怨12 ミネラルウォーターの涙

自分の足音だけが秀逸に響いている。

ひんやりとした空気が鼻腔をくすぐる。

深呼吸をしてみる。

居場所が知りたい。それだけの理由。

コンクリートの砂、土壁、公園の鉄棒の錆びた匂い。どれも幼い頃にいたずら心で嗅いだ懐かしい匂いだ。

黒の世界の先に灯る山吹色のひかり。

ちいさなひかりは次第に大きくなっていく。

自分が近づいているのか、ひかりが近づいているのかはわからない。

もしかしたら空間が収縮しているだけかも知れない。それはそれで愉快な事象。

靜子の心に、奇妙な嬉しさが芽生え始めた。

幼少期に大好きだった唄を、思わず口ずさんでみる。


「うさぎ追ひし かの山 こぶな釣りし かの川

夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと」


靜子は子供の頃、よく母親に聞いていた。


「ママ、うさぎさんって食べられちゃうの?」


「しずちゃん。うさぎさんはね、食べるものじゃないのよ。生きているんだよ。あたしたちとおんなじだね」


「じゃあなんでおいしいの?」


「おいしいじゃないよ、おいし。追っかけるって意味よ」


「ええ〜」


「だから、おいしくはないんだよ」


母親はいつもニコニコ笑ってくれた。

靜子は嬉しかった。


優しいママ。大好きなママ。あたしだけのママの声が聞こえる。


「いかにいます 父母  つつがなしや 友がき

雨に風に つけても 思いいづるふるさと」


靜子は立ち止まった。

涙が零れ落ちた。

パラパラと、頬を伝って唇を湿らす雫は、ミネラルウォーターの味がした。

大好きだった母親は、ある日突然いなくなってしまった。周囲の大人達の会話を幼心に聞いて靜子は毎日泣いた。


「別の人を好きになったんだって」


じゃああたしは?

あたしの事は嫌いになったの?


黒の世界の靜子は涙を拭った。

遠くにしまい込んでいた想い出は、とうの昔にゴミ箱へ捨てた。

涙を拭ったハンカチと一緒に。

負けたくはなかった。

だから再び歩き始めた。

山吹色のひかりはぐんぐんと大きくなっている。その先に広がる光景を期待している自分が怖かった。


「こころざしを はたして  いつの日にか 帰らん」


靜子はやわらかなひかりに包まれながら、その温もりに身体を預けた。

胎児の記憶があるなら、きっとこんなものなのだろうと微笑みを浮かべて。

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