07話 糞野郎


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 あたしの名前はつきよ。

 トーキョーの2階建てのお家に住んでいるお父さんとお母さんが大好きな小学4年生だ。


 その日、学校から帰ってくると、黒いスーツを着たお母さんがリビングにあたしを呼んだ。

 お母さんはリビングのカーペットに座ると、あたしの肩を掴んだ。


「いい、つきよ。びっくりしないで聞いてくれる? お母さんとお父さんは、明日から別々に暮らすことになったの」


 あたしはリビングのテーブルに座るお父さんを見た。

 お父さんは何もないテーブルを見ていてばかりで、あたしを見ようとしなかった。お父さんはいつものエプロンをつけず、お葬式に行く格好みたいにスーツを着ていてネクタイを締めていた。


「つきよ。お母さんのこと好き?」


 お母さんがあたしに訊いた。


 あたしはお母さんに「好き」っていった。


「よかった。じゃ、お母さんと一緒に暮らす?」


「お父さんは?」


 あたしがいうと、お母さんは困っだ顔であたしを見つめた。


「お父さんは一人で暮らしたいって。一人の方がお父さん気楽だって」


「きらく?」


「とっても疲れないってことよ。お父さん、お母さんと暮らしてとっても疲れたって。だから、お父さんは一人で暮らしたいってお母さんにいったの」


「お父さん。そうなの」


 お父さんは答えなかった。

 じっもテーブルを見つめて、あたしと目を合わせようとしなかった。


「つきよ。マウスーランド好きだよね?」


 お母さんがあたしの肩を力強く掴んだ。


「お母さんと一緒に暮らせば、毎週土曜日にはマウスーランドに行けるよ!」


「ほんとに?」


「そうよ。美味しいご飯も毎日食べられるし、つきよの行きたかったところ、どこにでも行けるよ?」


 にっこりお母さんは微笑んだ。


 お父さんを見ると、お父さんはベランダに目を向けていた。


 あたしはお母さんを見て、お母さんの手を取った。


「あたし、お父さんと暮らす」


 お母さんは目をむいて、「え」といった。


「どうして? どうしてなの? お母さんのこと嫌いになった?」


 慌ててお母さんがあたしに訊き返した。

 お母さんのことは嫌いになんかなっていない。ずっと大好きだ。


 だけど。

 あたしはお父さんのことも大好きだ。


 お父さんはダメな人だ。

 洗濯物も干し方下手だし、掃除機をかけてもホコリだらけで、ご飯も全然おいしくない。


 会社から帰ってくるお母さんに毎日怒られてばかりで、怒られすぎて何日も無視されたりすることもしょっちゅうあった。


 でも、お父さんはお母さんのことが好きだ。

 あたしのことも大好きだ。


 だから、お父さん。

 ダメダメだけど頑張っていたんだと思う。


 みんなのこと大好きだから。

 お父さん頑張っていたんだ。


「つきよ。よく考えて。本当に本当によく考えて!」


 お母さんは大きな声であたしにいった。


 知ってるよ。お母さん。

 お母さんが毎日遅い理由も。

 土日に一人で出かける理由も。


 あたし、知ってるよ。


 お父さんはお母さんのこと好きだけど。

 お母さんがお父さんのこと好きじゃないことも、あたしは知ってる。


 お母さんは凄い人だと思う。


 なんでも一人でできちゃって、本当にすごいとあたしは思う。

 学校で「たくましい人」っていう言葉を習った時、真っ先に想像したのがお母さんだった。

 それぐらい、お母さんはたくましい人だと思う。


 あたしはお母さんのことあたしのことは好きだ。

 そして、お母さんは一人で生きていける。


 でも。

 お父さんは違う。


 お父さんは料理もできないし洗濯物もちゃんと干せないダメダメな人だ。


 お母さんがそばにいないなら。



 あたしがそばにいないと。



 そう、あたしはお母さんに伝えた。


「つきよ……」


 お母さんはあたしを強く抱きしめた。

 リビングのテーブルから、お父さんがすすり泣く声が聞こえた。



 ──翌日。

 お母さんは荷物をまとめて家を出た。


 お母さんとは毎週土曜日に会う約束になったり、トーキョーの二階建ての家を売って今にもお化けが出そうなオンボロアパートに引っ越ししたり、お母さんと暮らしていたようにお外のファミレスでご飯を食べるっていう贅沢なことはしなくなった。


