第二話: しばらくの間、小食で我慢するしかない……かな





 たっぷり……それこそ、ナニカへと成った綾の腹が一回りも二回りも膨れ、もうこれ以上は無理と思うぐらいにまで、食べに食べて……自室に戻った後。


 ようやく満たしたすきっ腹、もたらされる幸福感が眠気に変わり……無意識のうちに、綾はベッドへと倒れ込むようにして横になる。



 ――少し腹が落ち着いたら、シャワーでも浴びよう。



 そんな事を、考えた……覚えがある。でも、考えるだけで限界が来た。気づけば……いや、それ以前に、何時眠ってしまったのか、綾は分からなかった。


 ただ、夢は見なかった。何となく、物凄く気持ちよく眠れているという感覚だけは有った。自分は寝ているのだろうという感覚だけは、何故か自覚出来ていた。


 途中、何度か起きる事はあった。だが、眠かった。兎にも角にも、眠気があまりに酷過ぎたせいで、途中からは寝ているのか起きているのか、それすら分からなかった。



 人外のナニカに成った、反動なのだろう。



 身体に相当な無理が掛かった結果なのかもしれないし、あるいは、生まれたばかりのせいか、一度に取り込んだ獲物の血肉を消化する為なのかはさておき、綾はひたすら惰眠を貪る。


 ……ちなみに、今の綾には排泄というものを必要としない。やろうと思えば出せるという程度であり、原理や理屈は分からないが、そういうモノになっている。


 おかげで、いちいちトイレに行かなくて楽だ。さすがに、自分の小便で濡れたベッドで寝るのは嫌だ……そう、綾は夢と現(うつつ)の境をさ迷いながら、考えていた。


 そのまま……たっぷり、自分でも良く寝たなと思うぐらいに眠り続けた後。


 むくりと、身体を起こした綾は……大きな大きな、それはもう大きな欠伸を零した。体感的には半年ぐらいどーんと睡眠を取ったかのような、深い眠りから覚めた気分であった。


 それでもまだ、寝足りないと思うのは……単純に、寝坊助だからだろう。



(……シャワー浴びよう)



 とはいえ、何時までも眠っていても仕方がない。腹の具合は落ち着いているが、感覚的に……小一時間もすればまた、腹の虫が騒ぎ立てそうなのが察せられたからだ。

 なので、さっさと浴室へと向かう。


 ……時刻は確認していなかったが、まだ昼間なのだろう。


 途中で横目にしたリビングの窓から差し込む日差しは明るく、浴室の中も……小さい窓ではあるが、そこから差し込む光によって、電気を付けなくてもいいと思える程度には明るかった。


 栓を捻れば、『冷たいと思われる』水流が頭から降り注ぐ。けれどもそれはあくまで、そう思うだけ。



(……冷水も熱湯も、一緒か)



 なんとなく、そんな感じなのだろうなと綾は思った。特に何かを感じたわけではないが、何となく……名残惜しさを覚えなくはなかった。



 ……そうして、ふと。



 何気なく……浴室に設置された鏡に映る、己の姿に目を向ける。そこには、眠りに着く前に比べて明らかに肉の付いた、己のモノとは思えないぐらいに立派な裸体が映し出されていた。


 はっきり言えば、一瞬ばかり、鏡に映し出された己を己だと認識出来ないぐらいに変わっていた。


 たっぷり食べて、たっぷり寝たおかげだろう。骸骨に皮を張りつけたみたいに痩せ細っていた手足は、見違えるぐらいに瑞々しく、健康的な外見を取り戻している。


 いや、というか、明らかに前以上だ。視線を下げれば足の指先どころか足の甲まで見る事が出来た以前とは違い、今は見えない……どどん、と大きく張り出した乳房のせいだ。


 そう、乳房だ。これもまた、明らかに以前よりも大きい……いや、本当にデカい。何気なく掴んでみれば……綾の小さな手では全く収まりきらないサイズなのを実感する。


 形だって、そうだ。以前のは少しばかり外側へ離れるような形をしていた。薄らと、コンプレックスだった覚えが……今は、その時よりも……心もち内側へ向かうような形になっている。


 弾力とて、以前の己のモノと比べれば段違いだ。柔らかすぎず、張り過ぎず、絶妙な加減……なるほど、見た目だけでなく触り心地も問題なし、か。



 そのまま手で身体を摩って確認すれば……よく分かる。



 腰回りは細く、対して、ヒップに当たる部分は中々大きい。けれども太って見えるほどではなく、これまた絶妙というか……四肢の先も、傷一つシミ一つない、綺麗な形をしている。


