第3話
環姫のことは知っているだろう、と寅丸は詠うように続けた。
「黒河藩主の兄上の寵愛深き環姫」
大膳も、田崎もかつてその環姫について語っていた。
――黒河藩主は妹君である環姫を大事になされていたから
――弘紀様の母上の環姫は、修之輔殿に面差しが似ていた
「弘紀様の母上はこの黒河藩主の実の妹君の環姫。お家騒動に巻き込まれて弱ってしまわれた弘紀様は、その縁でこの黒河藩家中どちらかのお屋敷に預けられていると聞くが、よほど慎重に匿われているのか、それ以上の噂は聞かない」
兄君に似て蒲柳のたちかな、と寅丸が自問している。
「今日の御前試合を見物しに来ておれば姿を見られたかもしれないが、観覧席にそれらしい姿はなかった。血筋正しい弘紀様が羽代藩に戻り、正式に後継者であることを表明されればこの混乱も少しは落ち着くのではと期待しているのだ。秋生殿は弘紀様について何か聞いておられるか」
「……あまり上の方々の事情には通じていない。役に立てずに済まない」
「そういえば黒河の次鋒の名も弘紀だったな。あの者はまだ十四、五か。背は低くても真っ直ぐな恐れのない良い太刀筋をしている。羽代の弘紀様は確か十七歳、もう少し年長であられたな」
弘紀は背が低いので年少に見られるのだ、と思わず漏らした修之輔の言葉はどやどやと乱入してきた若者たちにかき消された。
「寅丸、俺達に酒を持ってこいとは何事だ。酒が欲しかったらお前が来い」
お前ばかり美人に酌をさせてずるいではないかと、酒で顔を赤くした者たちが寅丸を羽交い絞めにする。
「なんだその言い草は。儂は主将だぞ。もしお前が主将だったらこの佳人、秋生修之輔殿相手に一本も取れず御前で赤恥をかいただけだろう。儂だから一本取れたのだ」
なあ、とこちらに話を振る寅丸に軽く笑み、手水に行くついでに酒を貰ってこようと言って修之輔は席を立った。秋生殿、戻られたらこいつらと一緒に飲もう、と言い残して寅丸は同胞たちに引っ張られていった。
本多の屋敷の中庭には、舟を浮かべ風流な遊びでもするのだろう、大きな池がしつらえてある。修之輔は宴会の行われている広間から池を望む縁台に出た。夜風に当たり頭を冷やしたかった。
羽代藩主の弟にして黒河藩主の甥、そして母親の非業の死。いずれ身分の高い武家の身の上とは思っていたが、弘紀がその身に負うものの重さを思うといたたまれなかった。と、同時に、涙を浮かべながら修之輔を求めてやってきた夜を思うといじらしさに息が詰まるほどの愛おしさを覚えた。
「弘紀」
名を呼んでその姿が現れるわけではなかったが、呼ばずにはいられなかった。
今夜は、会えるのだろうか。
りん、とどこかで風鈴の音色が聞こえた。
桜の花片を運ぶ夜風に池の水面が揺れる。
縁台の向こう、本多家お仕着せの着物を着た女中が座って三つ指を付いていた。
「修之輔様、弘紀様がお呼びです」
修之輔を先導する女中は手燭を持って屋敷の奥へとするする進む。広間の喧騒が次第に遠くなった。
庭を渡る廊下にかかった辺りから、修之輔は空気に微か木材の匂いが漂うのに気づいた。向かうのは渡り廊下を越えた先、池の向こうの灯りの見える離れの建物のようだが、どうやら最近、ここ数年のうちに普請されたらしい。渡り廊下の板張りの床は滑らかに磨き上げられ滑るように歩が進む。
人の気配を感じて池の鯉が跳ねる音が聞こえた。離れの建物に入ると廊下は畳敷きになり、欄間はどこも緻密な彫刻が施されている。暗くて細部は見えないが、手燭の明かりをちらちらと反射する襖を彩るのは金泥か金箔か。ひと際華麗な牡丹唐獅子の襖の前で案内の女中は手燭を床に置き、座して居住まいを正し、お連れしました、とだけ述べた。
瞬間、修之輔はこの建物が弘紀の為に建てられたものであると理解した。おそらく本多家が弘紀を預かるとき、羽代藩の要請があったのだろう。羽代藩の血筋正しい後継者が過ごすに相応しい誂えが惜しみない財力で整えられていた。
りん、と澄んだ金属の音。鈴よりも澄んで鋭く響くその音は、女中の手の中にある小さな金属の棒二本が打ち合わされて出る音だった。その音が、弘紀といる時度々聞いた風鈴に似たあの音と同じであることに修之輔は気づいた。
