第5章 海風の呼び声
第1話
目が覚めるとそこは弘紀の豪奢な寝室で、いるのは修之輔一人、弘紀の姿はなかった。寝室の襖の外に用意されていた盥に満たされた水と手拭で洗面し、身づくろいを整えた。いつも目が覚めるよりかなり遅い時間で、昼前のようだ。弘紀が戻る気配はなかった。
青海を睨む鷹の襖絵のある居室を抜けて廊下に通じる襖を開け、畳敷きの廊下に出る。廊下は庭に面した板戸が開け放たれており、木立の向こうに庭池が、その向こうに昨夜宴会が催された母屋が見えた。ひどく静かだった。離れは主の気配に満ちた昨夜の様子と打って変わり、今はまるで魂を失ったがらんどうだった。
弘紀はどこにいったのだろう。腕の銃創より、背中に残る弘紀の爪痕が疼く。
りん。
ふと、風鈴に似たあの音が聞こえた。振り向くと昨夜、修之輔をこの離れに案内してきた女中が手をついて控えていて、これを、といって修之輔の長覆輪の太刀と脇差を差し出した。渡されたそれらを袴帯に差しながら訊ねた。
「弘紀はどこに」
「朝早くにお発ちになりました。もうここに戻られることはないかと存じます。お支度が済みましたら我らが警護いたしますので、柴田大膳様の御屋敷に」
「どういうことだ」
「修之輔様の御命が狙われる可能性が高いのです。一度、道場へ戻って身の回りの物をお持ちください。弘紀様は大膳様に既に事情を説明されておられます。あとは大膳様にお聞きください」
急かされて本多の屋敷を出て道場へ向かった。先ほどの女中が後ろ三歩の距離で付いてくる。警護の必要はないと言いたかったが、銃の行方がいまだ不明な事と、これが弘紀の指示だと思うと強く拒否はできなかった。
道場の門に着いて異変に気付いた。
「昨夜未明に火がつけられました。道場とお住いの周りには油が、この門と通用口の前に薪が詰まれており、逃げ道を断つつもりだったようです。我らがすぐに消し止めたので建物にこれ以上燃えたところはありません」
ただ、と淡々と女中は続ける。
「人の気がないことを知った下手人が腹いせか屋内を荒らしていきました。こちらも回復できるところは我らの手で直してありますが修復が不可能な個所もございました。お許しください」
その言葉通り、住居の内部は一見そうとは分からなくても、どことなく違和感が拭えなかった。荷物といってもこれといって必要な物も大切な物もなく、目に留まった青海波の手拭いひとつを持って道場を出た。
大膳の屋敷に着くと、ここまで修之輔を警護してきた女中の姿は速やかに消えて、待ちかねていたらしい大膳に直ぐに中に通され、屋敷の奥まった部屋に案内された。
「大膳、これはどういうことだ」
「修之輔、少し休め。気が落ち着いたら説明する」
「聞かなければ落ち着くものも落ち着かない」
修之輔は立ったまま大膳に詰め寄った。
「修之輔、弘紀は羽代藩の後継ぎだ。跡目争いがいよいよ抜き差しならなくなってきて、国元に帰ったと聞いている」
「それは知っている。弘紀はいつ戻るんだ」
思わず修之輔は大膳の襟をつかんだ。大膳は間近で見つめてくる修之輔から目を逸らした。
「知らん。そもそも他藩のこと、俺たちが口出すことではないし、ましてや巻き込まれただけ迷惑な話だ。お前だってなぜ命を狙われたのか考えてみろ、ただのとばっちりだろう」
「だが」
必ず戻ってくると、迎えに来るから待っていて欲しいと、あの言葉は確かにこの耳で聞いた。大膳の襟から手を離す。
「とりあえずほとぼりが冷めるまで、ここにいろ。話はまた日を改めよう」
今の修之輔と話をしても不毛と悟ったか、襟を直して大膳はその場を去った。
