第3話

 本当の地獄はそれからだった。思った以上の多額の報酬に味をしめた父は、その後も見知らぬ武士を連れてきて昼夜構わず修之輔を抱かせた。ひどく身なりの良い武士もいれば、一見普通に見える者もいた。要は外見など全く意味を持たないという事だった。父が修之輔に客を取らせるやり方は陰湿で、道場に通い料理屋の手伝いをする修之輔の周りの人間に気づかれないよう五日に一度程。頻繁ではないが心身の回復を待たずに継続される仕打ちに、次第、修之輔の傷は深くなっていった。

 道場で無心というより執拗に竹刀を振るい、料理屋の仕事が終わっても家に戻るのをためらう修之輔の様子に、師範は何か感じたのか、時折空いている料理屋の住み込み部屋に修之輔を泊めてくれた。しかし師範に現状を訴えることはできるはずもなく、ある夜、まだ客が残る料理屋の店先に父が来て、辺りをはばからぬ大声で修之輔を呼び出し家に連れ戻してからは、客商売をしている店に迷惑もかけられないという思いが強くなり、泊っていけと奨める申し出を断るようになった。

 そしてこの頃から、父は修之輔に客を取らせている間、自分は家の戸の外にいて、修之輔が逃げ出さないようきつく見張るようになった。 


 そんな日々が半年ほど続いたある日、父が連れてきた客を見て修之輔は息をのんだ。道場で顔を合わせたこともある三つか四つほど年上の先輩で広川才蔵という者だった。上級武士の子弟ではあったが腕前はさほどでなく、年下の修之輔に勝ったことは一度もなかった。

「へえ、本当にお前を抱けるんだな」

 薄い寝具の横に座る修之輔の顎を掴んで上向かせ、相手は一言目にそう言った。

いつもと同じ。したいことをさせて帰ってもらうだけだと自分で自分に言い聞かせるが、混乱と胸騒ぎが収まらない。相手は雑な動作で自分の袴を取ると、無遠慮に修之輔を押し倒し上に覆いかぶさった。

「美しいのは顔だけではないのだな。肌の心地も匂いも、思っていた以上だ」

 そういって襦袢一枚を着るだけの修之輔の合わせや裾から手を差し入れ、体中を弄る。自分の意志でなく他人に肌を触れられる嫌悪感はどれだけの人数を相手にしようと薄らぐことがなく、相手が修之輔の快感を引き出そうと執拗に性器に触れてくるのにも吐き気しか感じなかった。

「お前を抱きたがっているのは道場にも何人かいる。気づかないのか、そいつらの目に。その顔、首筋に流れる汗、しなやかな体。欲情の目で見る者は多いぞ。実際、このように触れてみると見た目以上の美しさ心地良さだな」

 そういえば、とさらに下らぬ言葉を吐き続ける相手に侮蔑の想いだけがますます強まる。

「お前とよくつるんでいる柴田の息子、柴田大膳といったか、あいつも一度くらいはお前を抱いてみたいと言っていたぞ」

 何を言っているのか、頭が理解を拒否した。幼いころからともに道場に通う友人の顔が脳裡に明滅する。

「だが、俺があいつらの中ではいちばん先だ」

 相手は顔を蒼白に変える修之輔の様子にまったく気づかず、荒い息でそう言いながら両手で修之輔の膝裏を掴み左右に開いて体を割り入れてくる。


 動揺が限界を超え、ふと、ひどく冷静になった。これは勝てる相手だ。


 次の瞬間、足裏がつく片足を軸に身体を思い切り反転させる。剣道場で身に着けた体の動きはそのまま相手の躰を払い飛ばしていた。思いがけぬ修之輔の抵抗に、道場で何度か打たれた竹刀の打撃を思い出したのか、一瞬、相手が怯んだ。その隙を逃さず床の脇に置かれた相手の刀を大小二本とも部屋の隅に蹴り、父が使えぬと放り出したままになっている刀に手をのばして鞘に手をかけた。相手は流石に青ざめ、腰を落としたまま背が壁に付くまで後退した。

「よせ、自分が何をしているのか分かっているのか。」

 答えなくても良い問いだった。鞘から刀を抜く。手入れの悪い刀は大半に錆が浮き、およそ役に立つとは思えなかったが、薄暗い室内で刃先三寸程度が光を受けかろうじて煌めいた。