 お父さんは警備員の仕事をするようになって、あたしが寝てから家に帰ってくる生活が続くようになった。


 それから。


 お父さんは電話をすることが増えた。


「どういうことですか? 間に合ってるって……私では役不足ということですか? いえ、私は……ええ…ええ…そうですか」


 学校から帰ると、お父さんはいつも玄関で電話をしていた。


 そして、いつもため息をついてから通話を切っていた。


「お父さん、ただいま」


 あたしがいうと、お父さんは返事をしなかった。

 黙ってリビングに戻って、テレビをつけた。

 夜になるとお父さんはご飯を食べて、警備員の仕事をしに外に出かける。

 帰ってくるのは朝で、そのままシャワーも浴びずにお布団で寝て、あたしが学校に行く時間になっても、いびきをかいて寝続けている。

 そんな毎日が続くようになった。


 ある日。


「ふざけんじゃねぇ!」


 夜。

 リビングでカップ酒を飲むお父さんが、突然怒鳴った。

 怒鳴り声で起きたあたしは、何事かと思ってリビングを開けた。


 お父さんの目は真っ赤に充血して、口からよだれが垂れていた。


「会社員をまともにやってことない俺がまともに仕事ができないと思ってるのか?! ふざけんな! ちきしょう! 俺は公明寺延禄寺の本堂壁画を修繕したことあるんだぞ! そこらの芸大出たばかりのガキよりかは技術はあるんだ!」


 水を一気飲みをするように、お父さんはカップ酒を一気に飲み干した。


 お父さんは普段、あまり、お酒を飲まない。

 缶ビール一本飲んだだけで顔を真っ赤にして眠くなるといつもいっていて、大切な相手じゃなければ、基本お酒は飲まないとお父さんはいつもいっている。


 そのお父さんが、カップ酒を一気飲みをしている。

 とっさに、昨日見た急性アルコール中毒で死んだおじいさんのネットニュースがあたしの頭にちらついた。


「どれだけ俺が神様仏様を直したと思ったんだ! その仕打ちがこれかよ! バカにしやがってちきしょう!」


「お父さん!」


 あたしはお父さんの腕をとった。


「お酒飲まないで!」


「うるさい!」



 どんっ!



 お父さんがあたしを突き飛ばした。

 一瞬、なにが起こったか理解ができなかった。


 初めてだった。


 お父さんに突き飛ばされたのは、生まれて初めだった。



「満足か?」


 真っ赤に目を充血したお父さんが、あたしを見た。

 見たというより、睨んだといった方が近かった。


「ダメなオヤジを見て、満足したかって聞いてるんだ? どうなんだ?」


 お父さんが立ち上がった。

 反射的にあたしはびくついた。


「聞いてるんだ! 答えろ!」


 お父さんが怒鳴った。

 あたしは耳を塞ぎ、目をギュッと閉じた。


 あれはお父さんじゃない。

 お酒を飲んだお父さんに悪いオバケがとり憑いたんだ。

 お父さんじゃないから、こんなに怖いんだ。

 あたしは必死に自分に言い聞かした。



 しーんと急に物音がしなくなった。



 薄ら目を開けると、お父さんがあたしの前で膝をついていた。


 大粒の涙を目に溜めて、鼻水がだらだらと垂れたくしゃくしゃな顔で、「ごめん」とあたしに向かっていった。


「ごめんな、つきよ。お父さんが最悪だよな……ううう」


 その夜を最後に、お父さんはあたしの前でお酒を飲まなくなった。


 あたしは、自分の選択を後悔していない。

 お母さんはあたしが6年生の時には再婚して、今は幸せだっていってるし。

 お父さんもあたしと暮らせて嬉しいといってくれる。


 だけど。


 時々、ほんの時々だけ。

 あたしは考えることがある。


 どうして、あたしの人生こうなんだろうって。


 お父さんはダメな人だ。

 ダメな人だから、あたしがついていないとダメだ。


 それはわかっている。


 でも。


 あたしの人生は、ダメなお父さんを支え続けるだけで終わるのだろうか。


 これから中学高校に進学して。

 大学に行かず就職して、お父さんと一緒に暮らし続ける人生。


 恋愛も結婚も諦めて。

 自分の人生を犠牲にして。


 ひたすら。

 ただ、ひたすらに。


 ダメな父親を陰で支え続ける。

 そんな一生がこれから待っている。


 そんな未来を想像した一瞬。


 ゾッとした。


 もちろん、そうなると限らない。

 状況が変わって、もっと明るい未来が来ることもあり得る。


 しかし、万に一つの可能性として、ゼロとはいいきれない。


 そう感じてしかたがない。


 ……なんなの。


 なんの仕打ちなの? これ。


 神様。


 もしこの世に神様がいるなら、ひどいと思う。


 あたしは、ただ、家族が仲良く幸せになることを祈っているのに、どうしてお父さんとあたしにこんな仕打ちをするんだ。


 神様。


 答えてよ。


 どうしてこんなひどいことをするの……?



《それは奴がクソ野郎だからさ》



 あたしの目の前が、突然真っ暗になった。

 真っ暗の先に、黒い何かがいた。



《目が覚めたかい? 月夜》


 黒い何かがあたしにいった。


 視界がだんだんはっきりしてきた。


 はっきりしてきた視界にいたのは、黒くてけむくじゃらの生き物……いや、バケモノだった。


《ようこそ、クソな現実に》


 あたしは悲鳴を上げた。



 To be continued....

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