第4話

 試合を翌日に控え、黒河藩から出場する五人が揃って師範の指導の下で稽古を行った後、師範が壮行会をすると言って皆を喜代の料理屋に集めた。規律を重んじる師範なので、料理は十分に振舞われたが、酒は控えめだった。当初から居心地が悪そうで落ち着かなかった利三は、座が開く前に所用があると言って中座した。

 師範からは各自激励の言葉を貰い、盃で一杯酌み交わして解散となり、酒を好まない修之輔はそれはそれでありがたかったのだが、大膳と文吾は物足りないらしく、もう少し町の飲み屋で飲んでから帰ると料理屋の軒先で修之輔達と別れた。

 修之輔は、酒を飲みなれておらず頬を赤く染める弘紀を本多の屋敷まで送ることになった。

 

 道場の前の坂道を過ぎ、武家屋敷の並ぶ一角が月明かりに見えてきた辺りで弘紀の足が止まった。その肩が後ろを歩いていた修之輔の胸にあたる。

 弘紀が振り向くのと同時に修之輔はその躰を引き寄せ、道の横の土塀に弘紀の背を押し付けた。そのまま深く口づける。先ほどの酒のせいか、弘紀の吐息も紅くなった唇も、いつもより熱く柔らかく感じられた。

 片手で腰を撫で上げながら弘紀の両足の間に自分の片足を差し入れると、弘紀は上体を塀に預け、片足を軽く持ち上げた。お互いの体の中心が着物越しに触れ合う。口づけの向きを変えるたび、擦れ合うそこからさざ波のように快楽がもたらされ、いっそこのまま、と蕩けるように思う修之輔の唇をふと弘紀が避けた。

「修之輔様、お願いがあります」

 乱れる息を殺しながら、弘紀が修之輔に懇願する。

「明日の試合、私が勝てたら、最後まで――」

 抱いて欲しい、という言葉は最後まで続けずに、形よく弧を描く眉を軽く寄せ、長い睫毛の陰から瞳を潤せて弘紀がこちらを見つめてくる。もう一度強く弘紀の唇を吸ってその身を抱き締めた。分かった、とその耳に囁くと、弘紀がうれしい、と軽く身を震わせながら答えた。


 本多の屋敷の門が見えるところまで弘紀を送り、その姿が門の向こうに消えるまで見届けてから、修之輔は道場へと引き返した。手の平に、肩に、唇に、弘紀の体温が残っている。明日の試合のことより、この弘紀の感触にもう少し浸っていたかった。

 春の夜風にどこからか桜の花弁が吹き寄せてくる。

 

 突然、夜の空気の色が変わった。弘紀のことを考えすぎていたと気づいた時は手遅れで、周りをばらばらと四人の影に囲まれていた。三人は覆面をしていて既に抜刀している。

「こいつで間違いありません」

 抜刀していない一人、先ほど座を中座した利三の声だった。正体が分からない三人の覆面の男達に修之輔の面通しをしただけで、利三はその場を去った。

 覆面の男たちの背格好は見覚えがない。誰何しても無駄と判断し相手の出方を待った。

「初めてお目にかかるが名を名乗るわけにはいかない」

 一人が言葉を発した。

「しかし修之輔殿、よくもまあ、あの弘紀さまを篭絡したものだ」

 くっくっと低く笑う声が聞こえる。弘紀の名を呼ぶ声に滲む軽侮が、ひどく不快だった。

「女を仕向けても見向きもせず、剣の道一筋と思えば男に尻を振るか」

「やはり、その顔かのう、修之輔殿」

「夜目にも美しいその顔を傷つけるのは忍びないが、少し痛い目に遭ってもらわねば」

「手加減を間違えて命を貰ってしまうかも知らんな」

「恨むなら、身の程をわきまえない弘紀さまを恨め」

 何を言っているのか分からないが、ただ確信できるのは、この者達は弘紀に害意を持っている、ということだった。しかもたちの悪い。

 椿の長覆輪を袴帯から抜いて構えた。坂道の足場で修之輔の方が相手より上の位置にいる。有利だが数を考えると地の利は頼めない。切るべきは一人。

 どれにするか、だ。

 相手は修之輔の腕を知っているのか、すぐに間合いを詰めてきた。

 初太刀は向かって左、中段から打ちかかってきた刀を右半身を前にした中段で受け、上体ごと右に振り切ってそのまま相手の刀を弾き飛ばした。

 刀同士の打ち合いと思えば長覆輪の鞘の分、修之輔の刀身の方が重量があり打撃は重い。手から離れた刀を追って伸ばした腕は胴の防御を手薄にする。戻した刀身の勢いで相手の脇腹を薙ぎ、低いその姿勢のままで打ちかかる別の者の剣檄から身をかわす。半歩で体の向きを変えて打ちかかってきた相手の背後に回り膝を横から強く打った。膝を割られて転んだ相手の追撃はせず、上段の構えで切りかかる時機をうかがう残りの者の姿を目の端に捉え、指先で鞘の栗形の仕掛けを探って楔を外して、太刀を一気に鞘から引き抜いた。


