01話 父之夢
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あたしの名前は白鷺月夜。
東京都A区の築80年の木造ボロアパートに、お父さんと2人暮らしをしている高校2年生だ。
その日、いつものようにスーパーのバイトが終わって家に帰ると、台所のテーブルの椅子に座ってお父さんがあたしを待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
お父さんはぼそっといった。
神妙な面持ちだった。
なんとなく、嫌な予感をあたしは感じた。
「仕事終わったの?」
「まぁな。5時くらいに家に着いたんだ」
「5時ってことはさ、雨すごかった時じゃない?」
「ああすごかった。今日は晴れだって天気予報でいっていたのに、まさかあんなに降るなんてな。念のためもっていってよかったよ。折りたたみ傘」
「あたしの勘も、たまには当たるでしょ?」
濡れた傘を玄関に広げたあたしは、ローファーを脱いで鞄を床に置いた。
喋っているテンションはいつも通りだ。
怒っているとかそういうのじゃない。
でも、なんだろう。
なんか嫌な予感がしてやまない。
「お前は大丈夫だったか?」
「平気。バイト上がるタイミングで晴れてたから」
「そうか」
「今日、バイト先で余ったお惣菜もらって帰ってきたよ」
あたしはテーブルにお惣菜が入ったスーパーの袋を乗せると、お父さんは興味深そうに袋の中を覗いてきた。
自然な素振りを演じている。そんな様子だ。
ますます嫌な予感がする。
「お? なに持って帰ってきたんだ?」
「お寿司。スープは作るからお野菜なしでもいい?」
「ああ、大丈夫だ」
「たまにはあたしも晩御飯作るのさぼりたいしね」
「洗濯物取り込んでおいたぞ。雨のおかげで濡れていたから、もう一回洗濯し直してる最中だ」
「ありがとう。超助かる!」
「たまには俺も家事やらなきゃいかんからな」
「お父さん。体冷えてるよね? 今からお風呂沸かすからちょっと待ってて」
「月夜」
お風呂場に向かおうとしたあたしを、お父さんは呼び止めた。
うわぁ……うわぁ……。
きたぞ。
嫌な話的な何かを出されるぞ。
「なに?」
「その前に、大事な話がある。座ってくれ」
やっぱりね。
やっぱそうだよね。
「え、なになに? 大事な話?」
お父さんがまっすぐこっちを見つめた。
「すぐ済むから、着替えは後にしてくれ」
「わかった。お風呂いいの?」
「あとで入るよ。いいから、座ってくれ」
「うん」
あたしは言われた通り、椅子に座った。
お父さんはあたしを見つめる。
あたしはお父さんを見つめた。
しばらく沈黙が続いた。
「……」
いや、なんかいえよ。
自分から大切な話があるっていったんでしょ。
と、あたしは心の中でごちた。
「……えっと、それで?」
「仕事が決まったんだ」
お父さんはいった。
仕事が決まった?
──それって。
まさか?!
「再就職先決まったの?」
おおおおおお!
ついにお父さんの仕事が決まった!
よかった! やっと正社員になったんだ。
助かる! これで家計の切り詰めから少しは解放される! よかったぁ!
「転職したわけじゃない。『仕事』が決まったんだ」
心の中で諸手を挙げて喜ぶあたしに、お父さんは水を指すようなことをいった。
……え?
どういうこと?
仕事が決まった?
転職が決まったんじゃないの?
「『仕事』だよ。単発の大きな仕事だ」
一気に気持ちが冷めた。
「ああ、そうなんだ。就職したわけじゃないんだ」
転職したわけじゃないと聞いて、余計にがっかりした。
なんだ。また期間限定のアルバイトか。
「……で? 次はなんのバイトするの?」
「美術修復だ」
「び、びじゅつしゅーふく?」
唐突に聞き覚えのない単語が出てきて、あたしは戸惑った。
なにそれ? 美術修復って。
「劣化や破損した美術品を修復する仕事だ。絵の具が剥がれた油絵を上から絵の具を塗って補強したり、表面が割れた木製の彫刻を内側から補強材をつけて直すのが、美術修復家の主な仕事だ」
お父さんがわかりやすくあたしに説明した。
ふーん。へぇ。
そんな仕事があるんだ。
知らなかった。ふーん。
「お父さん、昔、美術修復の仕事をしていたんだ」
「へぇ、そうなの?」
「ああ、その中でもお父さんは仏教美術が得意でな。昔の話だけど、大きなお寺の千手観音を直したこともあったんだぞ」
「ふーん、それっていつ頃の話?」
「母さんと別れる前だから、お前が4歳頃だな」
「どこの千手観音直したの? ちょっと検索したい」
「検索には引っかからないぞ。もう12年も前の出来事だし、それにわざわざ仏像の修復履歴をサイトに載せる物好きな寺はないだろうからな」
「あ、そっか。ごめん。でも、どうして最近やってなかったの? その美術修復の仕事。腕が悪かったとか?」
「自分でいうのもなんだが、評判は悪くなかった方だったよ。国家遺産認定された室町時代の金屏風の修復作業を任されたこともあったしな」
マジで?
