第2話
三本目の立ち合いは静かに始まった。
無暗に打ち込めばするどく突かれ、接近戦に持ち込めば目方で押し切られる。修之輔は下段に構えた。相手は中段、突きをいつでも繰り出せる体制だ。相手に突きを出させてそれを打ち上げ自分の好機とする。それが修之輔の作戦だった。もちろんそれを相手は読んでいる。双方が相手の出方を待ってしばらく、審判が何か言いかけたその切掛けで相手が動いた。
上向きの突き。下段から打ち払うのは難しい。身を捻って胴の前に構えた竹刀で突きを横から弾き、そのまま体制を戻して相手の胴を狙ったその時、昨夜負った銃創で左腕の力が足りないことに気づいた。弾きが足りない。
相手の竹刀の戻りは早く面を取られるその瞬間、かろうじて右手一本で持った竹刀で凌ぐことができた。体勢を低くしたまま二、三歩下がったのは昨夜の襲撃の余韻が残っていたからか、気が付くと防御が間に合わない相手の肩に渾身の力で竹刀を振り下ろしていた。
試合で振るう技ではない。修之輔の一瞬の焦りを相手は敏感に感じ、とっさに身を沈めて修之輔の竹刀を躱したため修之輔の竹刀は相手の肩を外れたが、その腕の付け根をえぐるように打った。ごつっという音とともに相手は竹刀を取り落とす。
修之輔は動きを止めた。肩を抑えて立ち上がった相手は痛みに瞑れた声で審判に左肩を脱臼した旨を告げ、負けを申告した。
御前試合は黒河藩の三勝で幕を閉じた。
その夜は、試合に参加した者が本多の屋敷に招かれて宴会が催された。修之輔はこれまで何度も弘紀を本多の屋敷の近くまで送ってきたことはあったが、中に入るのは初めてだった。最初の内こそ形式ばった挨拶が交わされたが、酒が入れば座はにわかに騒がしくなり、黒河藩、羽代藩の若者たちは同年代の気安さで互いに酒を交わし合った。試合に参加しなくても来賓に呼ばれた者の従者として初めて黒河藩に来たものもあって、むしろその者達の方が試合より花見の余韻に浮き立っているようだった。
人混みと喧騒に紛れ、利三と羽代の鉄砲使いが早々に姿を消したのは気づいていたが、弘紀の姿もまた見つけることができなかった。酒宴の最初のあたりでは本多の当主や大膳の父親、その他黒河藩の重臣達の顔ぶれに混じって遠目にその姿を見たと思ったが、ふと目を離した隙に見失った。その重臣達が揃って今この広間にいないのは、朝に田崎が言っていた羽代藩との密談が始まったからだろう。
弘紀はこの本多の屋敷に住んでいるのだからそのうち姿を見せるだろうと修之輔は己に言い聞かせた。
「秋生修之輔殿、まずは一杯」
そう言って修之輔の前に徳利を突き出して座り込んだのは羽代の主将で、寅丸と名乗った。昼間の試合を思い出し、修之輔も相手の盃に一献の返礼をした。
「しかし話に勝るな、秋生殿の花のかんばせは」
試合の時は防具を付けてて分からなかったからな、と寅丸は屈託なく笑い、だいたい初対面だと話はそこからかと修之輔はやや苦笑した。
「儂なんかだとな、寅丸という名なのにまるで狐の面相、目の細さだといわれるばかりで、生まれてこの方一度も美しいなどと言われたことがない」
そうは言うが常に笑ったような顔は相手に余計な警戒心を抱かせず、親しみやすさを感じさせた。言葉の端々は剽軽だが、頼って慕うものも多いだろう。何にせよ主将を務めた相手である。
「おっと、酒の勢いもあって軽い口をきいてしまったが、なに、そう年が離れているわけでもないだろう」
聞けば寅丸の方が一つ年下のようで、確かに年が離れているとは感じず、改めて口調を変えることもなく話が進んだ。
「最後の一本、あれは本当に秋生殿の本意であったのか。あれはそもそもあのような場で披露すべき技ではなかったのではないか」
「確かにあれはまったくの予想外だった。とっさに出てしまった。だいぶ手ひどく打ち込んでしまったが肩は大丈夫か」
完全には外れていなかった寅丸の肩は、すぐに心得のあるものが手当していた。寅丸は肩を慎重に回して、すぐに痛たた、と声を上げた。多少わざとらしい。
「ま、稽古をしていればこのくらいのことは珍しくない。それより秋生殿こそ腕を痛めていただろう。どうもそこが気になってな。お互い盤石の状態で今一度、試合をしたいと思っているのだが」
せっかくの相手なのにこれではどうももったいなくてなあ、などと寅丸はすでに手酌で酒を注いでいる。
「噂に聞いておるぞ、黒河藩の美貌の剣士は沙鳴きの剣を使うと。鞘を取らず振るう剣は果たしてそれが本当の姿なのか」
「さて。それよりそんな噂があるのか。目立ったことはしていないつもりだが」
「何の、今は全国どこにいっても誰それが剣の達人だ、あそこの道場はどうだとみんな寸評に忙しい。黒河に凄腕の者がいると知る者は知っている。隣藩ということもあって秋生殿とは一度、手合わせしたかったのだ。しかし黒河藩はよそ者の出入りに厳しくて、なかなか訪れて道場破りというわけにもいかなくてな」
