第3章 沙鳴きの剣

第1話

三月に入ってすぐ、四月下旬の佳日に城下玄黒寺で御前試合が行われることが藩内に公示された。黒河藩から出る五人は、利三と弘紀、公事方の加藤文吾、大膳、そして修之輔であることも同日に示された。

 

 その日から、修之輔は弘紀に沙鳴きを教えることを告げて、木刀を使った形稽古を始めた。頻度は三日に一度程度で、まずは木刀に慣れるところからだった。

 竹刀は軽く、またその打撃は防具があればほぼ耐えられるが、実戦としては現実味がない。しかし木刀を使った形稽古は、その重さや打撃の強さが実際の刀と似ている。最初の内は防具を付けるよう弘紀に言い、修之輔は木刀を取った。形稽古で用いられる型を覚えることが当座の目標である。

 

 形稽古が始まると、弘紀はこれまで以上に道場と修之輔の住居に入り浸るようになった。

 午前中はこれまで通り同年代の者達と稽古し、午後は相手をしてくれる年長者がいれば打ち合う。適当な相手がいなければこれまでのように修之輔の住居で書物を読んだり草紙を眺めたりしている。

 時折稽古の合間に覗いて見るといない時があるのは、町に出かけているらしい。道場は黒河城から下る坂に沿って武家屋敷が立ち並ぶ一帯の外れにあり、坂を下り切ってすぐ、川に架かる橋を渡ると城下町が広がる。城に近い本多の屋敷より町に出かけやすく、弘紀は便利に使っているようだった。

 形稽古は午後の稽古が終わってから弘紀と一対一で行うので、夜が遅くなる。いつの間にか形稽古のある日は、弘紀に夕飯を食べさせてから帰らせることになった。

 

 そのきっかけとなったのは、御前試合公示の数日前のことである。修之輔が道場の門下生から選んだ候補者を師範に伝えに行った時、帰りがけに師範の妻の喜代が料理屋で余った食材を持たせてくれた。戻ると弘紀がまだ書物を読んでいて、夕飯を食べていくかと聞くと、修之輔の手料理と聞いて二つ返事で頷いた。それからだ。

 修之輔が日頃あつらえる食事は一人暮らしのこともあり至って簡素なもので、本多の家の食事の方が豪勢であることは分かり切っているのだが、それでも喜々として食べる弘紀とともに食事をするのは楽しかった。


「修之輔様はどなたから料理を習われたのですか」

 自分の膳から、菜と椎茸、油揚げの白和えが盛られた小鉢を持ち上げ、しげしげと眺めながら弘紀がそう尋ねた。

「お喜代様の料理屋で手伝いをしているうちにそれとなく、だな」

「ああ、お喜代様ですか」

 納得した様子の弘紀が白和えに箸をつけ、美味しい、と言う。風呂吹き大根も味噌だれを珍しがった。本多の屋敷でも出されるのだが、それはもっと冷めているのだと云い、舌を火傷しただとか騒ぎながら楽しそうに食べていた。

「この家にはお喜代様が使われていた食器や道具があって、なかでも道具は使わないと痛むのが早くなるから時間のある時に使ってみるようにしている。たしか焙烙鍋というのもあったか、使ったことはないが」

「その鍋で美味しいものが作れるのですか」

 弘紀が食べ盛りの年頃であるのは分かる。

「錦糸卵、という名だったか。その焙烙鍋を使って、ずっと前にお喜代様が作られていたことがあった。卵を溶いて出汁を入れ、薄く延ばして焼いたものだ」

「たまご、ですか。食べたことないです」

「町人や農民の方が良く食べるらしい。この辺りの民家でも卵を取るために鶏を飼っているところがあるのではないか」

「あ、それなら佐吉です。あいつ、いつも飼っている鶏の物真似をしてますから。そうか、佐吉に頼めばいいんですね」

 卵獲得を心に決めたらしい弘紀の顔を見て、これは近い内にお喜代様に卵料理の指南を受けてこなければならないなと、修之輔は思った。


 もともと竹刀での剣術に優れている弘紀は直ぐに木刀の感覚に慣れた。とはいっても竹刀とは重さが格段に異なり、取り回しだけで力を使う。基本の型の習得をできるだけ慎重に行い、今日からは沙鳴き独自の型を教えることになっていた。上方から打たれる太刀を返す技で、身長が低めで上段から打ち込まれることの多い弘紀にとって有用な技になるだろうと考えた上だった。