どこから状況を理解したらいいのか分からぬままその日は暮れて、薄暗い部屋の中、気づくと部屋の片隅に衣装盆があり、その上になにか包みが置かれていた。包みの青海波紋は暗に弘紀に由縁があることを表し、急いで開くと中にたたまれていたのは昨夜弘紀が着ていた紫藍の振袖で、手に取ると滑らかに辻ヶ花の刺繍が畳に流れ落ちた。
その夜から、銃創から入った病が悪化して熱が体全体に広がり、修之輔は病床に付いた。
見舞いに来た師範が、しばらく道場は閉めることにしたからまずは身体を治せと修之輔に伝え、なんとか床から体を起こして礼を言ったが、そのまままた意識を失った。
熱が引いてようやく床を上げたのが五月の下旬、噛んで言い含める大膳に説得され、用意された部屋で書物を読んだり大膳相手に竹刀を打ち合わせたりして一日、二日と過ごしていると、大膳の屋敷を訪れる他家の息女に挨拶をしろと屋敷表まで呼び出されるようになった。
当たり障りのない挨拶だけで下がる時もあれば、大膳が同席しているときなどは琴を弾いたり歌を詠んだり、舞まで披露する者もいて、気が紛れると言えばそうだが少々騒がしくも思い、大膳に訴えた。
「そうか。まあ、あの者達も噂に名高い眉目秀麗の剣士がここに滞在していると聞けば一目見たいと思うのは分からなくもないぞ。しかもお前はまだ奥方を持たない」
「休め、というから休ませてくれると思ってここにいるのだ」
「確か昨日やってきた中田の姫君、めずらしくお前が声をかけたから気に入ったのかと思ったのだが」
「中田殿の姫君と言われても分からない」
「なんだ、着物の色合いが美しく良くお似合いだと、口説いていたではないか。あの赤い着物を着ていた女性だ」
「ああ、あれは赤ではなく蘇芳の色で」
弘紀が前に着ていて、と続く言葉を飲み込んだ。
「弘紀に会えないだけでこれほど辛いとは思わなかった」
「いずれ忘れれば慣れるだろう。去る者は日日に疎しというではないか」
事も無げに大膳が口にした、忘れる、という言葉は、それが全く念頭になかった修之輔の心に思った以上深く突き刺さった。
「弘紀はほんとうに他になにか、お前に言っていなかったのか」
「俺が頼まれたのは、修之輔を屋敷の奥において誰にも会わせるなと言うことだ」
「そうしてくれ。頼む、誰にも会いたくない」
「たとえ黒河藩主であっても会わせるな、などと言う言葉を鵜呑みにできるか。ここは黒河藩だ、羽代藩ではない」
なあ修之輔、落ち着いて考えてみろ、と修之輔の肩に大膳が手を置いた。
「この間の御前試合でお前の剣の腕前は重臣の方々にも広く知られるようになった。どこかのご息女を娶るか婿に入るか、どちらにせよこれまでより確実に良い待遇となる。以前に心を決めろ、と言ったが今がその時だ。心を決めて黒河藩に忠義を示して仕官しろ。今まで病だからと断ってきたが、藩主からの再三の呼び出しは仕官を願い出る好機だぞ」
そう言えば弘紀が気にしていた。黒河藩主は御前試合の前から修之輔のことを知っていたと。なぜだろう。浮かんだ疑問をふと大膳に訊いてみようと思った。
「そういえば弘紀が」
「弘紀のことは、もういいだろう」
語気強くそういって大膳は修之輔の躰を引き寄せ強く抱き締めた。
「修之輔、ここに、この藩にずっといろ。離したくないんだ。例え側にいれなくても俺はずっとお前を見守っていたい」
昔からの友人の腕の中で、修之輔は首を横に振った。
「仕官などどうでもいい。ただ俺は弘紀と離れていたくないだけだ」
肩に回された大膳の腕から力が抜けたのを感じ、その腕をそっと下ろさせた。
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