第2章 鈍色の空

第1話

 年が明けて慌ただしく正月が過ぎると、毎年二月の初めに道場では総稽古が行われることになっている。現在道場に通っている者、以前通っていたが役目について足が遠のいていた者が一堂に会して打ち合う。なかなかの人数になるので総稽古の期間は三日間と定められ、各自都合のつく日に来て、初日は修之輔が、二日目、三日目は師範も来て随時指導を行うことになっていた。

 大膳は初日しか来られないということだったが、その初日は朝から道場に顔を出し入念に準備した後、こちらも朝早くからきて壁際に姿勢よく正座する弘紀に声を掛けた。どうやら二人で組んで稽古をするようだったので、修之輔は大膳に注意を促した。

「大膳、弘紀がいくら同年代のなかで腕が立つとはいえ、年少者であることを忘れるなよ」

「なんだ、修之輔は弘紀にだいぶ甘いんだな。こいつは手加減なぞ望まないぞ」

 なあ、と大膳が弘紀に気やすく声をかける。

「はい。大膳様から、まずは一本、取らせていただきます」

 こちらもやる気満々の弘紀がそれに答える。

 その様子を見ていて、そういえば弘紀と大膳はいつから親しかったのだろう、と修之輔は疑問に思った。彼等の立場を思えば、どちらも黒河藩の重臣の近しい血縁というその状況で、道場以外の場で何回か顔を合わせることもあるのだろうと、修之輔は思いがけず自分ひとり、蚊帳の外に置かれた気持ちになった。


 気後れしがちな者に発破をかけて稽古に参加させるのも修之輔の役目だ。弘紀が立ったその後、道場の壁に張り付くように竦んでいるのは弘紀の友人の礼次郎だった。

「どうした、稽古に参加しないのか」

「どうしたらいいものか分からないのです」

 大膳の掛け声が道場に響く。

「あのように怖い先輩ばかりでない。見知った者はいないのか」

 礼次郎はぐるりと周囲を見回して首を横に振った。そういえばこの礼次郎も、入門したての頃は気がかりな少年であったことを修之輔は思い出した。


 礼次郎は先ず竹刀の持ち方でつまずいた。手の平にこのように握り、親指を締める、ただそれだけなのだが、その親指は竹刀のどの辺りを締めればいいのか、と聞いてきた。鍔から一寸か二寸か、先ずは持ちやすいところでと言うと何が持ちやすいのか分からないと言う。ではまず一寸で持ってみろと言うと今度は物差しがないから一寸が分からない、と言う。

 さすがに修之輔も言葉に詰まると、横で見ていた弘紀が自分の親指の先がちょうど一寸だからこれで測れと言って、礼次郎はようやく納得し竹刀を持った。後で弘紀に聞いたら、親指の長さなんて測ったことはない、という人を食った答えが返ってきた。だが、それがきっかけで弘紀と礼次郎は話すようになったようだし、弘紀を介して他の同輩とも次第に会話を交わすようになった。

 思ったことを直ぐ口にも行動にも出す弘紀と、石橋をたたいて渡らない礼次郎の組み合わせはあまりにも正反対だが、かえってぶつかることがないということだった。お互いの意見の違いを楽しんでいる風にも見えた。鈍く見える礼次郎も話を聞いてみるといろいろと考えすぎて身動きが取れなくなっているだけで、それだけ物事を考えられる能力をもっている少年ではあった。弘紀もそれを面白がっている節がある。

 

 だが確かに今この場、即座の判断が必要な総稽古は礼次郎には苦手だろう。

「素振りや決まった型の練習はそれなりに面白く取り組めるのですが」

 途方に暮れたように肩を落として呟く礼次郎に、道場を見回しながら修之輔は話しかけた。

「剣術を含む武術には大きく二つの考え方がある」

 礼次郎がこちらを見上げてくる。

「一つは、身も蓋もないが、人を殺すための技術。元より武士は戦でどれだけ人を殺めるかで武勲を重ねてきた。だが、今の世にあってそれはもう昔のこと、人を殺める技術の向こう、剣の技術の研鑚の内に己の生き方や在り方を見出そうとする者もいる。そういった思索が武術のもう一つの捉え方だ」

