04話 墓参り


 +


 かつて江戸幕府が布告した禁教令によって、キリスト教が弾圧された時代があった。


 そんな中、幕府に隠れて信仰を続けたキリシタン信者たちのことを『カクレキリシタン』と呼ばれていた。


 隠れ切支丹と書いたり。

 潜伏キリシタンと呼ばれることもあったそうな。


 歴史の授業では、イエズス会のフランシスコ・ザビエルと鉄砲伝来の説明のついでに軽く紹介される程度で、ほとんどの人はカクレキリシタンについて知らないと思う。


 1612年。

 

 慶長17年の江戸時代。


 幕府はキリシタンに対して熱湯漬けや俵責めの拷問を行い、多くの罪なきキリシタンたちを徹底的に迫害してきた。


 拷問の果てに殉教した者。

 あるいは幕府の命令で棄教した者など。

 公式の記録こそ残されていないが、犠牲となった人間は60万人以上とされている。


 多くのキリシタンが棄教殉教する中、一部のキリシタンのグループは『偽装棄教』で、幕府の目を逃れてきた。


 偽装棄教。


 それは表向きは仏教徒とみせかけ、その実、キリストを信仰する行為のことだ。


 棺の前で念仏を唱える仏教式の葬式を行った後、別の場所で十字架を前にオラショ(祈祷)を唱える『二重葬儀』を行ったり、あるいは合掌した両手の親指を十字に重ね、心の中でキリストに食事の感謝の祈りを捧げるなどなど。


 要するに。


 キリシタンたちは仏教という幕府が認めた宗教をカモフラージュにして、宣教師が教えた『信仰』を子孫代々に伝えてきた。


 それがカクレキリシタンだ。


 ここまで説明すれば、「へぇー、そんなことがあったんだ」「そういう宗教の歴史があったんだ」と、大抵の人は月並みな感想を述べるだけで終わるだろう。


 だけど。


 カクレキリシタンは、歴史上に起こった過去の出来事なんかではない。



 江戸幕府の弾圧と迫害を受け続けた後。



 宣教師という指導者がいないまま。



 長い長い年月が経った。



 およそ400年。



 ──現在。



 カクレキリシタンは、『隠れて信仰』をすることが教義の、キリスト教とはまったく別の宗教へ変容した。



 そして。



 今もなお、カクレキリシタンの信仰は続いている…………。






 俺の名前は黒翼・パウロ・神太郎。


 海円寺の十二代目の住職だった黒翼円斎の孫で、現代も継承される『カクレキリシタン』の末裔の高校一年生だ。



 +



 水曜日の昼下がり。


 雲のない真っ青な空の下、俺は黒翼家の墓前の前に立っていた。


 墓前には、菊の花と藁で作られたロザリオが飾られている。


 カクレキリシタンは、地域によって信仰方法が変わってくる。

 読経した声を壺の中に入れて経消しという儀式をしたり、白い石を地面に十字に並べて祈るなど、中には貝殻をイエス様マリア様に見立てて信仰するとか、もはや伝来されたキリスト教の原型すら留めていない多種多様な習慣がそれぞれの地域やグループで存在する。


