第2話

 四月になると桜の前に黒河藩の里には杏の花が咲く。城下にはあちらに一本、こちらに二本とまばらだが、その紅白、桃色の花の色と風に漂う香りは紛れない春の到来を知らせる。


 その日、訪ねてくる者があるからと午前の稽古が終わると弘紀は本多の屋敷に戻り、入れ替わるように大膳がやってきた。御前試合に絡んで、本来の藩籍を明らかにした弘紀に関する書類のやり取りがおかしい、という。

「あいつは羽代藩の者だろう。これまで何故か滞っていた戸籍改めの書類が下の取り決めを無視して直接、藩主決裁で降りてくる。公事方の加藤も首を傾げていたぞ」

「中のことを言われても俺には何も分からないが、急ぎのことだったからではないのか」

「急ぎだからと書類を直接藩主に上げていればきりがない。我々が目を通して振り分け、ある程度めどを立ててからお伺いするのか常だ」

 そう言われても、仕官したことの無い修之輔にとって、やはりそういった話はどう判断したらいいのか見当もつかなかった。

「黒河藩に二年近く滞在しているのにも関わらず、役目もなく、羽代藩籍を返上していないという事は、弘紀は国元へ戻るつもりなのだろう。ひと月後かもしれない。三年後かもしれない。いつかは分からぬが遠いことではない。あまり深入りはするな」

「弘紀から離れろということか」

「今すぐと言うわけではない。いずれ心を決めておけという事だ」

 大膳に言われるまでもなく、それは修之輔の心に引っ掛かり続けていることである。

「なあ、修之輔。俺はお前のことを十分に買っている。剣の腕前はこの藩の中で比類ないのに、仕官せず、禄も役もないお前のこの状況が歯がゆくて仕方ないのだ。お前はこのまま道場の師範代として終わる気か」

 突如、自分でも何が切掛けとなったか分からない憤りが修之輔の語気を強くした。

「俺はこの道場を出るつもりはない。仕官するつもりもない。どのように立派な武士に見えようと、腹の中に化け物を買っているような奴らを上役として、主として仕えるなど、絶対に断る」

 珍しく強い口調の修之輔に、大膳は黙した。修之輔は一呼吸置き、言葉を足した。

「それに、そのことと弘紀のことは、別の話だ」

 双方、破りがたい沈黙がしばらく続いた。


「お頼み申す」

 その時、門の前、表通りから呼びかける声が聞こえた。座敷に大膳を残したまま、修之輔は無言で立ち上がり、門に向かった。


「久しぶりにお会いする。変わりなさそうでなにより」

 そういって一礼するのは、昨年、弘紀の国元に一度戻っていた田崎だった。その背後に人足に牽かれた荷車があって、米俵と味噌樽、他に筵に包まれた箱がいくつか積まれているのが見えた。

 後から大膳が一礼し、出て行った。来客中だったか申し訳ない、と田崎が一言詫びた。

「本多殿から弘紀様の様子については度々お知らせ頂いている。かなり伸び伸びと過ごされているようで、国元でも弘紀様の回復を喜んでいる。これも修之輔殿のおかげと感謝しておる」

 そこでといってはなんだが、と荷車を振り返る。

「どうもその本多殿からの書状に、弘紀様が修之輔殿に作ってもらったあれが旨かっただの、これをまた食べてみたいだのというのが頻繁に出てくる。もしや修之輔殿の台所を荒らしてはいないかと思い、現物で申し訳ないが米や味噌など持って参った。受け取ってもらいたい」

 断らないでくれ、この荷物を持って帰るのは面倒だと真面目な顔で言われると断れなかった。


 少し話がある、という田崎を、先ほどまで大膳がいた座敷に通した。

「弘紀様の国元が羽代藩であることはもうご存知か」

 話の初めにそれを確認され、修之輔は知っていると答えた。母上のことも、と聞かれ、それにも頷いた。田崎はそうか、と短く答え、視線を格子窓の外に向けた。春の陽の光が柔らかく差し込んでいる。