「私は昔の剣豪の先達たちが残された書物を読むことがありますが、その考え方の中には共感できることが多々あります」

「師範も人の在り方としての剣術を探求している。礼次郎は人殺しの技術よりも、そういった思索の方が向いているのかもしれないな」

 明日は師範が来るから今から質問を考えておいて教えを乞うてみたらいい、というと、先ほどまでの所在無げな振る舞いは影をひそめ、はい、と力強い返事が返ってきた。

「一本っ」

 ひと際大きく、弘紀の声が響いた。すぐに大膳が抗議する声が被る。

「いや今のは取らん。面を外したその手で胴にかすっただけではないか。そんなのは手合いのなりそこないで一本には数えん」

「面を狙うと見せかけ、胴を取りに行ったのです」

「そのような小手先では、なおさらだ」

「小手先とは心外。そもそもさっきから大膳殿はのらりくらりと躱しておるばかりで勝負にならないではないですか」

「何を言う。猪突猛進が過ぎるお前の剣の指導をしてやっているのだ」

「のらくらと躱して勝負をごまかしているだけではありませんか」

「ほほう、だいぶ言うようだが、そののらりくらりを相手に一本も取れていないではないか」

「ええ、大膳様が二度とそんなことをおっしゃれないよう、次こそ一本を取らせてもらいます」

「ぬかせ、そう簡単には取られん」

「参ります」

 さきほどからずっとこの様子らしい。あれは武術でしょうか思索でしょうか、と変に生真面目に聞いてくる礼次郎に、ただの馬鹿だから竹刀を捨てて取っ組み合いでも始めたら頭の上から水をかけてやれと言うと、役目を与えられた礼次郎は再び、はい、と力強く答えた。


「一手、御指南いただけますか」

 にやつく顔はいつものこと、利三に声を掛けられたのはそろそろ帰る者も多くなってきた夕方近くのことだった。では、と竹刀を構えると、これではなく、と大仰に手を振る。 

 何を言い出すのかと思えば、利三の取り巻きが道場の物置から木刀を数本持ち出してきて床に手荒に重ねた。大きな音が道場に響く。

「竹刀ではぬるい。実戦を想定したこれでお願いする」

 この道場で木刀を用いた稽古はしばらく行っていない。重く固い木刀を用いた稽古は危険を伴うため、稽古事として剣術を習う多くの者たちからは敬遠されている。それをあえてこの場で持ち出してくるとは、いやがらせも口ばかりではなくなってきたということだ。

「では、小手だけでなく、面も胴も防具をつけるように」

 そう指示を出したが、利三もその取り巻きも誰も防具をつけようとしない。ばかりか、三人が同時に木刀を握った。

 道場の一角で生じた不穏な気配に気づいた者が稽古の手を止めてこちらを窺っているのが視界に映る。修之輔は弘紀の姿を捜し、自分の後ろ、思ったより近くにいることに焦りを覚えた。嫌な予感がする。

「師範代殿なら三人ぐらいまとめて相手できるだろう」

「いや、三人では足りぬかもしれないぞ。なんせ百人切りの修之輔どの、だ」

「男百人を咥えこんで、挙句に上げ銭が足りないと実の父親を切り殺したぐらいだからな、足りなくて当然」

 いつにも増して品を欠く暴言は弘紀にも向けられた。

「弘紀、お前の大事なお師匠様はかなりの淫乱だぞ。お前が満足させることができるのか、その小さいなりで」

 それともあっちは大きいのか、と野卑な言葉が飛び交う。すぐ後ろにいる弘紀の顔を見ることができない。

「準備はいいのか」

 できるだけ静かな声でそう告げ、木刀を下段に構えた。

 ようやくやる気になったか、とにやつく者達を見回す。竹刀はぬるいと言いながら木刀の重さに慣れていないのは一目瞭然だった。

 猿声を上げて打ち込んでくる先ずは右端の者。身を躱して打ち込みを避けると、相手は振り下ろした木刀の勢いに上体の均衡を崩した。その空いた腹を拳で打つ。倒れ込む体を盾にして中央の利三の打ち込みを牽制しながら前に踏み込んで左端の者の脛を横に薙ぎ払う。片手なので転ばせることはできないが、脛は痛みに鋭敏な場所である。

 動きが鈍ったところで今度は両手で持った木刀で相手の左わき腹を強めに打ち、振り切って返す勢いで上段から急襲する利三の木刀を弾き飛ばした。二、三歩後ろに下がり助走の距離を取る。勢いをつけて振り下ろした木刀が利三の肩に当たる直前、手首を返して軌道をずらした。木刀は床に激突し、床板が一枚はぜて木片が散った。

 修之輔は三人の手から離れた木刀を拾い集めながら呼吸を整えた。右手が痺れるのは、床に叩きつける瞬間、木刀から離すべきだった手を離すのが遅れたからだ。単純に感情的になり過ぎたのがその理由だった。

 木刀を使う打ち合いを今後一切行わない、と、何が起きたのかまだ理解できていない様子の利三に修之輔は告げた。

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