第4章 水面の桜片

第1話

 御前試合が行われる城下、玄黒寺は、歴代黒河藩主の菩提寺でもある。四月下旬、春の遅い黒河藩の桜は今が盛りで、玄黒寺境内は植えられた百数十本の桜に薄紅色の雲が湧くようだった。

 境内の御影堂には五色の幕が下げられ、設けられた観覧席に藩主と藩主の家族、一段下がって家臣とその家族が座している。黒河藩家中の花見を兼ねたこの催しは、御簾の向こうに参列する藩主奥方や家臣の子女の着物も艶やかに、厳しい冬を越して春を迎えたこの藩の人々の気持ちを否が応でも浮き立たせていた。

 

 試合の前に藩主と重臣が並ぶ控えの間で、試合に出る一同が介した。重役重臣、いずれ修之輔には縁がなく見知らぬ顔が並ぶばかりだったが、ふと頭に兆した、この中に己を犯した者がいるやもしれぬ、という囁きには固く耳を閉ざした。

 この試合の一切の仕切りを任された黒河藩筆頭家老の本多家当主が口上を述べ、試合に出る者の名を読み上げる。黒河藩の先鋒として最初に名を呼ばれた利三の顔色が悪いのは、昨夜のことを思えば当然だ。

 試合は黒河と羽代、お互いの流派の違いを勘案し、防具は面と胴のみ、小手は一本と取らない事などが定められている。双方五人ずつが試合し、各試合は三本先手が勝ちとなる。

 主将である修之輔は、すでに確認してある説明を聞きながら、横一列に並んだ先にいる弘紀の方をちらと窺った。

 

 今朝、修之輔が紋付袴に大小を佩いて道場の門を出ると、表に田崎がいた。

「昨夜の始末を報告したいと思ってな」

 田崎は話しながら参ろう、と修之輔を促し歩き始めた。

「修之輔殿を襲った賊は四人、うち一人は黒河藩の者でこれが手引きをしたと思われるが、この者、昨夜伺った広川利三で間違いないか」

 修之輔は頷いた。

「一人は修之輔殿に切られて、一人は膝を割られた。そして最後の一人は無傷か」

「その無傷の者が鉄砲を撃ちました。あの暗がりであれだけ撃てるとはかなり手慣れた者かと」

 田崎は少し間を置き、修之輔に告げた。

「昨夜、修之輔殿を襲ったのは我が羽代藩の者。切られたのは本日、御前試合に出る予定の者だった。なので本日の試合、羽代は代役を一人立てる」

 思わず、横を歩く田崎の顔を見る。

「実は本日の御前試合、黒河藩と羽代藩の会談のために我らの働きで仕組んだもの。今の時勢、幕府の許可なしに他藩と秘密裡に会合することは危険だが、羽代藩の存続に関わる事態にそう言ってもおられず、御前試合を隠れ蓑に会合の席を設けることにしたのだ」

 藩の機密に通じる話を田崎は事も無げに口にする

「今日この日のために入念に準備をしてきたのだが、我らが黒河藩と接触することを妨げようとする者たちが羽代藩内にいる。その者達が昨夜、修之輔殿を襲ったのだ」

 ようは仲間割れだ、と田崎の声に自嘲が滲む。

「この藩内に顔が知られていない羽代藩の者達ならともかく、黒河藩の主将のそなたは家中に知られる美貌の持ちぬし、その身になにかあっても代役を立てるのは難しい。幕府の目を欺くためには、あくまで御前試合が滞りなく執り行われることが重要なのだ。この仕掛けは我らが黒河藩に無理に持ち掛けたもの、手駒が欠ければ黒河藩はすぐに手を引くだろう。だから昨夜、修之輔殿が無事であって本当に安堵した」

 田崎は一度言葉を切り、一呼吸おいてから次の言葉を継いだ。

「そのような事情のため、どうか昨夜あったことは内密にしてほしい」

 藩政の上部にいる者達がどのような思惑で動いていようと、末端である修之輔がすべきことは黙っていること、それだけだった。

「羽代藩内部の混乱がここで表沙汰になるわけにはいかない。せめて今夜、黒河藩との会談が終わるまで修之輔殿一人の胸にしまっておいてほしい」

 だがこれまでの話だけでは田崎がなぜ羽代藩でそこまで大きい任務を課されているのか、弘紀がなぜ羽代藩の一部の者に恨まれているのか、その理由が分からない。そもそも田崎は弘紀の家督相続の準備のために黒河藩に来たのではなかったのか。田崎に尋ねようとして、既に二人は目的地である玄黒寺に着いていた。


 大きく開け放たれた山門の向こう、満開の桜が視界を埋める。


 弘紀は先に来ていて、一人、桜の木を見上げていた。朝陽が映る桜の花の中、弘紀の面差しには昨年までのいかにも子供らしい雰囲気は消えつつあり、気品ある清廉な青年の面差しに変わろうとしている。黒の紋付羽織に鮮やかな青の小袖、灰色袴の弘紀の姿が満開の桜の中に佇むと、どのように絢爛な風景もそれは弘紀の背景に過ぎなかった。華やかな錦絵にも似たその光景に、修之輔は隣に田崎がいるのを忘れて見惚れた。

 昨夜、弘紀を愚弄した男が夜道に撒き散らした血と臓物を、そして己が着物に染み付いた血糊の生臭さを思い出す。弘紀をあの血塗られた闇の中に立たせてはいけないと、白く眩しい光の中、その目に映るのは美しいものだけであってほしいと、強く思った。それはどこか祈りにも似た感情だった。