「道場破りとはなかなか物騒な話だな」
そうは言ったが、道場破りに参った、と道場の門前に寅丸が狐のとぼけた面構えで立っている様子を思い浮かべると、それほど緊迫する光景ではないようにも思える。
「ならば羽代まで来てもらえばと思ってもいたのだが、黒河は藩内の者の出入りにも厳しいという有様でな。このご時世、なぜそこまで他の藩との交流を頑なに拒むのか」
ま、羽代と黒河なら致し方無いのかな、と寅丸は言葉を足した。
「それは別としても、藩の外に出るのは良いぞ」
良い具合に酒が回って来た寅丸の話は、どうやら剣と関係のないところに転がるらしい。
「儂はこの間、荷船に乗って長崎まで行ってきた。愉快だったぞ、長崎は。妙な獣の毛皮があったり、見たこともないすごくうまい菓子があったり、出会う奴等もおもしろい奴らばかりだった」
師範の書物でしか知らない土地の話に修之輔は興味を引かれた。
「そうそう、そこで異国の者から通辞を介して聞いたことには、西洋の獅子は、ほれあの神社の狛犬のような獅子とは違うというのだ。西洋でいうところの獅子は、虎よりもやや細身だが爪も牙も負けず劣らず、草原をかける頑健な四肢と黄金の毛皮、そして黄金のたてがみをもっているんだそうだ」
寅丸は、一度生きて動いているところを見てみたいなあ、などと子供のようなことを言い、修之輔もまた寅丸の語る黄金色の獣を見てみたいと思った。
「なんでも西洋の王族の家紋にはその獅子の意匠が使われるそうで、高貴な獣ということなんだろう」
寅丸の語る西洋の獅子の姿はどこか弘紀の姿と重なる。青い海を船で渡り、弘紀と共に黄金色の獣を探す旅に出る夢想は修之輔の心を躍らせた。
「世の中には知らないことがたくさんあるし、自分より強い者もたくさんいる。宮本武蔵先生の昔から剣の腕に覚えのあるものは諸国を放浪し、その腕を磨いてきたではないか。是非、秋生殿にも我らが道場に来てもらい、その剣の腕を存分に披露して頂きたい」
ただ、どうもこのところうちの家中も落ち着かない、といって寅丸が言葉を切る。盃に酒を足そうとするが徳利をひっくり返しても酒は出てこず、向こうにいる仲間に酒を持って来い、と声を掛けたが聞こえているか怪しかった。修之輔が傍にあった徳利を寅丸に渡すと、これはかたじけない、と寅丸が大仰に手刀を切って礼を言い、やや声を低めて羽代の現状を語りだした。
五年前、世継ぎを巡って羽代藩主の身内で人死にが出た。
病弱で子のない現当主の後継を巡って先代の奥方と側室とは名ばかりの妾が、それぞれの御子のどちらを世継ぎにするかで争ったのだという。
奥方は武家の姫君、妾は町の豪商上がりだが、家中には苦しい家計をその豪商から借りた金で何とか賄っている者もいて、羽代家中が二つに分かれたその挙句、妾が奥方を城中で刺し殺した。それは酸鼻を極める現場で、駆け付けた家中の者によって妾もその場で斬られたという。妾は死後ではあったが罪人としての裁きを受け、その子は剃髪して仏門に入った。
羽代藩の跡継ぎを巡る騒動は幕府に知られることになり、監督不行き届きを咎められた現藩主の改易も止む無しと思われた。改易されて藩主が変われば、今の藩主に仕えるものはみな職を失い浪人となる。妾の子を世継ぎに担ぎ出そうとした勢力は一時担ぐ神輿を失って沈静したかと思いきや、今度は幕府の指示に大いに従い新たな藩主の元で職を得ようと勢いを得た。
その後、江戸表の懸命の働きと後任として据える人材が不足している幕府の内情から、直ちに藩主改易という事態は避けられたのだが、上方派と幕府派に分かれがちな世相を反映して、次の藩主に先代の奥方の子を推す一派と、幕府が任命する後任を推す一派に分かれ、軋轢が深まっている。
「そんな上の方々の右往左往に巻き込まれ、割を食うのはいつも下っ端の儂らだ」
寅丸が口を尖らす。
「そもそもこの試合に出る者も当初とはだいぶ変わったのだ。先鋒と中将、副将は元々別の者だったが、それが出立の当日になって急遽、変更させられた」
不平そのものの口調だが、この変更には羽代家中の対立が関わっていることは寅丸にも察せられたようだ。
「前々から試合の準備をしていた者は拍子抜けだし、しかも変更されたそのうちの一人があろうことか昨夜から行方不明とは、呆れるにもほどがある。いったい上の方々は何を考えているのか」
修之輔は相槌を打つのも躊躇われ、黙って盃の酒を干した。どこかで何度か聞いたこの話、確認しておきたいことがあった。
「寅丸殿、その話は羽代の家臣どなたかでなく、藩主ご自身のことか」
「ああ、家臣の規範となるべき藩主のご家族がああいった問題を起こしてしまっては隠蔽も何もあったもんじゃない」
「先代藩主と武家の姫君との間に生まれた御子の名は」
「弘紀様だ。藩主の名字は
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