 海円寺のカクレキリシタンは、この藁で作ったロザリオを線香の代わりに燃やすことを弔いの儀式としている。

 藁を燃やす理由は、幕府の役人に見つからないように証拠隠滅を兼ねて行っているのだとじいさんから教えてもらった。


 俺はポケットからライターを取り出し、墓前に置かれた藁のロザリオをつまみ上げ、ロザリオに火をつけた。


 ロザリオはめらめらと燃え、あっという間に灰になった。


 じいさん。

 あんたの前でロザリオを燃やすのは。

 これで10回目になるな。


 もう10年経ったんだ。

 俺にとって長い10年だった。


 世界遺産に登録されたり、俺たちのことを題材にした映画もできた。


 だけど、その分、カクレキリシタンの数も減った。


 あんたと同じで死んだ信者もいれば、都会に移り住んで離檀した者もいる。

 時代は変わったというとジジくせえとあんたならいうかもしれないが、本当に時代は変わったんだと思う。


 だけど。

 俺はあの時の出来事を覚えている。


 あんたが俺たちのために戦ってくれたことを。

 俺は忘れはしない。絶対に。


「神太郎。そこにいたの」


 声が聞こえた。


 振り向くと、スーツ姿の女性がハイヒールで砂利を踏みながら歩み寄ってきた。


「水谷か」


「呼び捨てはやめて。せめて水谷さんにして」


 水谷はそういうと、じっと俺を見た。


「なんだよ」


「円斎さんに似てきたわね」


「似てねぇよ。あんなクソじじぃに」


 俺がいうと、水谷はくすっと微笑んだ。


「そういうところがそっくりね」


 水谷は黒翼家の墓の前に、俺の隣に並んで立った。


 今日はじいさんの命日だ。

 10年前。

 悪魔を倒したじいさんは、その直後、この寺で死んだ。

 警察には、じいさんはヒグマに食い殺されたということで片付けてもらっている。


 キリシタン寺である海円寺の檀家は300軒。

 信者の数でいえば2000人を超えている。

 そして海円寺の檀家はすべてカクレキリシタンだ。


 信者の中に警察と自衛隊、政府の関係者がいたおかげで、悪魔の存在をもみ消すことはできた。


 近年、一部のカクレキリシタンのグループが世間に自分たちの存在を公表する動きがあった。

 隠れる必要のなくなった現代社会において、自分たちの存在を明かし、自分たちの存在を受け入れてもらおうというのが理由だそうだ。


 俺の所属しているカクレキリシタンのグループ、もとい海円寺のカクレキリシタンたちの考えは彼らとは違う。


 今も昔も、自分たちの存在は世間に隠し続ける。


 そして。

 悪魔の存在も隠し続ける。


 カクレキリシタンは、隠れて信仰するからこそカクレキリシタンだ。


 カクレキリシタンがキリストを信仰していることを公にいえば、それはもはやカクレキリシタンではない。

 それが海円寺のカクレキリシタンの総意だ。


 悪魔の存在を隠すのもそうだ。


 悪魔の存在を知って、世間が喜ぶことはない。

 日常を脅かす得体の知れない『恐ろしい存在』が現代社会に現れたというだけで、人々は恐怖でパニックに陥る。


 それに。

 弱い存在は自分より弱い相手を攻撃する傾向がある。

 悪魔の存在を公表したことで、警察や政府、マスコミ連中たちは、隠してきたカクレキリシタンの俺たちを「なぜ隠した!」といって弾圧するかもしれない。

 あるいは。

 カクレキリシタンが悪魔を呼び寄せている張本人だと決めつけられることもありうる。


 悪魔の存在は伏せておくべきだ。


 知って不幸になることは知らない方がいい。

 仏教でも『知らぬが仏』という言葉もあるぐらいだしな。


 俺の家族や一部の関係者以外は、じいさんは山に出没したヒグマに食い殺されたということで通っている。


 いいんだ。

 それがいいんだ。


 じいさんは死ぬ間際、俺や家族にそういった。


 悪魔なんて存在しない。

 俺はただ通りすがりのクマに喰われただけのただの寺の坊主だった。

 それだけわかれば、世間は十分だ。

 ニュースになっても、明日には忘れられる存在でいい。


 と。


「何が明日には忘れられる存在でいい、だ。かっこつけやがってばかたれが」


 俺は墓石をじっと見つめ、10年前の出来事を思い出した。


 《あすもでうす》が来たその夜。


 朧げな5歳の記憶の中でも、はっきりとあの時の出来事は覚えている。


 天井画のある本堂で、俺とお袋は震えながら隠れていた。じいさんの悲鳴と雄叫びが闇夜に響いた恐ろしい夜だった。


 本堂の戸の隙間から、血まみれになりながらも巨大な悪魔相手に果敢に戦うじいさんの姿を見た。


 マジで小便を漏らした。

 マジのマジだ。

 話に聞いていた本物の悪魔を見て、本気の本気でビビって息をするのさえ忘れちまっていた。