 基本の型を一通りさらってから、弘紀に木刀を両手で支えて持つよう指示した。加減はしたつもりだったが、力を載せて打ち込むと支えきれなかった弘紀の片手から木刀が弾かれ弘紀の腕を強く打った。すぐに木刀を拾おうとして拾いそこなう弘紀の様子を見て、修之輔は稽古を中断した。

 その場に座らせ防具を取ってやり、着物から腕を抜いて打った場所を確かめると、赤くはなってるが骨や筋を痛めているようではない。木刀を取り落したのは、いきなりの強い打撃に、一時的に腕が痺れてうまく動かなかったからのようだ。今夜の稽古はここまでにしよう、と弘紀に告げると、大丈夫だと弘紀は言ったが、ここで無理をすればより大きな怪我をする可能性がある。

 弘紀の使っていた木刀を拾い上げ、修之輔はふと己の首筋を伝う汗に気づいた。気温は真冬に比べて上がってきてはいるがまだ充分に寒く、かいた汗は直ぐに冷える。片肌を脱いで手拭で体の汗を拭いながら、そういえば弘紀も汗をかいていたな、と振り返ると、弘紀がさっきの場所に座ったままこちらを見ていた。襟どころか袖も直していない。


「どうした、やはり腕が痛いか」

 対面に座って身繕いを手伝ってやろうと手を伸ばすと、腕は痛くはないのですが、と、稽古の余韻が残るのか、少し上気した顔で言う。

「修之輔様の体はさほど厚いというわけでなく、むしろ細身なのに、どうしてあれほど強く打ち込むことができるのでしょうか」

 確かに、今露わになっている弘紀の肩は、その年齢にしてみれば十分に成長しているが、成人の修之輔に比べれば骨の太さも筋の付き方もまだ足りていない。弘紀の手を取って袖を抜いた自分の肩に触れさせ、自分は弘紀の首筋に手を触れると、弘紀の頬がいっそう赤くなる。

「必要なのは肉の多さではなく、動作に必要な筋が必要な場所についているかどうかだ。弘紀はまだこの辺りが痩せている」

 修之輔は弘紀の首筋から鎖骨を通って肩口へ、指先を滑らせた。肩に置かれた弘紀の手が、ぎゅっと握り締められる。

「あとは肩から胸も薄いな」

 手の平に感じる弘紀の素肌は汗ばんで吸い付くようだった。

「それから腰も細い」

 弘紀の口から洩れる声にならない声に誘われるように首筋に頬を寄せると、その肩から胸にかけて互いが直に触れ合った。耳朶にかかる弘紀の息が熱い。

「修之輔様」

 掠れる声で弘紀が囁く。なにか応えようとした修之輔の言葉は自身の喉の熱さに溶けて口に出す前に消えてゆく。引かれ合う様に唇を重ねてみたものの、この先、互いの熱をどうすべきなのか、分からなかった。ただ唇の端から濡れた音が漏れて、二人以外誰もいない道場の床に響いた。

 長い口づけに息の続かなくなった弘紀が顎を上げ、修之輔がその首筋に唇をつけると、弘紀の体に小さな震えが走った。弘紀の体をより近くに引き寄せて唇を首筋から鎖骨に、鎖骨からさらに下に、そして。


 道場の中を照らす灯明が一つ、消えた。


 不意に明かりの乏しくなった道場で、二人の目が合い、束の間見つめ合った後、どちらともなく絡んだ視線が逸らされた。


 修之輔は抜いたままだった弘紀の袖を直してやり、自分の襟も直した。立ち上がって、ここを閉めるからと、まだ座ったままの弘紀に手を伸べると、その手を思った以上に強い力で引かれ、膝を着くと胸に弘紀が身を寄せてきた。

「修之輔様、今夜はここに泊って行っても、良いですか」

 この前と、同じように。

  いつもの風鈴の音が微かに聞こえた。弘紀に、その音を気にする気配はなかった。


 剣の稽古をして食事を摂り、そして時々は同じ寝床で一緒に休む。弘紀とそうして過ごす日が増えていった。それは修之輔にとってこれまでで最も幸せな日々だった。

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