この女中は弘紀の護衛、しかも歩き方の所作や目配りを見ればかなりの手練れだろう。脇の帯がそうと見なければ気づかない程度に不自然に膨らんでいるのは何か仕込んでいると思われる。今、姿を現しているのはこの者一人だが、闇にはおそらく数名が潜んでいるはずだ。弘紀の身辺はこれまで常に万全の護衛で守られていたという事実は明らかだった。
「中へ」
聞き馴染みのある声、しかし人に命じることに慣れたこの声音はこれまで聞いたことがない。女中が襖に手をかけ開くと室内の明かりが廊下にこぼれた。促されるまま部屋の中へ入ると、修之輔の背後で襖が閉じられ、女中は廊下の暗闇に下がっていった。
足を踏み入れた部屋の中、灯籠に照らされる左右の襖は波立つ海。右の襖には波間を果敢に羽ばたく数羽の千鳥が、左の襖には海面を眼光鋭く見つめる海鷹の姿が描かれている。白波立つ海上をあまねく照らす日の光は金、波の飛沫は銀。画力のある絵師が贅を尽くして手掛けたものであろうことは修之輔にも察せられた。
いまだ己の耳では聞いたことがない潮騒の音が幻のように聞こえるその部屋の正面、弘紀は袂の辻ヶ花も鮮やかな紫藍の友禅振袖に濃鼠の袴の姿で座っていた。
「声をお掛けするのが遅くなってしまい申し訳ございません」
どうぞこちらに、そう弘紀が手の平で自分の隣を示した。促されるまま隣に座る。見慣れた気品ある横顔、聞きなれた心地よい声。だが。
「弘紀は羽代藩主の血縁か」
「はい、そうです」
もうどこかでお聞き及びかも知れませんが、と前置きし、弘紀は修之輔の疑問に答えた。
「私の兄である現羽代藩主は病弱で子がいないので、兄が亡くなったら自分か、他から藩主を迎えることになっています。田崎たちは私を藩主に推したいと考えていますが、幕府から使わされる新たな藩主に期待をする者達もいます」
「その話は田崎殿から先に聞いた」
「私は藩主になってもならなくてもどちらでも良いのですが、田崎たちの信頼には応えたいと思っています。ただ、争えばまた血が流れることになるので、できるだけ穏便にすまそうと」
弘紀の睫毛がそこで震えたように見えた。
「今回の会談で、黒河藩から援助と支持を取り付けることができました。江戸表での交渉に力を貸してくれるそうなので、兄に何かあったら、私が有利に話を進めることができることになります」
それまではここにいます、といって弘紀が修之輔の胸に顔を寄せてきた。
「その後は」
「その時になってから考えれば良いかと。今は修之輔様と一緒にいたいのです」
自分が羽代藩に呼ばれるそう遠くないその日まで、ずっとこの離れに二人で閉じこもっていても良いのではないですか。
それはとても蠱惑に満ちた誘いだった。豪華な部屋で瀟洒な着物に身を包んだ弘紀の側に侍り、池に映る花木を眺めて互いに指を絡め、気が向けば唇を合わせて。そうして外の世界と隔絶されて過ごす日々はどこか退廃的でこの上なく魅力的だった。
弘紀の肩に指を這わせると弘紀が軽く喉を仰け反らせた。滑らかな振袖の絹は弘紀の躰の線やぬくもりを隠さず指先に伝える。
「弘紀、この振袖は」
「母が若いころ着ていたものだそうです。叔父上は私の母の物を驚くほどたくさん保管しておりました。ほんとうに母のことを大事にしていたのですね」
「弘紀の叔父上とは黒河藩の藩主のことか」
「聞いていますか、私の母のことも」
「田崎から少しだけ、美しく強い人だったと聞いた」
面影が修之輔と似ているとも言っていたが、これを口にすべきかどうか迷っているうち、弘紀が、修之輔様と少し似ていたかもしれません、と言って微笑んだ。他の誰でもない弘紀がそういうのなら、そうだったのだろう。
「貴方が私の出自を聞いて、去って行ってしまわないかと」
それが心配だったのです、と修之輔の胸に寄り添う弘紀が云う。
「弘紀は俺の過去の話を聞いて、それでも俺を好きだと言ってくれた」
同じ事だ、と弘紀の指に自分の指を絡めて修之輔は云った。
受け取ったものを返すだけ。返されたものを受け取って、そんなやり取りをいくつも重ねて、心を何度も重ねてきたのではないかと弘紀に尋ねる。