 血まみれになって戦うじいさんを見て。

 心底震え上がって、動くことすらできない自分自身が。

 なんて無力な存在なんだと痛感した。


「神太郎。泣いてるの?」


 水谷が俺に声をかけた。


 へっと俺は笑った。


「あの時のことを思い出して、笑っちまっただけだ」


「笑う?」


「じいさん、血まみれになって死にかけだっていうのによ、バケモノ相手に向かってなんていったかわかるか?」


 俺は立ち上がり、水谷に振り返った。

 水谷は首を傾げ、「さぁわからないわ」といった。


「『てめぇごとき雑魚相手にするほど、神サマはヒマじゃねぇんだ』って。まったくどこまでドMなんだか」


「……円斎さんらしいわね」


「そうだな」


 じいさんはいつも俺にいっていた。


 いいか、神太郎。

 神サマっていうのは、めちゃくちゃ忙しい方なんだ。

 俺たちが日常に溜まったストレスだの悩みだのをいちいち聞いてくれるほど時間に余裕がある方じゃない。

 神サマはやることが死ぬほどあるからな。


 だから、神サマをアテにするな。

 てめぇのムシのいい奇跡を叶えてくれることを神サマに期待するんじゃない。



 ──俺たちが神サマを信じるんじゃない。

 ──神サマが俺たちを信じているんだ。


 こんはくだらねぇピンチごとき、絶対乗り越えることができる。


 いや、乗り越えることができないわけがない。


 たとえ人類を絶滅する悪魔が現世に降臨しようとも、神サマは俺たちのことを信じている。


 その信じている神サマの期待に応えるのが……。

 俺たち人間の役割なんだ。


 と。


 ガキの時は理解できなかった。

 じいさんが何をいってるのかよくわからなかった。



 あの夜までは……。



「神太郎」


 水谷が俺に声をかけた。


「私の知り合いに、カトリック教会の知り合いがいるわ。その、もしよかったらなんだけど」


「……ありがとうよ、気を遣ってくれて」


 水谷が何を提案しようとしているのか、おおよその察しはついている。


「じいさんの墓はここがいいんだ。ここが俺たちの家だからな。きっとじいさんもそれを願ってる」


 俺は水谷にいった。

 400年前の禁教令時代ならきっと喜ばれていたことだろう。

 だが、今は違う。


 俺たちはカトリック教徒じゃない。


 カクレキリシタンだ。


 俺もじいさん、そして檀家の人たちみんなは、自分たちがカクレキリシタンであることを誇りに思っている。


「……ごめん。無神経すぎたかも」


 水谷が一言謝った。

 俺は水谷の横を通り、本堂に向かって歩を進めた。


「で? 俺に何か用か?」


 水谷は今日、東京で仕事があるといっていた。だから、今日のじいさんの10回忌には参加できないと昨日の晩にうちに連絡をよこしてくれた。

 わざわざ予定を空けてこっちに来たということは、うちにとって重要なことを伝えにきたのだろう。

 

「天井画の修復、引き受けてくれる人を見つけたわ」


 俺は立ち止まり、水谷に振り返った。


「本当か?」


「私の大学時代の先輩に、公明山延禄寺の千手観音像を修復した実績を持っている美術修復士がいるの。声をかけたら即オーケーしてくれたわ」


「天井画を直せるのか?」


「たぶん、大丈夫。私が知る限り、陰陽堂の本堂壁画の修繕にも携わったことがあるから、腕は信用はできるわ」


 水谷は鼻の穴を膨らませて俺に言い切った。

 公明山延禄寺。

 たしか京都にある曹洞宗の寺で、たしか延禄寺の千手観音像は国宝指定されている貴重な仏像だと聞いたことがある。

 それに陰陽堂というと、10円玉のデザインに彫られている寺だ。陰陽道の本堂壁画が修繕されていたことは知っていたが、まさかそれに関わったことがある修復師が来るなんて……水谷の人脈には正直驚かされる。


 だが。


「水谷。そいつは……」


 俺は水谷に確認しようと口を開いた。


 誰かが来る気配を感じた。


 ざしゅ、ざしゅ、と砂利を踏みしめる音が近づいてきた。


 俺と水谷が振り返ると、黒いスーツを着た強面の男2人が俺たちに向かって歩み寄ってきた。


「お話中、よろしいかな、邪魔しますよぉ」


 男の1人が水谷、俺の順番をねめるように見つめてきた。


 水谷の表情が強張り、一歩後ろに引いた。

 水谷の反応を見て、声をかけてきた男があからさまに鼻で笑った。


「海円寺の神太郎君は、君かな?」


 男が俺に声をかけた。


「あんたは?」


「俺はこういうものだ」


 男が懐から名刺を取り出し、俺に手渡した。


 不破淳一。


 所属は足柄企画という会社で、肩書きはフリーコンサルタントと名刺には書いてある。

 なんだ。

 ただのヤクザか。


「ヤーさんが俺になんの用だ?」


「なんだとガキ! 言葉に気をつけろ!」

 