 田崎が弘紀に近づいて一礼して、先に中で用意をしていると言ってその場を去った。


 音もなく花弁が舞う桜の下を歩いて弘紀に近づく。その端正な、黒く光る澄んだ瞳に己の姿が映っている、ただそれだけのことがこれほど自分を幸福にするとは思わなかった。

「とても綺麗で、いつまでも見ていたくなります」

 弘紀がその目に柔らかく笑みを浮かべて修之輔に話し掛けた。

「ああそうだな、本当に綺麗だ」

 修之輔は弘紀の髪にかかる桜の花弁を指で摘まんだ。乗せたままでも可愛らしいが、口実を作って弘紀に触れたかった。

「貴方のことです、修之輔様」

 弘紀は修之輔に体を寄せ、その胸にそっと手を当てる。貴方、と弘紀に呼ばれたのは初めてで、修之輔の胸の内はざわめく。

「貴方のことになると判断が狂う。いつか取り返しのつかないことが起きそうだと、ふと怖くなる時があります」

 珍しく睫毛を伏せて似合わぬ弱気にも取れることを言う弘紀の顎に指をかけて上を向かせた。いつもの手順。唇を重ね押し付け、向きを変えてもう一度。上唇と下唇をそっと食んでまた深く唇を重ねる。少しでも舌を絡めれば歯止めが効かなくなることは双方が分かっていた。


 高く上る春の陽に、風に運ばれた桜の花弁が境内の白い砂利の上を転がるように吹き過ぎる。防具を付けて白砂利の上、黒河藩、羽代藩の各々五名が揃うと、始め、の号令が響いた。

 御前試合の一戦目、黒河藩の利三と当った羽代藩の先鋒は、田崎によれば代役という事だったが気合で利三に負けることはなく、難なく二本を取って黒河藩に黒星がついた。

 次鋒戦、小柄な弘紀と大柄な相手の組み合わせは、その見た目で既に見物客は騒めき、弘紀が先手真っすぐに打ち込みに行ってあっさり面を取られると、良家の奥方たちから、あれ、あの背の差では可哀そうに、との声も聴こえたが、二本目でまた真っすぐと見せかけて途中足さばきで相手の出鼻をくじいて胴を打つと拍手が聞こえた。何をやっているのかが素人の見た目にも分かりやすいので、観客は弘紀の味方になるようだ。

 三本目で中段に構えた弘紀に相手が上から打ちかかると、修之輔と鍛えた沙鳴きの型もそのまま、弘紀は見事相手の竹刀を打ち払って逆に面を一本取った。見た目より力のいる技であることは教えた当人の修之輔が分かっている。

 礼をして防具を取った弘紀の凛々しい武家の子弟然とした容姿にも周囲の賞賛の目が向けられた。修之輔が列に戻る弘紀を労うつもりで合わせた視線は、勝利の興奮に潤むその瞳に絡められて、思わず己の身の内が煽られた。


 だがすぐに中将戦で前に出てきた羽代藩の者を見て、修之輔は眉を寄せた。膝を負傷している。防御に徹する作戦と見せかけて、実際動きの鈍い相手にあっさりと加藤文吾が二手を取ったが、ひどく不本意そうなのは致し方ないところだ。刺客を御前試合に出る者に仕立てて他藩に潜入させるのは確かに妙手だが、襲撃が失敗したことを考えに入れていない短慮さが羽代藩の混乱の深刻さを物語っているようだった。

 ここまでくると副将戦の大膳とあたる相手の背格好が、昨夜、修之輔に鉄砲を撃った相手と酷似しているのは驚くことではなかった。一本目に鋭い猿声で大膳を威圧したのは実戦に慣れた手管であったし、呑まれまいと大膳が打った面を甘んじて受けても、続く二本目三本目を同じ面で立て続けに取った辺り、相手を愚弄し礼に欠ける気配を隠そうとしなかった。

 

 いったい大将戦である自分の相手はどんな如何物なのかと修之輔が嘆息気味に立ち合うと、背格好は同じ程度、線が細い修之輔に比べて逞しくはあるがさほど差があるとは思えず、身にまとう雰囲気も春の陽気に春風駘蕩を地で行くようである。

 意外に思った修之輔は、まず一本目、定法で相手の力を量ることにした。中段に構えて剣先を揺らす。上か下か、右か左か。こちらの思惑を読んでその都度相手が手を変えるのが分かった。相手もこちらの力量を量っている。手をお互いに読み切ってあとは流れの中どれだけの応酬ができるか。

 先に仕掛けたのは修之輔で、向かって左、相手の体右側の胴を狙って打ち込むとそれは縦に構えた相手の竹刀に遮られた。すぐに下がって相手の反撃を躱し打ち込んできた相手の竹刀を上から押さえつける。相手が力にあかせて鍔ぜり合いに持ち込んできたので目方で負ける修之輔は一度大きく下がり態勢を立て直した。


 おもしろい。


 その感想が素直に修之輔の心に沸いた。相手の読みも技量も自分と同程度。ならばどれほどの技の引き出しを持っているかが勝負になる。相手も同じ考えだろう。

 剣先を再び合わせ、先ほどと同じ手順を踏んで途中、手首の返しで力の向きを変え相手の胴を取った。これはほとんど申し合わせの打ち合いで、次の一本は相手の手を見るものになる。相手も思惑を理解していて、一本を取られたことに動揺を見せなかった。

 二本目は相手の奇襲で始まった。踏み込んで繰り出す付きが異様に伸びる。下段から払うか上段で打ち取るか、逡巡して中段で相手の突きを止めた時、相手の体が半回転して修之輔は体勢を崩し、面を取られた。

これも相手と自分、双方の承知で、次の一本でこの勝負を決めると、一本目の立ち会いで決めていた。


 観客は流れる剣技の応酬に息をのみ、一本が決まるたびに歓声と拍手が起きた。

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