者をやるなら一緒のパーティーにならないかって誘っただけだっていうのに!

 ぽしゅっと軽快な音がして僕の覇気が半分くらい吹き消え、単純な呆れと怒りがその分を埋め合わせた。青年が続けたことには、彼はこの都市エテロワに来たあの少女に一目惚れし、一人では勇気が出ないので友達と連れ立って、彼女へパーティーへの誘いをかけていたところだったらしい。

「ナンパもあんな勢いでやったら脅迫だろうが、脳味噌すっからかんかクソガキ!」

「あァ、テメェの方がガキじゃねえか無能野郎、『女神ゾッコン癇癪少年』」

「いまなんつったゴラぁ」

 僕は決して短気な性分ではない。人の気持ちを深く考えることの出来るタイプで、沸点はタングステンより高く、心はサハラ砂漠より広大だが、それに反して自己評価はマリアナ海溝より低い。実に敬虔で、善良な人間だ。そのせいで地獄送りにもならなかった。こんな僕が怒っているのだからこいつは巨悪に違いない。さっきから脳内の女神がドン引きしているが、それもきっと別の案件だ。『取り戻せ』、『理性』という二枚看板を両手に持って必死にぶんぶん振っているが、絶対に別の案件だ。

 僕は実に理性的で、道義的にも正しい心持ちのまま、手近な湯桶を取って、青年に向けてぶん投げた。撃ち放たれる炎の槍。それは、思った通り、木製の桶を燃やし尽くしてしまう。はっは、ざまあみたことか。器物破損ですよ、宿舎の当直さん僕見ました! このダンテも迷いなくジュデッカに直葬する驚くべき恐ろしい裏切りの罪の告発のために僕が持てる全速力で脱衣所に駆けこもうと身体の向きを変えたところで、真横に熱い風。あれ、さっきまでとは威力が違う。やば……。燃え立つ槍は桶を燃やしても一切減速することなく進み、そのままの勢いで僕の脇腹に直撃した。

「ぐへぇ……」

 漏れ出す情けない声。激しく巡る視界。竹垣が押し倒される音。僕はあえなく吹き飛ばされ、女湯の大浴場にドボンと着水した。空気は吐き出されつくした。やばい。冷静になって気付いたが、このまま溺れればいよいよ助からない。身体が濡れていなくて、かつ浴場に叩き込まれていなかったら即死も良い所だった。焦りに酸素の足りない脳が警告を発すると同時に、柔らかい腕が僕を抱き上げた。少し大きな身長に、傷があるものの、細く美しい肢体。偶然風呂に入っていたらしい奴隷身分の少女は、茹で上がったに等しい僕を膝の上で寝かせると、他の女性たちと一緒に、この騒ぎの下手人を強い視線で睨みつけた。竹垣の向こう、青年は、僕の傍にいる少女の目線に当てられ、この世の全てに絶望したように膝を折る。

 はっ、今日のところは引き分けにしておいてやる。口と鼻からゲホゲホとお湯を吐き、疲労と痛みに意識を失いながら僕は思うのだった。

 

 

 


  

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