 ……疑似餌として考えれば、実に出来が良いのだろう。


 同性ならともかく、男性ならば警戒心を解きほぐすのはそこまで難しくはない。こういう、餌に対して有用的な造形になるのもまた、ある種の機能美なのだろうと綾は思った。


 ……が、まあ、それはそれとして、だ。



「…………?」



 いつの間にかお湯へと変わっていたシャワーを止める。取れた眠気と一緒に頭を振って水気を払った綾は……ふと、わずかばかり開かれた窓の向こうが騒がしい事に目を向ける。


 その騒がしさは……こう、何だろうか、喧騒という言葉が当てはまる騒がしさだ。井戸端会議……というには、些か騒がしい。


 悲鳴こそ上がっていないものの、只ならぬ事態が起こっているかのような、そんな焦りを滲ませているのが、聞こえて来る声色から察せられる。


 近所の住人……あ、いや、もう近所というか四方八方の家の住民は食い殺したから、居るとしたらもう少し離れた所から来ている者たちだろうが……なら、いったい?


 気になった綾は、窓のへりを掴んで懸垂の要領で外を覗く。以前の綾ならば出来なかったが、人知の外にある今の綾ならば、造作も無い事であった……で、だ。



(餌がいっぱい……あれ、警察官がいる?)



 いちおうは気付かれないように外を見た綾は、思ってもいなかった光景に首を傾げる。


 その光景というのは、困惑と恐怖に視線をさ迷わせ、右往左往している人たちと、警察官。そして、その警察官の向こうからこちらを伺っている……大きなカメラを構えた人たちであった。


 その顔ぶれに、あまり共通点はない。


 恰好から察するに、カメラマンと……要は、マスコミの関係者であるのは分かる。集まっている人たちを抑える為に警察が出動しているのも、何となく察せられる。


 しかし、それだけだ。綾が分かるのは、それだけ。


 若い人もいれば歳がいっている人もいるし、男もいれば女もいるし、もっと若い……こちらにスマホを向けている学生と思わしき人たちも……とにかく、バラバラだ。


 そこに、イコール(=)がないのだ。


 近所に有名人が住んでいるという話は聞いた覚えはない。同じく、注目を集める施設や何かが有ったような覚えはないし、出来る等といった看板も見た覚えはない。


 少なくとも、綾の記憶の中に、この場所……ここら近辺に人が集まるようなイベントが起きるなんていう情報は、無い。なので、綾には人々がどうしてココに集まっているのかが見当も付かなかった。



(……まあ、いいか)



 とはいえ、分からない事に何時までも頭を使ったところで、答えなどでるわけもない。窓から降りてシャワーで手を洗い、バスタオルで身体を拭いながらリビングへ向かう。


 綾が住まうリビングは、冷蔵庫などの家電を除いて、テレビが1台、大きなテーブルと椅子が三つ、小さなテーブルが一つ、ソファーが一つ、それらが納まっていても幾らかスペースが作れる程度には広い。


 その、カーテンが閉められたままのリビングに入る。ジュースでも飲もうかと思ったが、そういえば寝る前に根こそぎ食い尽くした事を思い出し……諦めて、水道水を飲む。


 そうしてから、テレビを点ける。特に意味など無かったが、そういえば自分でテレビを点けたのは何時以来かな……と、少しばかり懐かしい気持ちに……ん?



 違和感が、脳裏を過った。何がどう気になるのか最初は分からなかったが……少しばかり画面を見詰めていれば、すぐに分かった。



 違和感の正体は、日付だ。表示されている日付は、あの時から……記憶が確かならば……綾は、10日間近くも眠っていた計算になる。


 ……10日間……自分のことながら、相当な負担というか、無理が生じていたのではないだろうか。


 今更ながらに、綾は思う。普通の人間ならば、10日も眠りっぱなしであったら何かしらの後遺症が出るところだが……まあ、今の自分は人間じゃないから、そこらへんは大丈夫なのだろう。


