第2話 おはよう
彼女の名前は如月せつな。
金色の長髪、赤く大きなリボン、潤んだ瞳が俺の姿をじっと見つめる。
「ねえ優くん」
「なに?」
それは学校の帰り道、茜色に染まる坂道の途中でせつなが振り返りながら俺の名前を呼ぶ。
にこりと笑うその顔は優しく、けれどどこか小悪魔のような雰囲気を醸し出していた。
妖艶な彼女に、俺は思わずどきりとしてしまう。
「キス、しよっか」
そんな、誰もが羨む素晴らしき提案に俺が乗らないわけがない!
近づいてくる彼女を受け入れる。俺も歩み寄って、二人の距離は一気に縮まった。
くっと背伸びをして、せつなは顔をあげる。目をつむり、唇を俺に差し出してくる。
彼女の肩に手を乗せ、唇と唇を重ねようとする。相手の息遣いまで伝わってくるくらいに二人の距離が近づいたその時……。
「…………んあ?」
ピピピピピピピピピ。
規則的に鳴り続ける電子音が俺の眠りを妨げた。俺は近くに置いてある目覚まし時計を叩いて、ゆっくりと起き上がった。
そう。
夢である。
当たり前のように、夢オチである。
そりゃ現実なわけないよ。だって、如月せつなは俺の好きなアニメのキャラクターなんだもん。
しかし何だ、本来存在するはずのない女の子が相手だと言うのに、一切の違和感を抱かないとは、夢というのは罪深いぜ。
「起きるか」
それもこれも、全部昨日の校舎裏での出来事のせいだ。
あんなことをされたから、こんな夢を見たに違いない。笹倉木乃香め……ありがとう。
俺は起き上がり制服に着替える。勉強机にベッドにタンス、漫画の詰まった本棚にゲームが繋げられたテレビ。どこにでもあるありふれた男子の部屋だ。
漫画の始まりに見られる「俺はどこにでもいるただの高校生」というモノローグ。だいたいはそんなことないし、そうだとしても何かが特別であることは確かだ。でなければ、物語にならないのだから当然だけど。
俺は自信を持って、自分が平凡であると言える。言い切れる。
「おはよ」
学ランを手に持ち、リビングに向かう。
リビングには母がいて朝ご飯の用意をしていた。この時間、父は既に家を出ているので顔を合わすことはあまりない。
我が家は父母妹、それと俺を合わせた四人家族。普通だろう。
「唯は?」
「今日は日直だとかで早くに家を出たわよ」
「ふーん」
他愛ない雑談を交わしながら朝食を済ます。リビングのテレビではいつものニュース番組が流れている。朝食を食べ終わる頃にちょうど星座占いが行われるのだ。
『双子座の君、今日はスーパースーパースーパー残念デー。何をどうやっても上手くいかない一日。起きてほしくないことも平気で起きちゃうから気をつけて。そんなときはもう全てを受け入れてしまえ! もしかしたら楽になれるかもネ!』
いや、諦めたらいかんでしょ……。
何という無責任な占いだ。もっとちゃんと解決策を提案してこいよ。解決策が諦めるってなんだ、解決してないんだよ何も。
「行ってきます」
家を出て通学路を歩く。
学校へは電車で向かう。揺られることおよそ三〇分、駅から徒歩五分程度で到着するのが大幕高校だ。
近所の高校に通って自転車通学というのも悪くはなかったが、少し離れた学校に電車通学するという経験をしてみたかった。最悪自転車でも通える距離なのがポイント高い。
大幕高校は駅を降りると目の前にある坂道を上がったところにある。多くの生徒はそこでクラスメイトを見つけ、いつものふざけた挨拶を交わしてから他愛のない会話に切り替える。
そこに違和感などなく、何も考えずにそれをする。さもそれが当然のように、そうすることが正しいように。
「…………」
けれど。
俺は誰とも話すことはない。
この灰色の高校生生活の始まりは一年の最初だろう。スタートダッシュをし損ねたせいで周りが先にグループを作ってしまった。
出来上がったグループに後から入ることの気まずさといったら計り知れない。そんな恐怖に後ろ髪を引かれて、友達を作れなかった。
そんな期間が長かったせいで、クラスメイトとの接し方を忘れてしまった俺は、二年生になった今でも絶賛ぼっち中なのである。
まあ、一人にもだいぶ慣れたけど。
持っていたものを失えば、その悲しさは大きいだろうが、最初から何も得なければ失う辛さは味わない。
結果、現状そこまで辛くはない。
ペアを作れと言われたときは結構困るが、それは困るであって寂しいとかとは違う。
だから、問題はない。
「あつ」
まだ春だと言うのに、今日の気温はずいぶんと高い。
坂を上りきったときには汗をかいていた。
いつものように誰とも話すことはない。ただ席について、ぼーっと時間の経過を待つだけだ。
「おはよう」
最初、俺に話しかけているとは思わなかった。
当然である。今までにそんなことがただの一度だってなかったのだから。
だからとりあえず返事はせずに外を見ていると、次は机をトントンと叩かれた。
そこで初めて、俺に話しかけているのだと気づいた。
誰だ? そう思いながら、俺は振り返る。
「おはよう、筒井くん」
「…………」
そこにいたのは笹倉木乃香だった。
まあ、考えてみればどういう事情かはさておくとしても話しかけてくるような変化があったのは彼女だけだし、この結果は順当といえば順当か。
驚き、言葉を失った俺を見て、笹倉はむうっと顔をしかめた。
「どうしたの? おはようって言われたら、何て返すのかな?」
「……お、おはよう?」
昨日まで有り得なかったこの光景に驚きすぎて言葉失ってたんだよ。ようやくの思いで言葉を絞り出したが、なぜか疑問系になってしまった。
筋肉とかは暫く使わないでいると衰えるというが、コミュニケーション能力も時間が経つと衰えるんだなあ。
そんなことを思いながら笹倉の様子を伺うと、俺の返事に満足したのかにこりと笑う。
「うん。おはようっ」
そして、弾む声でもう一度、俺にそう言うのだった。
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