「母上が亡くなられたとき、弘紀様はひどく衝撃を受けられて、しばらく食事を摂ることもできなかった。かろうじて流し込まれるように与えられた水だけは飲むという有様で、同い年の子どもがすくすく育つ間、弘紀様はかろうじて生き延びている状態だった」

 まわりの音に怯え、女性の声にも怯え、体を丸めて震えていたという。

 暗い部屋の中に蹲っていた過去の自分の姿が一瞬、重なった。

「弘紀様を生かしたのはご自身の強靭な生命力だ。最初の衝撃を耐えてしばらくすると自分で水を飲むように、ついで食事も摂れるようになった。身体の回復は早かったのだが、心の回復が少し遅れて、その間、母上の記憶が残る羽代から離れた場所で過ごされた方が良いだろうという事で、こちらに来たのだ」

 こちらに来てあれほど元気になられて、本当に良かったと田崎は繰り返した。

「弘紀様の母上は美しい方で、やさしげな風貌ながら苛烈な運命とそれに抗う強さを持った方だった。まだお若くて亡くなられたのは、本当に痛ましいことだった」


 辛いことがあったら、甘いものを一つ。


 そう、弘紀が自分の母の言葉を修之輔に伝えた夜のことを思い出す。生姜糖の甘さと弘紀の唇の柔らかさが思い出され、ふと指先を唇に触れた。

「そうだな、弘紀様の母上の環姫は、少し修之輔殿に面差しが似ていたかもしれない」

 そう語る田崎の声音や顔に、珍しく僅かに私的な感情が透いて見えて、彼が生前の弘紀の母親に抱いていた密やかな思いが滲むようだった。いずれ過去の想いなのだろう。田崎の弘紀への献身はその想いに根差しているのかもしれない。


「さて、ここからが本題なのだが、この冬、弘紀様のご本家の家督を継がれていた兄君が重い病にかかった。元より病弱な性質で、次の冬までに何とか本復しなければ年を越せないかもしれないとまで言われている」

 何故田崎はこの話を今、自分に聞かせるのだろう。疑念が脳裡を掠める。

「兄君には子がなく、このままではお家が断絶してしまう。そこで万が一のことがあった場合、すみやかに弘紀様が家督を継げるよう、弘紀様の身の回りを整えるためにまたこちらに来たのだ。しばらく滞在することになると思う」

 弘紀を羽代に戻すのではなく、何故他藩である黒河で準備をするのか。田崎の話にはいくつか分からないところがあった。

 しかしそれらの疑問を言葉にする前に、田崎が、おっとこれは長居をしてしまったか、と立ち上がった。聞けば、まだ弘紀のところに顔を出していないらしい。確かにあの食料を牽いて本多の屋敷まで坂道を上がりまた降りてくるのは骨が折れる。坂の途中で置いていきたくもなるだろう。

「弘紀様を待たせてしまっているやもしれない」

 田崎は念のため、といい、持ってきた米と味噌をざっくりと一合ずつ取り分けた。持ってきておいて申し訳ないが使うのは明日からにしてほしい、検分が必要だという。了承して、田崎を門の外に見送った。自分の国元から持ってきた食糧に毒見が必要となる状況は、修之輔の想像の範疇を超えた話だった。

 門を出る前、田崎が独り言のように修之輔に言い残した。

「こんなことを言うのは不謹慎ではあるが、兄上が亡くなられたら弘紀様には身近に血縁はおらず、またしばらく国を出ていたので親しいものもいない。誰か弘紀様のそばにいて支えてくれる者があればと思うのだが」


 その日を境に、弘紀を取り巻く状況に何か変化が起き始めたことに修之輔は気づかざるを得なかった。

 道場での振る舞いにはほとんど変化はなかったとはいえ、これまで三日と空けず修之輔の住居に泊まっていた弘紀が、用事があると言って帰ることが多くなった。そのうち毎日来ていた道場にも一日おき、二日おきと日を置くようになった。弘紀は来た日には必ず修之輔と唇を重ねることを望むので、修之輔にとって弘紀に触れられるその時が、まるで息継ぎのように感じられた。

 

