第2話
「大丈夫か」
外は暗くなり、残っていた者達も帰り支度を始めた頃、大膳に声を掛けられた。
「何が」
「さっき利三たちに絡まれていただろう。明日もあいつらは来るのか」
「無駄に絡むのはいつものことだ。明日は師範も来られる。大丈夫だ」
そう答える修之輔の顔をしばらく無言で見つめてから大膳は視線を逸らした。
「もう少し、頼ってもらってもいいと思うのだがな」
それに返事は返さず、修之輔は弘紀を探した。だが弘紀は既に帰ってしまったらしく、その姿を見つけることはできなかった。
総稽古の一日目が終わって道場に人がいなくなり、修之輔は道場の門を閉めるために外に出た。真冬の夜空に星が氷の欠片のように冷たく光っている。消し難い過去の記憶、思わず振るった沙鳴き。心の内のざわめきが止まない。波のように押し寄せる昏い感情を紛らわすために酒を飲める性質であったら、幾分かこの苦しみも和らぐのかとも思う。
ゆっくり息を吐き、己の白い息が夜気に消えるの見届けてから門の閂に手を掛けた。
と、門の前の通り、武家屋敷から続く坂道を走ってくる足音がする。目を向けると何か包みを抱えた弘紀がこちらに向かって走ってくるところだった。
さすがにこの時間の一人歩きは不用心で、息を切らしながら修之輔の前にたどり着いた弘紀にそう言うと、そうですね、なので中に入れてください、と半ば押し込むように門の中に入ってきた。
道場は閉めてしまったので、修之輔は弘紀を道場の裏手にある住居の座敷に上げた。茶碗に水を汲んで渡すと、ありがとうございます、といって勢いよく飲み干した。本多の屋敷から走ってきたのだろうか、距離はかなりあるはずだ。
弘紀はいつも道場で着ている練習着ではなく、黒の羽織に
「これは生姜糖という物なのですが、修之輔様は召し上がったことがありますか」
弘紀は箱から一つ包みをつまんで修之輔の手の平に渡した。
「いや、これは菓子か」
「はい、生姜の煮汁で砂糖を煮詰めたものです。母と縁のあった土地の者が毎年正月になると何箱か送ってくるのです。美味しいですよ。どうぞ召し上がってください」
促されて和紙の包みを開くと微かに紅色をした白い砂糖のかたまりが出てきた。齧ろうとすると案外固い。
「このまま口の中で溶かすのです」
そういって、弘紀が別の包みを取って慣れた仕草で自分の口の中に入れた。真似して修之輔も欠片を口に含むと、砂糖の甘さと生姜の香りが口の中に広がった。
「嫌なことがあってそれが頭を離れないときは、甘くて美味しいものを食べろと母から教わりました。辛いことがあったら甘いものを一口、と」
どこか懐かしげな口調で弘紀が言う。
「母上は国元におられるのか」
「いえ、五年ほど前に亡くなっています」
何気ない問いに思いがけない答えが返ってきた。
弘紀の年を思えば、病にしろ事故にしろ、いずれまだ若い死であったことに違いない。弘紀の伏せられた睫毛が微かに震えているのが見えて、それ以上の詮索は憚られた。
「そうか、つらいことを聞いてしまったな」
「大丈夫です。もうしばらく前のことですから。お気を遣わせてしまってかえって申し訳ござません」
湧いた湯で茶を淹れて弘紀に勧めた。静かに座って茶を飲んでいる弘紀の姿を見ていると、夕方のあの出来事について話しておくべきだという気持ちが強くなった。
「先ほどの利三のことだが、弘紀に嫌な思いをさせてしまった。同じ門下生同士、そういうことが起こらない様に監督するのが俺の役目なのに、すまない」
そう頭を下げると、弘紀は慌てたようにそれは違います、と言った。
「利三様はいつもああではないですか。特に私は気にしていません」
ただ、いつもよりひどかったですね、と続けた。
「修之輔様が気に障られているようでしたので、それが気がかりだったのです」
「利三が俺にああしてあたるのは理由がある」
「理由ですか」
「ああ。利三の言っていたことは、本当のことだ」
弘紀が持っていた湯呑を置いた。話し始めたら引き返すことはできない。言葉を選んで続けようとする修之輔の前に弘紀が口を開いた。
「無理に今、お話しされる必要はありませんが」
そういってこちらの顔を少し覗き込むようにするのは、修之輔の様子を心配してのことだろう。確かに今、自分は酷い顔色をしている自覚がある。
「いや、今、話しておきたい。いずれ誰かの口から弘紀の耳にも入るだろう」
口性のない噂話として弘紀の耳に入るより、自分から事実を話しておきたかった。
「少し長い話になるが」
半身をこちらに向けて聞こうとする弘紀の顔を見ることはできなかったが、修之輔はゆっくり話し始めた。
修之輔の父親は下級武士であった。生活は困窮していたが、同じような境遇の者達が半ば公然とする副業をしなかったのは武士の矜持というより単に不器用であったからだろう。酒をよく飲むようになった。
ろくな役目にもつかず昼間から城下に出て酒を求める下級武士に嫁が来るあてもなく、ただ剣の腕前だけは人より多少は長じていたので道場にふらりとよっては誰彼構わず勝負を挑み勝てば尊大に、負ければ捨て台詞を吐いて退散するといった、いわゆる鼻つまみ者であった。