 不破の隣に立っていたもう1人の舎弟が、俺に凄んできた。

 口を開いた舎弟の歯の数が少なかった。


「まぁ落ち着け木山」


 不破が木山の肩を叩いてなだめた。


「おたくの両親に相談したいことがあるんだけど、なかなか会わせてくれなくてね。それで坊やである君に声をかけたんだ」


「なんの相談だ?」


「あんたんところ、たしか不動会と繋がりがあったよな」


 不破の口が、にたぁっと歪んだ。


 ……なるほど。

 そういうことか。


「神太郎、この人たちは一体?」


 スジものが登場したことで、水谷は不安そうな表情を浮かべている。


 400年間。

 カクレキリシタンが幕府や人目を避けて信仰を守るには、手段を選ぶことはできなかった。


 教えを守るため。

 時には犯罪組織と結託することもあったそうだ。


 一時期、寺の存続維持のため、海円寺が反社会勢力団体と関わっていた時期があったというのはオヤジから聞いたことがある。


「さぁ、わからねぇな。不動会なんて初めて聞いたし」


「すっとぼけてるんじゃねぇ! くそガキ! てめぇんとこの寺が不動会に金を流してることぐらい調べはついてるんだよ!」


 怒鳴り散らす木山が、俺の胸ぐらを掴んできた。


 おいおい。

 高校生相手にいい大人が虚勢はってんじゃねぇっての。みっともないぞ。


「木山。てめぇは黙ってろ」


 不破が木山の手首を掴んだ。

 めりめりと骨が軋む音が聞こえた。


「あ、あが!」


 うめき声をもらす木山の顔がみるみるうち青ざめ、額に脂汗の粒が噴き出た。


「すまなかったな、神太郎くん」


 どんっと鈍い音が聞こえた。


 胸ぐらを掴んでいた木山の手を無理やり引き剥がした不破が、木山の鳩尾にボディーブローを一発お見舞いした。

 鳩尾にボディーブローを食らった木山が、痛みに堪えられずその場で腹を抱えて膝が崩れた。


「ちょいっとうちには『熱心』な奴がいるんだ。仕事に対して『熱心』な奴が。『熱心』すぎてつい行動に出たんだ。許してやってくれ」


 木山は『熱心』という単語を強調するようにいった。


「うちの会社はみてわかるように、『熱心』がモットーなんだ。あんたんところが困ってるのを知っているから、『熱心』に募金したくなったんだ」


「どういうことだ?」


「天井画の修繕……金がいるんだろ?」


 しれっと不破がいった。

 俺は水谷を見た。

 水谷はかぶりを振った。


 ……なるほど。

 そうか。


 どこで嗅ぎつけたか知らないが、たしかに熱心に情報収集したみたいだ。

 ヤクザの情報網を侮れないな。


「なぁ、この際誰が口割ったかなんてどうでもいいだろ? そんなことよりも天井画の修繕について考えることがあるんじゃねえか?」


「金ならある」


 俺がいうと、不破が嘲笑った。


「そんな端金で人を雇っても安物買いの銭失いだぜ? 中途半端な職人雇うよりも、もっと人を雇って修繕した方が早いし品質も保証される」


「生憎だが、うちの檀家は重度の人見知りなんだ。ただでさえ外部の人間を呼ぶことに抵抗があるのにそんな大人数を呼ぶとなりゃ説得するのに時間がかかる」


 カクレキリシタンは、世間に隠れて信仰することが教義の宗教だ。


 他人はすべて敵だと思え。


 たとえ血の繋がった身内でも、カクレキリシタンでなければ絶対に信用をしてはいけない。


 小さい頃からそう俺は教えられてきた。


 信者たちの徹底した排他的文化のせいで、天井画の修復に外部の人間を呼ぶのにかなり苦労をしたとオヤジはいっていた。猛反対する檀家たちを説得するのに、10年はかかったそうだ。