 就寝前の見回りを済ませ、修之輔は井戸の傍で夜空を見上げた。御前試合まであと五日。一昨日の夜を最後に昨日今日と、弘紀の姿を見ていない。

 寝室に下がり灯りを消す。前のひと月程で弘紀と一緒に寝ることに慣れてしまい、一人で横になる寝床はひどく冷たく固く感じた。いつか弘紀が忘れていった青海波せいがいは文様の手拭いに、匂いが微かに残る気がして頬に押し当てる。

 弘紀の首筋を唇でなぞるとき、日向に似た弘紀の匂いと着物に焚き染められた香の香りが相まって、春の野原を思わせる良い匂いがする。いつももう少しこの匂いを嗅いでいたいと思うのだが、だいたい弘紀が焦れて接吻を求めてくる。

「遅かれ早かれ、いずれ弘紀は国に戻る」

 そう言った大膳の言葉を思い出す。弘紀に聞いてみたいと思うが、聞いてそれが本当だと、親しくいられるのはそれまでの間だと告げられることは考えただけでも酷い苦痛だった。

 では、どうするのか。ここにいてくれと、ただ弘紀に懇願するのか。自分がそう言える立場だとは到底思えなかった。


 ふいに夜の静寂を突いて坂道を駆け下りてくる馬の足音が聞こえた。城から出された早馬なら何か城内に異変があったのではないかと目が覚める。駆けてくる馬の足音は、しかし坂の下の城下町へは向かわず、どういうことか道場の前で止まった。

 では用事があるのはこの道場か。修之輔は急ぎ立ち上がって刀を取り、灯りを持って速足で門へ向かった。


 門に近づくとその気配を察して、門の向こうから修之輔を呼ぶ声が聞こえた。弘紀だった。急いで門を開けると弘紀はいきなり修之輔に抱きついた。灯りに浮かぶ弘紀は蘇芳すおう色の小袖に紋付羽織、青鼠あおねずの縞袴をつけ、いかにも良家の子弟という風情だった。手から取り落したのは手綱で、後ろで馬が鼻を鳴らしている。

「弘紀。どうした、今夜は本多殿の屋敷で用事があるのではなかったのか」

 門の外にも関わらず弘紀は抱きついたまま離れようとしない。肩を抱え、まず弘紀を門の中に入れる。修之輔は馬の動かし方を知らないが、弘紀の後をついて門の中に入って来てくれた。道場の敷地には馬を繋いておける物はなかったが、門の閂を締めればそうそう勝手に外に出はしないだろう。

 弘紀の首筋に顔を付けて耳のすぐ近く、もう一度どうした、と訊いた。

「女に襲われそうになったのです」

 驚いて、怪我はないのか、相手は女一人か、誰か他のものは付いていなかったのかと聞くとそうではないらしい。年増の見知らぬ女に夜這いされたという。

 叔父に呼ばれた用事が済んで自室に戻って寝ようとしたところ、寝室にいつも身の回りの世話をする者ではない女がいた。怪訝に思って下がるように言ってもさがらず、どころか寝具の上に押し倒された。女の味を教えてあげましょう、と耳元で囁かれ、ほとんど反射で女の腹のあたりを蹴り上げて逃れ、その勢いでここに来たのだと言う。見れば着物もそこかしこ乱れている。

 年頃である弘紀にいずれ誰かが気を利かせて仕組んだことであろうが余計な事で、馬に乗ってきたのはその当てつけだとも言った。一応私の馬です、と言った辺り、完全に取り乱しているというわけではないようだ。

 端から見ればどこか滑稽で、むしろ弘紀に容赦なく腹を蹴られた女の方が心配されるのだろうが、弘紀の憤りには共感できた。先ほどから頻りに頬や腕を修之輔の体に擦り付けてくる弘紀を一度引き離し、正面から抱え直した。

「自分の意志を無視して誰かに体に触れられるのはとても嫌なものだから、弘紀が怒るのも無理はない。嫌な思いをしたな」


 少し間があって、腕の中の弘紀の体から力が抜けた。その肩を抱いて住居の中に入るよう促すと、大人しく座敷に上がっていつもの場所に座った。

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