 我が事ながら、そんなふうにして納得した綾は、とりあえず服でも着るかと思ってテレビの電源を――いや、待て。




 『――次のニュースです。○○県○○町の住宅街にて起こった集団失踪事件、通称『神隠し』の続報が入りました』




 消そうとした、直前。


 聞き捨てならない単語に、思わず綾は手を止めて画面を凝視した。


 画面に映し出されている朝のニュース番組に登場している、MC(司会者)とコメンテーターが数名。中には元捜査官だとかいう人物もいて、物々しい雰囲気である。



 その、画面の向こうで……厳かな表情で、事件の概要が語られ始め……全体の話(というか、ニュース)を纏めると、こうだ。



 今から10日程前……正確な時間は不明だが、その日を境に、とある住宅街の一角に住まう人たちが一斉に姿を消した……というのが、事件全体の概要である。


 つまり、『神隠し』というのは、集団失踪事件の事。


 それも、現時点で50名を超えていると思われる、戦後最大の同時失踪者数……で、あるらしい。


 ……心当たりは、綾には山ほどあった。


 というか、その日は綾が、『今の綾』になった日。付け加えるなら、食欲に任せて近所の人達を片っ端から食い殺した日でもあった。



 ……まあ、そこはいい。



 失踪した事も問題だが、それよりもこの事件を不可解なモノにしている理由。


 それは住民たちが、どうして、どうやって、一斉に姿を消したのか……そこが、此度の事件を難解かつ、刺激的なモノに変えていた。


 何せ、数十名の人間が誰にも気付かれる事なく一斉に姿を消したのだ。


 それも、全員が申し合わせたかのように同じ日、同じ時間帯(最寄りの防犯カメラなどで推測したとのこと)で。しかも、自家用車を始めとして、金品や衣服などを全て家に置いたまま。


 一世帯だけならば、まだ分かる。あるいは、一人や二人ならば、色々と憶測は建てられる。


 失踪の理由は人それぞれだが、多いのは借金。次いで、家庭環境などの生い立ち、少ないが、痴情のもつれから……などもある。


 何にせよ、必ず何かしらの理由なり痕跡なりが後々に見つかるのだ。


 だが、此度の事件にはそれが無い。『幾つかの家に残された血痕』という不審な点は見つかるが、それが逆に此度の事件を複雑化させている……ということであった。



(……そっか、そうだよね)



 それを見て、綾は今更というか、遅ればせながら、あの夜の(我ながら、間抜け)自らの行いが如何に軽率で迂闊であったのかを察した。


 考えるまでもなく……綾のように両親からも周りからも『誰かの次いで』であり、『居ても居なくても気に留めない』人物なら(それでも、いずれは学校から連絡が来るだろうけれども)まだしも、だ。


 ある日突然、会社や学校はおろか、表にも顔を見せなくなれば……いったいどうしたのだと心配する者が現れても、何ら不思議ではない。


 それが、一度に数十人……それも、住宅街の一角にのみ集中していれば……個人の失踪ではない、何かしらの事件だと周りが判断するのは当然の流れだろう。



(でもなあ……あの時は本当にお腹が空いていたし……)



 とはいえ、とりあえずは外の騒ぎの理由は分かった。


 で、だ……下手に出ると騒動になるだろうと判断した綾は、……せっかくなので、そのまま再び画面に意識を戻した。



『――今回の事件なんですけど、正直分からない事だらけです。今まで色々な事件を担当してきましたが、これ程不可解な事件は初めてです』

『と、言いますと?』

『何といえば良いのでしょうか……とにかく、点と点が繋がらないんですよ。まるで推理小説のように、調べれば調べるほどに不可解な点が出て来まして……』

『それは、失踪者の行方が未だに掴めない事と関係があるのでしょうか?』

『はっきりとは断言出来ませんが、関係している可能性は高いと思います』



 そう、画面の向こうで話し合う、元捜査官とMC。


 テロップに表示されている、『主に殺人事件などを担当』と注釈が付けられている元捜査官曰く、現場に残されているその血痕すらも、あまりに不可解なのだと言う。



 ――例えば、その、現場に残されている血痕の……付着の仕方だ。



 通常、血痕からは様々な情報が入手出来る。DNAを始めとして、その酸化具合によって何時頃にその場に付着し、加えて、現場全体の痕跡から、当時の状況を幾らか推測する事も出来る。


 実際、これまで警察はそうした痕跡を元に当時の状況を推測し、犯人逮捕に繋げてきた。


 そして、今回もこれまでと同じく、逮捕に繋げようと捜査官たちは綿密に調べに調べ尽くそうとしてして……その結果。


 ……現れたのは、『何らかの方法によって被害者たちを全く抵抗させないようにして行われた反抗の最中、一部が負傷した、あるいは負傷していた』という、まるで意味の分からない推測であったのだ。