「心配するな。説得はこっちの得意分野だ」


 ちっ。


 しつこいな。

 高校生のガキ相手だからっていういうのもあるだろうけど、食い下がる気配がねぇ。


 宗教法人である寺を利用した悪徳商法を思いつく輩は昔から後を絶たない。非課税対象をいいことに、こういうアホな連中はとんでもない商売をうちに持ちかけてくる。


 資金洗浄か。


 あるいはクスリが絡んだ使った何かのビジネスか。

 どっにしろ、ろくでもないことに関わることは間違いない。


 こういう罰当たりなうぜぇ連中をいちいち相手にしていたらキリがない。


 ったく、面倒くさいな。

 今日はじいさんの命日だっていうのに。


「あの! ちょっといいですか!」


 水谷が不破の前に立った。

 膝と声が震えているのがはっきりと伝わってくる。


「そういったことは事前に黒翼さんに連絡をとってからお話することだと思います! アポなしで、しかも子供の神太郎を巻き込むなんてどうかしてますよ!」


「口を挟むんじゃねぇ、ババア」


 低くドスを効かした声で、不破が水谷を威嚇した。


「殺すぞ」


 水谷がびくつき、息を飲んだ。

 不破は水谷を無視し、俺に目を向けた。


「神太郎くん。なんでもあんたのじいさんは、不動会とはちょいっとしたビジネスパートナーだったみたいじゃないか。うちのような健全な企業はよくて、どうして不動会なんてヤクザな連中と付き合うことはできるんだ?」


 ずいっと不破が一歩前に進み、俺との距離を詰める。


「うちだってあんたんところと仲良くしてぇんだ。いいだろ? 別に」


 不破が俺の顔を正面から覗き込む。


 ……反吐がでる。


 勘違い野郎っていうのはいつの時代もどんな場所にも出てきやがる。


 すまねぇなじいさん。


 あんたの墓前の前ではやりたくなかったが、怪我人を出さないためだ。許してくれ。


「不破さん。タバコ吸わねぇ?」


 にっと俺は作り笑いをした。


「あん?」


 不自然な俺の笑顔をみて、不破が眉間にシワを寄せた。


「ガキ、俺をバカにしてるのか?」


「カリカリすんなよ。なんだかピリついた空気だからよ、タバコ吸って落ち着こうぜ」


「……やめたんだよ、俺は」


 ちっと不破が舌打ちした。


 思わず吹きそうになった。

 ヤクザが禁煙か。世も末だな。


「そうか、そいつは残念だ」

 

 俺は懐にしまったライターを取り出した。

 左手のひらの上にライターを乗せ、ぎゅっと手のひらでライターを包み込んだ。



 べきべきっ!



「は?」


 ライターを握りつぶす俺を見て、不破が唖然となった。


 唖然となった不破に、

 俺はすかさず自分の拳を口につけた。



 ふっ!



