怨19 帰ろうよ我が家へ

『あの山をいつか超えて、帰ろうよ我が家へ』


静子はこの歳になってはじめて気がついた。

幼い頃、母がよく口ずさんでいたのは『峠の我が家』だったという事を。

母におんぶされていたあの時。

静子のちいさな手は、ぎゅっと母の腕を掴んで、マシュマロの様な頬は柔らかい背中にぴったりとくっついていた。

揺りかごみたいに揺れながら、いつも聞こえていたのは『峠の我が家』

世界で一番幸せだった頃。

戻れるものなら戻りたかった。


『この胸に今日も浮かぶ、ふるさとの家路よ』


大好きだった母がいなくなった後、静子はひとりぼっちで多摩川にいた。

学校帰りや日曜日、船場から離れた河原でよく泣いていた。

そんな幼い頃の静子の目に、水遊びをしている3人の子供たちと若い女の人の姿は焼きついてしまった。

とても楽しそうに見えたあの光景が羨ましくて、その反面憎かった。

その人も唄っていた。

峠の我が家を。


『ああ我が家よ、日の光輝く』


静子の想い出は、滴り落ちる天水の雫にかき消されていった。

重たい瞼がゆっくと開く。

光のない世界、足元はぬかるんでいて酷い湿気が身体にまとわりついていた。

手探りで辺りのモノに触れた手の感覚は、どれもヌルヌルとしている。

カビや藻に似た手触りに、静子の意識はまた遠くなっていった。

眼前に広がる鉄格子には、なんの感情も湧かなかった。




『戸籍屋』 と呼ばる店舗は、JR神田駅を降りて数分の、雑居ビルの7階で貸金業を隠れ蓑に営業を続けている。

戸籍調査と金貸しは実に都合が良く、スタッフは元司法書士や弁護士、それに現役の地方公務員らが名を連ねていた。

一安は『戸籍屋』の常連で、7階フロア奥の別室にて担当者と商談を行う段取りを組んでいた。

ただいつもと違うのは、今日は理沙を同行させているという事。

経験を積ませながら、相手方にも名前を売るのが目的だった。

ビルのエレベーターのランプは『10F』を示している。

1階のエレベーター前で、一安と理沙は小さなモニターに映る女性を見ていた。

『10F』からエレベーターに乗り込んだその女性は、不思議と扉とは反対の壁際に、くっつく様に背を向けて立っていた。

エレベーターは女性を乗せたまま降下してくる。


『9F』『8F』


「火曜の真昼間だってのに」


一安が笑いながら言った。

理沙が続く。


「顔を見られたくないんだね、でもなんか気持ち悪っ」


「だな!」


古びた雑居ビルの狭いホールで、一安は理沙を引き寄せてキスをせがんだ。

エレベーターは女性を乗せたまま降りて来る。


『7F』『6F』


理沙は軽く拒んではいたが、一安の欲望を受け入れた。

エレベーターが到着するまでの僅かな緊張感、それを楽しみたいと思った。

ボタンに背を預けて、理沙は唇を受け入れた。

一安は、キスをする時も優しかった。

頭をそっと撫でてくれていた。


『5F』 『4F』 『3F』


エレベーターは女性を乗せたままでゆっくりと降りてくる。

壁にぴったりとくっついたままの姿がモニターに映し出されている。

一安も理沙も、それに気を止めることはなかった。

扉が開いたら、何気ない素振りで乗り込めば良いだけの話だった。

女に気付かれようが構わない。

むしろ、気付かれた方が面白い。

ずっとこのままキスを続けていようか。

ふたりとも、そう考えていた。


『ガコン』


という音がして、エレベーターの扉が開いた。

一安と理沙は身体を離し、女が降りてくるのを予想して道をあけた。

だがそこには誰もいなかった。


「わかった、二階で降りたんだよ。ほら!」


一安はフロア案内板を指差して言った。

テナント全てが貸金業だった。


「多重債務者だろ、返済が融資が増額か、ま、気の毒だねえ」


「だけど、早くない?」


「何が?」


「エレベーターが着くのが」


「いや。普通だよ。さ、行くぞ」


一安はすんなりと会話を切り上げて『7F』のボタンを押した。

エレベーターがゆっくりと動き始める。

一階のモニターには、三人を乗せて上昇するエレベーター内部の様子が映し出されていた。


『草の道、歌いながら、ふるさとへ帰ろう』





静子の足首まで赤茶けた泥水は滑り込んで、生温かな感触と鉄の匂いが辺りに充満しているのがわかる。

大量の汗が、静子の額から滴り落ちていく。

息も荒く、鉄格子にしがみついて立っているのがやっとだった。

その痩せた肩には大ゲジが這いずりまわっている。

何百本の足が唇や顎や鼻先に触れた。

静子はそれでも歌い続けた。


『ふるさとへ、帰ろう』


静子の瞳に涙が溢れた。

大ゲジは、静子の口の中へと引きずり込まれていく。

『ガリッ』という音がした。味覚も理性も麻痺してしまった静子は、それを一気に飲み込んだ。

静子の白い喉が上下に揺れる。

真っ赤な血が、静子の口元から垂れた。


『ふるさとへ』


静子は大きく目を見開いた。

そして叫んだ。


「助けて! 誰か! 誰か助けて!」

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