 つまり、『数十名の被害者たちを何らかの方法で同時に無力化した後、全員を一夜の内にどこかへ連れ去った』というのが、捜査本部が出した最初の推測なわけであった。



『もちろん、あくまで推測ですし、すぐにあり得ないと結論付けられました。あまりに、現実的ではありませんから』

『……そういう事例というのは、実際に有り得ることなのですか?』

『非常に珍しい事ではありますが、世界では幾つか報告が成されています。日本でも、戦前なら事例が……しかし、現代の日本では不可能ですね』

『そうなると、現時点で最も可能性が高いと思われるのは……?』

『可能性としては、失踪者たち全員が協力関係にあり、何かしらの意図を持って失踪した……といったところでしょうか』

『それって、有り得るんですか?』

『私個人の意見を言わせて頂くならば、有り得ない、ですね。失踪者同士の共通点が今の所見つかっておりませんし、何より、身辺整理の跡が全く確認出来ない以上、無いと思った方が良いでしょう』

『まさに、神隠し……というやつですか……』

『警察の一員として、口に出しては駄目なのでしょうけど……正直、そうとしか思えない事件ですね』



 そう、言葉を濁した元捜査官だが……彼がそのような愚痴を零すのも、致し方ない話であった。


 強盗や誘拐ならば、絶対に痕跡が残されている。保険金などの誘拐の線で行けば失踪者への不可解な痕跡が見つかり、強盗であれば部屋の中が荒らされている……はずなのだ。



 でも、今回に限り……それらの経験則が、一つも当てはまらないのだ。



 こんな事、捜査機関である警察ですらも初めての事である。おかげで、捜査は難航。失踪者たちの交友関係(親族、友人、仕事場など)から手掛かりを得ようにも、これといったモノは一つも見つからず。


 それならばと決断し、裁判所より家宅捜索の令状を発行してもらい、失踪が確認されている者の家を捜索したが……分かったのは、『不可解な事が増えた』、それ一点だけ。



 そう、本当に、それだけ。



 足腰が弱まっている御年80歳代の夫妻が住まう家も、両親と娘の3人が住まう一軒家も、大学生ばかりが住まうワンルームマンションも……全てが全て、手掛かり一つ無い。


 出入り口等の防犯カメラには映っておらず、扉や窓を外からこじ開けた痕跡はない。当然、室内にも指紋や足跡等の痕跡は無く、煙のように失踪者たちは消えてしまった……と言われても否定出来な……あれ?



(カメラ、指紋、足跡……はて、私は何もしていないのだけれども……?)



 あーだこーだと話し合っている画面から意識を戻した綾は、はて、と首を傾げる。

 あの時は食欲に突き動かされるがままに食らっていたから、そんな事など気にも留めていなかった。


 だから、見つかっても何ら不思議ではない。というか、それ以前に、指紋やカメラの位置など、考えてすらいなかった。



 では、たまたま?


 いや――あり得ない。



 カメラの位置は分からなくとも、どういう場所に設置されているかぐらいは想像がつく。そして、少なくともあの夜……綾は、最低でも一度はカメラの前を通ったはず……んん、分からない。



(……まあ、そのうち分かるでしょ)