 拳の中で滞留したライターの『ガス』を不破の顔面めがけて吹きかけた。


 不破にガスが当たった。


 瞬間。


「ぎゃあああああああああ!」


 ちりちりと不破の髪の毛の先が燃えた。

 髪の毛の先が燃えた次に、不破の顔面が突然火だるまになった。


《貴様ぁああああ! なにしやがる!》


 ばきりっ。


 不破の顔面がスイカのように真っ二つに割れた。


 割れた顔面から、コウモリの羽が生えた小さい小人のような生き物が姿を現し、燃えながら不破の顔面から脱出した。


「なにって、祝福儀礼を施した『聖油』をぶっかけただけだ」


 カクレキリシタンたちがオランダ宣教師から教わった方法で作られた聖なる油。

 本家本元のカトリック教会が作った油より多少効果は薄いが、使い魔クラスなら十分だ。


《ぶっ殺してやる!!!!!!》


 めらめらと燃えながら、使い魔が襲いかかってきた。


「ふんっ」


 俺は使い魔の首根っこをつかんだ。


 遅ぇな。

 くそ、遅ぇぞ。


 目を瞑ってでも掴めるぐらいスローな動きだ。

 マジのマジで、相当下っ端の使い魔だな、こいつ。


「地獄に帰れザコ」


《調子にのるんじゃねぇぞ、半端者が。てめぇなんざあすもでうす様にかかれば一瞬で……》


 使い魔が捨て台詞を吐き終わる前に、俺は使い魔の首を握り潰す。


 使い魔の首が逆Vの字に折れた。


 首が折れた使い魔は、瞬く間に灰となり、やがて跡形もなくその場から消えた。


「あ、兄貴!」


 顔面が割れたまま、不破は大の字になって倒れていた。


 木山は大の字になって倒れている不破にかけより、不破の体を揺さぶっている。


 不破は死んでいる。

 使い魔に体を乗っ取られた時点で、不破の体は死んでいたのだ。どの道、助けることはできなかった。


「て、てめぇ! よくも兄貴を!」


 木山が俺を睨みつけた。


 木山は違う。

 まだ悪魔に取り憑かれている気配はない。


 ただ、危うい雰囲気はある。

 悪魔は、『魂が弱い人間』を狙って、取り憑いてくる。


 拝金主義者や欲に弱い人間っていうのは、悪魔に肉体を狙われやすい。


 たまたま不破というヤクザに使い魔が取り憑いたが、この木山だって悪魔に取り憑かれない保証はどこにもない。


「なんだ? やるのか?」


 握り潰したライターの破片を地面に捨て、俺は拳の関節を鳴らした。


 木山は前歯をむき出し、一歩引いて怯んだ。


 たらたらと汗が流れている。地面に倒れている不破の死体に目を向け、「ちきしょう!」と悪態をついた。


「てめぇ……ぜってぇ殺してやるからな!」


 木山は俺を指差すと、踵を返してその場から走って去った。


 おい、死体、持って帰れよ。

 兄貴なんだろ、お前の。


「神太郎、これは一体……」


 状況が飲み込めてない水谷が、俺と不破の遺体を交互に見やって目を白黒させて顔色が真っ青になっていた。


「水谷。天井画の修復を急いでいる理由がこれだよ」


 俺は手の中に残った割れたライターの破片を地面に払い落とした。


 水谷は生唾を飲み込み、不破の死体を直視する。


「円斎さんがいってた『結界のチカラが弱まっている』っていうのは、このことなのね」


 俺は踵を返し、本堂に歩を進めた。


 まだ使い魔程度の悪魔しか入ってきていない。

 あのレベルの小さな悪魔は、網戸の隙間をくぐり抜ける小さな蚊のようなものでどうってことはない。


 問題は、蚊以上のでかいヤツが入ってきた時だ。


 俺やオヤジ、他の霊力を持ったカクレキリシタンが倒すことのできる悪魔が現世に侵入してきたら、あるいは……。


「ちょっと死体のことをオヤジに話してくる。水谷。悪いがお前はそこで見張っててくれないか」


 俺は振り返らず、砂利を踏みしめながら水谷にいった。


 返事がなかった。

 俺は振り返って水谷を見た。


「はい。水谷で……え! そんな……! 困ります! 先輩! 断るって……え! 娘? 月夜ちゃんが? ちょ、待って!」


 水谷がスマホを両手で持って電話をしている。


 どうやら一方的に電話を切られてしまったようで、泣きそうな顔で水谷が俺を見つめてきた。


「どうした?」


「天井画の修復を頼んだ人が……断ってきた」


「なに?」


 どういうことだ。

 さっき引き受けてくれる人を見つけたって。


「引き受けてくれるといってくれたわ。でも、さっき電話で断りたいって……」


「どうして?」


「それが……家族から反対されたって……」


「なぜ?」


「わからない。知らない相手でもないはずなのに……娘の月夜ちゃんがダメだって」


「……代わりの修復師は見つからないのか?」


 水谷はかぶりを振った。


「すぐには見つからない。白鷺さんクラスの技術を持ってる人をおさえるなら、今年は無理。3年後……4年後なら……」


 ちっ。


 俺は舌打ちをした。

 使い魔が現世に出入りできる今の状況だ。悠長に人を探して待っている余裕なんてない。


 400年間守られてきたカクレキリシタンの伝統がどうとか、そんなこと俺の知ったことじゃないし、どうでもいい。


 俺はじいさんが命がけで守り抜いたこの世界を、じいさんの意志を継いで守っていきたい。


 そのためなら、どんな手段を使ってでも守り抜く覚悟はある。


「行くぞ。水谷」


「え、どこに?」


「決まってるだろ。反対している修復師のその家族を説得しにいくんだよ」


 こんな時も、神サマは俺たちに救いの手を差し出さない。

 当たり前だ。

 こんなクソくだらねぇ逆境ごときで、いちいち力を貸すわけがない。ばかたれが。


 って、きっとパライソ(天国)にいるじいさんなら、そういうに違いない。


 そう心の中で俺はつぶやきながら、霊園の外に停めてる水谷の車に向かった。


 To be continued....

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