「お前の先輩で、身分も上の者に刃を向けてただで済むと思うのか」

「済まぬとは思っています。なのでせめてあなたの命を道連れにさせていただきたく」

 冷静な物言いとは裏腹に、柄を握る手に力が籠められる。修之輔の腕を知る相手はそれをみてとるや、形振り構わず衣服と刀をかき集めると寝室の外に転がり出た。騒ぎに気付いた父が戸を開けて中の様子を覗こうとするその肩に、ぶつかるようにして戸外へ走り去る。修之輔の失態を察した父は腕を振り上げて修之輔を殴ろうとしたが、その手に刀が握られているのに気づきゆっくりと腕を下ろした。 

 正眼に構えた刃の先は実の父親である。切れるのか、と追い詰められた父が押し殺した声で修之輔に問うた。実の父を切るのか、と。


 “主君に逆らわず、父母に逆らわず、剣はそれらを守るために”

 その剣術の教えに逆らうのか。


 修之輔がもう少し大人であったならそれは振り切れた呪縛であっただろう。しかし地獄のような日々の中、剣の稽古のみを頼りに生きてきた修之輔にとって師範の教えは自身の支えでもあった。混乱する修之輔の隙をついて、父は逃げ出した。自分の息子から。自分が引き寄せた災厄から。


 しばらくして、修之輔は家に自分以外誰もいなくなったことに気付いた。ここにいる意味はとうに失われ、何かを考えることはとても億劫だった。

 離れたい。ただこの場を離れたい、せめてこの家が見えなくなるところまで。

 錆びた太刀を持ったまま、修之輔は家の裏の崖を下りた。崖の下は川が流れている。この川を渡れば城下町、城下町を過ぎれば。


 その先は分からなかった。

 

 修之輔は足が掛かるまま、川の中ほどまで歩き、水が腰のあたりまであることにようやく気付いた。つま先で川底を探るとそこから先は急に深くなっていて、渡ることも、流れの速さから泳ぐこともできなかった。

 “外”に出ることができない。その事実は修之輔の心をひどく疲れさせた。もう一歩も進むことができない。あの家には戻りたくない。ここから先は進むことができない。


 曇天の空を映して太刀が鈍く光る。喉を突くぐらいの切れ味はまだ残っているはずだと他人事のように考えた。太刀の中ほどを手で直接握ると手の平の皮が切れて血が滲む。誰かに向けるべき刃を、己に突き立てようとする状況が可笑しいのか悲しいのか、もはや分からなくなっていた。いったい自分は、誰に、何を祈ればいいのか。

 太刀を握る手に力を込める。手の平から流れる血が滴って、川面に落ちた。勢いをつけて己の喉に突き立てようとしたその時。後ろから川の中に突き飛ばされた。

「やめろ、修之輔」

 大膳が修之輔の襟を掴み、水の流れに逆らおうとしない修之輔を自分もずぶ濡れになりながら岸にまで引き上げた。

「道場に、いつになっても来ないから、どうしたのかと思って迎えに来たんだ。いったい、なにが…っ」

 岸で息を切らせて咳き込む大膳に、修之輔は礼でも謝罪でもなく、ただ聞きたかったことを聞いた。

「広川才蔵様と、よく話すのか」

「ああ、懇意にしてもらっている。しかしなぜそんなことを聞く」

 何もかも、もう、十分だと思った。


 考えることを放棄した修之輔は大膳に抱えられるように道場の師範のところまで連れて行かれた。これまでの様子を察していた師範はとても悲しそうな顔で修之輔を見て、濡れた服を着替えて火にあたっているようにと指示した後、直ぐに戻る、といってどこかへ出かけ、その言葉通り直ぐに戻ってきた。

「喜代の料理屋の住み込み部屋に空きがあるようだ。修之輔はこれまでのように道場や喜代の料理屋を手伝いなさい。手伝ってもらえれば私も喜代も助かる。身元は私が預かる」

 師範からの提案はとても有難いものだったが、料理屋の奥の薄暗く清潔な小間に通されると修之輔は熱を出して倒れ、そのまま三日ほど寝込んだ。

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