 結局、しばしの時間を掛けて考えた結果は先ほどと同じく、後回し、であった……けれども、だ。


 綾は、『今の綾』を理解出来ている。だから、影の使い方もそうだし、人間を食べる事に何ら忌避感を覚えず、息を吸うように容易く行えた。


 でも、もしかしたら。


 実際は『把握出来る範囲を理解出来ているだけ』に過ぎず、まだ、理解の及ばない部分が自分の中に残っているのではないか。


 そう……少しばかりだけ考えを改めた綾は、ぽちりとテレビの電源を落とし――っと。



 ――ぴんぽん。



 不意に、インターホンが鳴った。


 はて、こんな騒動の最中に宅配便が……釣られるがまま玄関の方へと視線を向けた綾の耳に――飛び込んできたのは、力強い男性の声であった。



 『 ――もしもし、○○署の者です。少し、宜しいでしょうか! 』



 直後……綾は、理解した。この辺りで行われている家宅捜索の順番が、この家にも回って来たということを。


 そうだ、そうだった。考えるまでもなく、ここだけが例外なわけがない。


 テレビでも話していたではないか……現時点で判明しているのが50名超だと。つまり、まだ警察の調査は終わっていない……いや、これからと考えた方がいいだろう。


 どこから家宅捜索を始めるのかはさておき、おそらく片っ端から確認を取っているはず……と、なれば、だ。



 『 ――高田さーん! 聞こえていますかー! ニュースを見ていらっしゃるのであればご存じだと思いますが、○○署より、ここら一帯の調査を行っておりますー! 』



 ここで応対せずに居留守をすれば……待っているのは。


 『 ――住民の安否確認の為に、裁判所より家宅捜索の令状が出ておりますー! 応対が成されない場合、令状に基づいて、こちらから強制的に開錠致しますー! 』



 ――他の家と同じく、玄関を無理やり開錠して入ってくるわけで。



『 ――もしもし、高田さーん! いらっしゃいますかー! 』



 ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん。



 連続して鳴らされるインターホン。合わせて、激しく繰り返されるノック音。考える間も与えられないまま、事態は進む。


 平時であれば、横暴だと誰もが断言する一方的な話だろう。


 しかし、今は非常時だ。横暴だとしても、そうしなければ第二第三の被害者(言い方を変えれば、失踪者か?)が出る恐れがある以上は、平時のように手をこまねいているわけにもいかない。


 何せ、既に被害者が出ているのだ。未だに被害者の行方が分からないだけでなく、現場の幾つかには明らかに不審な血痕まで……止むおえない対応というやつなのだろう。



 ……まあ、犯人である綾からすれば、堪った話ではないのだが。



 どうしたものかと動くことも出来ないまま……ガチャガチャと悲鳴を上げる鍵穴の異音。急いで玄関へと向かえば、カチカチとつまみが動いて……カチン、と開錠された。



「――失礼します! ○○署の者ですが、高田さん、御在宅で――っ!?」



 一拍遅れて、警察官が入ってくる。はっきりと姿を見た覚えが綾にはなかったが、全体のシルエットというか、色合いには見覚えがあった。


 そんな、綾よりも頭一つ分以上は高い男たちが、険しい顔つきで入って来て――ひょっこりと姿を見せている綾を見て、ピタリと止まった。


 驚愕……彼らの反応を一言で表すのであれば、正しくそれであった。


 まあ、驚く理由は綾にも想像が付いた。だが、しかし、それにしては些か反応が顕著過ぎる――あ、そういえば裸のまま――いや、待てよ。



(――これを利用しよう)



 迷う暇は、無かった。どうなるかを考えるよりも前に、ある意味では反射的に……綾は、『被害者のフリ』をした。



「……助けて」

「――っ! 確保っ! 住民一名確保ぉ!!!」



 両手を伸ばして、警官たちに歩み寄ろうとする――それだけで、彼らにとっては充分であった。


 素早い動きで駆け寄ってきた警官たちが、綾を守るようにして囲い込む。「タオル! 何でもいいから身体を隠せるやつ持って来て!」直後、家中はおろか、外のマスコミたちにも聞こえるぐらいに大きな怒声が綾の耳元にて響いた。


 それで今の綾がどうこうなるわけではないが……煩いなあと思っている内に、何処からともなく回ってきた大きなタオルケットがぐるりと身体に巻き付かれたかと思えば手を引かれ――あっ、と思った時にはもう、綾は家の外に出ていた。



(……眩しい)



 と、同時に一斉に叩き付けられる閃光の嵐。その隙間を縫うようにして響き渡る、もはや怒鳴っているのかと思う程の入り乱れた喧騒。


 あまりに多いカメラのフラッシュの眩しさと人々の喧しさに目を細めていると、これまたいつの間にか傍まで来ていた婦人警官たちが……ぐるりと、綾を囲う。



「――もう大丈夫、こっちよ、付いて来て」



 促されるがまま、集まっているマスコミや野次馬を押し退けるようにして警察車両(パトカー)の方へ。途中、強引にマイクを向けて来る者もいたが、そのまま無視された。


 さすがに、マスコミたちも空気を読むのか、進行方向を遮ってまで出てくるようなモノはいなかった。いや、まあ、マイクを向けてくる時点で……いや、それもいい。


 とにかく、警察……婦人警官たちの手で押し込められるようにして乗り込んだ綾を乗せたパトカーが、走り出す。


 当然……という言い方も酷い話だが、車の進行方向を避けるようにしながらも、マスコミたちが駆け寄って来るのを……振り返って確認していた綾へ。



「……もう、大丈夫よ」



 そう、声を掛けて来たのは……唇の端のホクロが特徴の、30代前半と思わしき婦警で。パトカーに乗り込む際、力強く先導した人でもあった。



 ――さあ、落ち着いて。



 そう、言われて……綾は内心にて、首を傾げた。


 落ち着いても何も、綾は欠片の動揺などしていない。大量に向けられたカメラのフラッシュやマイクも鬱陶しいとは思ったが、それよりも、こいつら美味そうという感想の方が大きい。