いずれ弘紀が否応もなく呼ばれるその時のことを今は忘れて、目を固く閉じて。このままずっと二人だけでこの明けない夜をと、どちらともなく囁いて、互いの体を抱き寄せて。
弘紀の背に伸ばした手が一瞬、引き攣った。
銃創が熱をおびて腫れ、痛みが出てきている。敏く気づいた弘紀が修之輔の腕の中から身を起こし、修之輔の着物の上から晒しの巻かれた場所に触れてきた。
「これは怪我、ですよね。どうされたのですか。今日の試合で打たれたものではありませんよね」
「いや、昨夜」
とまで言って、修之輔は田崎との約束を思い出した。言葉に詰まる修之輔の様子に何か察したか、弘紀は修之輔の袖をまくり上げ、傷に巻かれている晒を有無を言わさぬ勢いで外した。
「これは竹刀の傷ではないですね。刀でもなく。……これは、銃ですか」
返答を言い淀む修之輔に弘紀は質問を畳み掛ける。
「いつ」
田崎の顔を思い浮かべ会談が終わるまではと言われた言葉を思い出した。
「昨夜、弘紀と別れた後に」
「何故知らせてくれなかったのですか」
「現場に居合わせた田崎殿とそのような約束をした」
「田崎が、ですか」
弘紀が、まだ報告を受けていない、と呟いた。
「人相、風体は」
「田崎殿は羽代藩の者だと言っていた」
「そうですか」
そう言うと弘紀は顔を伏せて何事か考え始めた。
紫藍の振袖は灯籠の光を映してさざめく光を零し、修之輔は夜の寒さから弘紀を守るように、その背中をそっと抱いた。
一心に思考を巡らす弘紀の横顔を見つめて、修之輔は、弘紀が自分の主であったのなら、仕えるべき主人であったらどんなに幸せかと思った。黒河藩に生まれ育ち、黒河藩主を頂とした身分の階級の中に生きるしかないのだと思ってきた。当たり前と思っていたその生き方に自分の選択の余地はなかったのだ。
もしこの弘紀を己の主とし、その側に仕える術があるのなら。
やがて顔を上げた弘紀は、強い瞳で闇のその先を見据えた。
その目に宿る光に怠惰に煙る色はなく、強い決意の下の覚悟が現れていた。それは若く、賢く、俊敏な獣が、今まさに己の牙や爪の鋭さに気づいた瞬間で、己の身に備わったその爪や牙はどれほどの力があるのか、自分の四肢がどれほどの迅さで駆けることができるのか、その力を試すときが来たことを悟った者の表情だった。
なのに、こちらを振り向いた弘紀は泣きそうな顔をしていた。
「私の考えが甘かったのです。遅かれ早かれ、また貴方は命を狙われる。私はもっと早くに自分の心を、自分の進むべき道を決めなければならなかった。判断の契機を見誤った私の責任です。貴方を永遠に失うところだった。貴方のことを、もう誰にも傷つけさせたりしません。そのために私は早急に為すべきことをなさねば」
いまにもどこか飛び立ってしまいそうな弘紀の言葉に、修之輔は思わずその身体を抱きすくめた。さっきまで二人だけの蜜月をと口説いていたのに、差し迫った予感に弘紀を抱く腕に力を籠める。
「どこにも行くな。ずっと傍に」
抱きすくめた腕の中、弘紀がうわごとのように囁いた。
「貴方は私のもの」
紫藍の振袖は弘紀の肩から床に滑り落ち、辻ヶ花の金糸銀糸が煌めきを畳に零す。露わになる首筋に口づけて。しなやかな足を付け根まで撫で上げて。
息を震わせる弘紀が縺れる指で修之輔の袴帯を解いた。
せめて今夜一晩だけでも、この熱を、互いに。
夜が明ける前、夢うつつに弘紀が修之輔に口移しで何かを飲ませた。水に溶かれた生姜糖の甘さの陰、ひりつく苦さが舌に残る。飲んでください、と弘紀の手が傷に触れながら促す。その手の優しく心地よい感触だけで痛みが和らぐ。
「必ず、必ず迎えに来ますから。待っていてください。貴方は私のものです。他の誰にも渡さない」
どうしてそんな泣きそうな顔をしているのかと理由を問いたかった。自分は今、弘紀のこんなに近くにいてこんなに幸せなのに。弘紀には笑っていて欲しかった。あの華やかで美しい笑顔を見るためなら。
「弘紀、俺はそのためならなんでもする」
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