 沙鳴きの名の本当の意味は、サナキという錬鉄の古称である。蛹の意味も持ち、鞘から抜いた錬鉄の真剣で初めて本来の沙鳴き、一撃必殺の剣技となる。

 いくら名刀であっても人一人切ればその脂で切れ味は格段に悪くなり、骨にあたれば刃も毀れる。沙鳴きは、真剣を抜く前に鞘のままの打撃で相手の攻撃能力を削ぐと同時に、刃こぼれの原因となる無用な接触から真剣を守る。そうして狙いを定めた相手ただ一人を確実に仕留めるための、多人数が敵となった時の必殺剣が沙鳴きの本当の姿である。鞘のままの剣術が本質ではない。同胞より線が細かった修之輔のために師範が考案したのは、防御に重きをおいて敵を一人に絞り、それを確実に屠る一連の剣技の流れであった。

 

 修之輔が太刀を抜いたその姿に、相手が一瞬、意表を突かれたかのように身じろぎしたその瞬間を逃さず、下から切り上げる。流石にこれを相手は打ち払うが、この時修之輔は刀の背で相手の刀身を受けて刃を守る。それは次の一撃、相手の左鎖骨に刃を打ち込むための動作であり、それはその相手を屠るべき相手と修之輔が定めたことを表す。刀を下から振り上げた勢いで二、三歩後ろに下がり助走の間を取る。

 人の骨は確かに固く、砕くまで打撃すれば刀も無事に済まない。だが一直線に鋭く入れた切込みに重い打撃を追い打ちすれば、切れ込みは亀裂となり骨は破裂する。そこからまだ一度も人身に触れていない切っ先を体内に刺し通す。

 今まさに修之輔が渾身の力で振り下ろした太刀で鎖骨を砕かれた相手は、そのまま心の臓を剣先に貫かれ、言葉を発することもなく絶命した。血しぶきを上げながら地に倒れ掛かるその躰を掴み、砕かれた膝の骨の痛みにうめく一人の目前に投げる。修之輔の刃先にかかった臓物が体の割れ目からこぼれ落ち、冷たい夜気の中微かな湯気を上げた。

 

 もう一人くらいは切れるか。

 

 血に塗れた太刀を握り直して上段に振りかぶる。角度も力加減もこれで良いはずだ。

 ふいにパァンと乾いた音が響いた。音の出所が分からぬまま本能で身を避けた修之輔の左腕をかすり、何かが物凄い勢いで闇に吸い込まれていった。痛いというより熱い衝撃がやや遅れてきた。

「短筒か」

 種子島より銃身が極端に短い。海の外にある国からそのようなものが持ち込まれていると聞いたのは、道場に通う者達の噂話だったか。しかし短筒にしろ種子島にしろ、銃をこの藩に持ち込むことは完全に禁じられている。強い不審を覚えた。

「修之輔殿、ご無事か」

 と、そう声を上げながら人が走り寄ってくる気配に、短筒を撃った男は膝を割られた男の肩を抱えて足早にその場を去った。後には死体が残された。

 近づいてきた声の主が田崎であることに気づいて、修之輔は構えを解いた。

 股立ちを取って駆け付けた数名の物に周囲の探索を行わせながら、田崎は自分の太刀の鯉口を切って鍔を鳴らした。キィン、と金属音が周囲に響く。

「追え。だが深追いはするな。相手は鉄砲を持っている」

 鍔の音が止まないうちに低い声で出された田崎の指示を受けて、暗がりに潜んでいた者が闇に消えた。


「修之輔殿、怪我をされたか。手当は必要か」

「鉄砲の弾がかすったが肉に至らず軽傷です。手当は後ほど自分で」

「そうか」

 田崎の表情が少し和らいだが、死体を検分していた者の耳打ちを受け、すぐに険しいものになった。

「何かこの者に心当たりがおありか」

 その修之輔の問いには答えず、田崎は死体のそばに寄って傷を検分した。

「この者は修之輔殿が切られたのか。いや、凄まじい太刀筋。黒河藩きっての剣士の評判は伊達ではないな」

 修之輔の質問に答えるつもりはなさそうだった。

「修之輔殿は明日、大事な御前試合に出られる身の上、どうかこの場は儂にお任せ下され。人を付ける、先ずはご自宅に戻られよ」

 有無を言わさぬその様子に事情があることは察せられたが、それを聞いても尚答えは貰えないだろうことも分かった。ならばと、場を任せてこの場を去る前に頼みたいことがあった。

「弘紀にはこのことは」

 田崎は修之輔のその言葉の先を察した。

「今夜これからすぐにはこの事は伝えぬ。ご安心されよ」

 その答えで満足し引き下がるしかなかった。修之輔は見送りを断り、田崎に一礼した。

 その場に背を向けて去る前、長覆輪の鞘を道端から拾い上げる。月明かりでざっと眺めたところ、弘紀が結んだ下げ緒に血の穢れはなく、それを見て修之輔は安堵の息をついた。


 夜の底に闇が淀む月明かりの下、桜の花弁が数片、風に紛れる。半身を血に染めた修之輔は長覆輪の鞘に太刀を収め、一点の曇りもない白皙の美貌に穏やかな微笑みを浮かべながら垂れる下げ緒を愛おしそうにその指に絡めた。

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