そんな父のもとに母がやってきたのは単なる偶然に過ぎなかった。母は、城下の神社の祭礼にやってきた旅芸人一座の一人だった。隣の羽代藩出身だったらしいが、既に本人も自分が何処で生まれて育ったか忘れたと嘯く有様で、その日暮らしの流民の一人だった。
夏の祭礼の後、秋まで黒河藩にとどまるうちに修之輔を身ごもった。流されずに済んだのは修之輔の父親が腐っても武士であったから、それだけだった。明日も知れない浮草暮らしよりはましと踏んで父と暮らし始めた母は、すぐに自分の考えが甘かったことに気付いた。
父は金を稼ぐ術を持たず、たまに入る金はすべて酒代に消える。母は、修之輔の乳離れまではまだ着物や飾りを売って何とか凌いでいたがそのうち、旅芸人時代からの知り合いを介して男相手に金を稼ぐようになった。修之輔を道場に通わせ始めたのは、家で客を取る母の商売の邪魔にならないよう体よく追い払われたというだけのことだったが、これだけは父から受け継いだなけなしの美点で、修之輔は剣の才能を次第に伸ばしていった。
母が、そんな客の一人と身一つで駆け落ちし姿を消したのは修之輔が十四になる前だった。惚れた好いたということではなく、単に現状から逃げ出したのだということは修之輔にも察せられた。母の稼ぎで酒を飲み、遊蕩の限りを尽くしていた父はそれを機に行いが改まる兆候は皆無で、むしろ母に捨てられたといってより酒浸りになる有様だった。当然、金は直ぐに無くなり、無くなれば胡乱な輩から金を借り、母が残したなけなしの着物や装身具も家から消えた。
修之輔はまだ役目を貰えるような年齢でもなく、また町人でもないので己で日銭を稼ぐ手段もなく、見かねた師範が奥方の実家の料理屋の手伝いをすれば、少なくとも食事には困らないよう手配してくれた。
煮炊きの薪を割ったり、座敷の掃除をしたり、素直に働く修之輔はそれなりに役に立ち、時折、手が足りないからと女中に頼まれ、座敷に料理を運ぶ手伝いもした。
ある夜、剣の稽古と料理屋の手伝いに疲れた体で家に帰ると、父が客を連れて来ていた。一人は見覚えがある。いつも家に金を取り立てに来る鼠のような風体の悪い破落戸まがいの男だ。もう一人は見覚えがない。二本差しの太刀を見れば武士で、しかも父より身分は高そうだった。だが高潔さは微塵も感じられず、やけにじろじろとこちらを眺めてきたので、修之輔は思わず眉を寄せ視線を逸らせた。
「ふん、十分に上玉ではないか」
「母親似でしょう。これの母親もだいぶそれで稼ぎましたから」
知らない武士とネズミのような男がにやついた口調で話す声がひどく耳障りだった。父は何も言葉を発することなく、いつものように茶碗で酒を飲んでいる。ふいに、ここから去るべきだと強く感じた。
手伝いをさせてもらっている料理屋は暖簾を下ろしたばかりだ。まだ戸を叩けば誰か開けてくれるだろう、あるいは道場の片隅にでも、少なくとも今はここから逃げるべきだと、踵を返そうとしたその時に、父がこっちへ来い、と修之輔を呼んだ。
逆らえず座敷に足を踏み入れると、武士の隣に座れという。この狭い座敷で、それではその武士と体を触れずにはいられない。それはひどく嫌な事だった。かろうじて武士の斜め後ろに座ろうと身をかがめたとき、乱暴に腕を引かれた。逃れようと反射的に躱そうとする体を武骨に太い腕が締め付けその胸に抱き寄せられた。どういうことだと声を出せないまま父を睨むと、父は修之輔と目を合わそうとせず、借金取りの男とともに立ち上がった。
「じゃ、旦那、私どもはちょっと外で飲んできますから」
その言葉だけ置いて、戸が閉ざされた。状況が飲み込めず身動きも封じられた修之輔の着物の襟が男の手で無理やり広げられた。素肌に触れた他人の手の感触に激しい嫌悪が湧いた。拒絶の叫び声は力任せにねじ込まれた猿轡に封じられる。腕も足も、自分より圧倒的に強い力で抑え込まれ押し倒され、それでも抵抗を止めない修之輔の耳に武士が言った。
「そう暴れるな。儂はそなたをそなたの父から買ったのだ。満足した分のお代で結構ですと言っておったぞ。そなたの態度次第で値段が決まる。親には孝行を尽くせ」
父が自分を売った、という事実と、孝行をしろという武士の言葉が頭の中で上手くつながらなかった。
それ以降のことはよく覚えていない。思い出したくもない。混乱で竦む修之輔に行われたすべての行為は苦痛と嫌悪に満ちていた。ぬめぬめとしたものが体を舐め回し、節だった指が、修之輔の腕を、足を、押し広げる。武士は勝手に息を荒げ、恐怖と苦痛で強張る修之輔を力任せに貫いた。苦痛に漏れる呻き声をどうとったか、すべてが終わると武士は戸外で待っていたらしい父が喜色を声に滲ませるほどの金銭を支払った。信じがたいほどの体中の痛みより汚辱感を拭い去りたい一心で体を洗い清めた修之輔が座敷に戻ると父は座敷に続く寝間でいびきをかいて寝ていた。
何もかもが悪い夢のようだった。寝具にもぐりこんだ修之輔は何も考えないよう、何も感じないよう、ただ深手を負った動物の本能で身体を丸くし、気を失うように眠りに落ちた。
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