 ……まあ、状況的に、何かしらの事件に巻き込まれた少女と思われて当然なのだから、婦警たちの反応も当然といえば……ああ、そうか、そうだった。



(被害者って、傷付いたフリをしないと駄目なのか)



 自分のことながら、うっかりしていた。自省すると同時に、以前とは感覚というか、精神の構造が異なっている事を、綾は改めて自覚した。


 何といえば良いのか……以前に比べて、酷く感情が平坦になっているような気がしてならない。


 おそらく……人間を餌として認識するようになったからだろう。


 魚がぴちぴち跳ねまわっていても『生きが良い、美味しそう』としか思わないのと一緒。婦警たちの言葉も、今の綾にとっては、魚が跳ねている程度の感覚でしかなかった。



「……大丈夫。もう貴女を傷付ける人はいないから、私たちが傍にいるからね」

「傷付け……?」

「今は、ゆっくり休みましょう。話は、貴女が落ち着いてから……ね」

「……はあ?」



 いったい、何を勘違いしているのか……何処か悔しそうな、それでいて憐れんでいるかのような彼女の眼差しを前に、綾は……やはり、内心にて首を傾げる他なかった。



 本当に、意味が分からない。少なくとも、怪我等は無い今の姿に、同情を誘う部分があるのだろうか?



 正直、考えるのが面倒なので無視したい気持ちであったが、気遣うつもりでいるのは分かったので、されるがまま視線を戻し……ふと、気になったことを尋ねた。



「何処に、向かっているの?」

「まずは警察署よ。でも、すぐに病院に行くと思う」

「……病院?」

「今は話さなくて良い。とにかく一度は検査して、怪我とか確認しないと」

「……そうですか」



 ――やはり、そうだ。なんで、私が怪我をしているという前提で話が進んでいるのだろうか?



 もしかして、助けてとか言って被害者のフリをしたからか……これもまた、今の綾にはいまいち分からないことであったが……まあ、そんな事よりも、だ。



(……そういえば、起きてからまだ一口もご飯を食べていない。これは由々しき事態、さすがに病院内の人はどう隠して食べてもバレちゃうね……)



 今の綾にとっては、だ。



(……しばらくの間、小食で我慢するしかない……かな)



 例えば、レントゲンや血液検査などをして、己の異質性が露見したりしないか。


 場合によっては、人外の存在として危険視され、抹殺対象として狙われたりしないか。



(お金……まあ、周りが何とかしてくれるだろうけれど、量は見た目通りにしておかないと……)



 そんな、もしもの危険性よりも、何よりも。



(……こんなことなら、あの時もう2,3人ぐらい大目に食べておけば良かった)



 今後、しばらくは耐えなければならないであろう……空腹という名の苦痛の方が、綾にとっては重要で。



(どうせ、この人達には分からないだろうし……ああ、面倒だなぁ)



 不思議と、恐れはしなかった。



 どうせ、この人たちでは、今の私を正確に認識することなど不可能であると同時に、幾らでも誤魔化せるのだから……そう、綾は自覚無く確信を得ていたからで。


 ……それ故に、欠片の動揺も不安も見せていない綾の姿は、傍目から見れば『現実を受け入れられず心を閉ざした被害者である少女』にしか見えないわけで。


 同性であり、かつ、警察官という立場にある婦警たちが、同情的……あるいが正義感を燃え上がらせながらも、現時点でただ一人助かっている少女を想い、湧き立つ怒りに心を煮え滾らせていたわけで。



 そんな、誤解が誤解を生む、ある種の喜劇的な空間の中で……ただ一人。






 己を囲うようにして座る婦警たちを横目で見やりつつ、人の目で溢れている病院内での食事は諦めるしかないと……そう、綾は己に言い聞かせるのであった。


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