へぇ、すごいじゃん。
「じゃ、なんでやってなかったの?」
「…………揉めたんだ。美術館と」
「揉めた?」
「ああ、かなりな。大揉めだ。裁判沙汰になるほど大袈裟なことになってな。相当恨みを買ってしまったせいで、お父さんはこの業界から信用を失ってしまったんだよ。それで美術修復の仕事を全部なくしたんだ」
「なんで揉めたの?」
「つまらないことだ。いわゆる経営側の考えについていかなくて、楯突いたってことだな。黙って従っていればよかったんだろうけど、どうしてもつい口出ししてしまってな」
「あー……」
なんか想像がつくな。
お父さん、変なところ頑固だったりするし。
「そういえば、お父さんが昔描いたっていう油絵見せてもらったことあったね。すごい上手だったから、それ仕事にすればいいのにって思ってた」
「お前の知らないところで、絵画教室の臨時講師は何度かやっていたんだ。だが、それだけだと生活ができなかったから、警備員の仕事をやっていたんだ」
ふーん。
そうだったんだ。
「で? そんなお父さんにお仕事依頼したのって誰なの?」
「海円寺だ」
「かいえんじ?」
「水谷さん覚えてるだろ?」
「うん。時々、飲みに行くお父さんのお友達の水谷さんのこと?」
「水谷さんは行商やっていてな、たまたま水谷さんと海円寺の和尚さんが知り合いだったんだ。で、その縁で、本堂の美術品を修繕できる美術修復家を紹介してほしいと相談されて、お父さんに話が流れた。そういうことだ」
「本堂の美術品って、何を修繕してほしいって?」
「『天井画』だそうだ」
「天井画? 天井に描かれている絵のこと?」
「ああ、そうだ。京都にある天龍寺の雲龍図のように、海円寺には300年の歴史を持った天井画があるそうだ。なんでも『魔除けの天井画』ともいわれてるとか」
「へー、それって有名な天井画なの?」
「いや、海円寺そのものはマイナーな寺だし、海円寺に天井画があることも世間にはオープンにはしてなかったようだ。水谷さんも初めて知ったといってたよ」
「何か隠す理由でもあるの?」
「さぁ、わからん。たぶん、本尊みたいなものなんだろ。天井画を俗世間に存在を知られるのがタブーとかがあるのかもな」
「どれくらいかかるの? 修理に」
「まだ状態を見てみないとなんともいえないが……少なくとも1年はかかるとお父さんはみてる」
え? 1年⁉︎
そんなにかかるの?
「月夜、天井画だぞ? 垂直の壁に掛けられている絵画と勝手が違うんだ。天井に描かれた絵の場合、こう首を仰け反った無理な姿勢で作業をやるわけだ。通常の作業よりも時間はかかるさ」
「きっつそう。その姿勢。腰とか大丈夫?」
「修繕範囲によるだろうが、長丁場になるのは確実だ。依頼元の住職がいうに天井画自体、10年間メンテナンスをしてないらしいから、相当劣化が激しいらしい。できるなら、早急に修繕してほしいそうだ」
「時間はあまりないってこと?」
「できるなら、今からでも着手してほしいらしい」
「…………ねぇ、どれくらいで引き受けることになったの?」
「どれくらい?」
「お金だよ。まさかタダで引き受けるわけないでしょ」
「ああ、当たり前だ」
「で、いくらなの?」
「聞いて驚くな。300万だ!」
「300万……」
「ふふふ、どうだ。なかなか悪くないだろ。個人で引き受ける相場としては50万がせいぜいのところを、300万まで出してくれるそうだ。それだけあればいい道具も揃えることができる。お父さんは運がいいよ」
「すごいじゃん。でも大丈夫?」
「ん?」
「いや、警備員の仕事しながらその仕事ってしんどくないかなぁーって」
「ああ。そうだな」
お父さんは満面の笑みを浮かべ「ちゃんと考えてる」とあたしにいった。
「大丈夫だ。警備員の仕事はやめる」
「は?」
あたしは目をむいてお父さんを見た。
今、なんていったの?
警備員の仕事はやめるっていわなかった?
「そりゃ、かなりの大仕事だからな。警備員の仕事は辞めないとな。お父さんは器用なタイプじゃないから、美術修復に集中するつもりだ」
ははは、とお父さんはご機嫌で笑う。
あたしは頭を抱えた。
冗談……じゃないよね。この雰囲気。
たぶんマジだ。マジのマジで考えているっぽい。
定期収入なしの生活をマジでやるつもりだ。
笑ってる場合じゃないよ、マジで。
「あのさ、確認なんだけど、さっきお父さん、1年かかるかもしれないっていったよね?」
「ん? ああ、いったよ」
「つまりさ、それって年収300万ってことだよね? 300万って新卒のサラリーマンより下回ってる金額だよ」
「え……?」
あたしが告げると、お父さんは驚いた顔であたしを見返した。
普通にネットに落ちてる情報だよ。
そんな驚くこととじゃないよ。
「お父さん。300万を12で割ってみて」
「えと……」
「電卓を探さないの。暗算ですぐできるでしょ、それぐらいの計算」
「すまん」
「25万円だよ。20代のサラリーマンならそこそこ普通だけど、天引きされないでの25万円だからね。あと、警備員の仕事が契約終了したってことは、お父さんは今無職だってことだから、所得税とか住民税は自己申告しないといけないんだよ? 加えてうちは国民健康保険と国民年金の支払いもあるし、家賃や光熱費のこと考えたら──」
5分間。
ノンストップであたしはお父さんを詰めた。
お父さんは最初あたしの顔を見つめて話を聞いていた。
でも、だんだんあたしではなくテーブルに視線を落とし、一言も喋らなくなった。
テーブルに視線を落としたお父さんを見て、あたしはまくし立てるのをやめた。
「…………しっかりしてよ、お父さん。学費だってあたし自分の分出してるのに、これじゃ生活成立できないじゃん。もうこれ以上、あたしバイト増やすことできないよ?」
あたしは間を置いて、お父さんにいった。
「すまん」
消え入りそな声で、お父さんはあたしに謝った。
「いや、考えればわかることじゃん。そんなんだからお母さんに逃げられちゃうんだよ。わかる?」
まだ社会にも出てない高校生に論破されてどうするの? 本当、しっかりしてよ。
「母さんは関係ないだろ」
ぼそっとお父さんは言い返した。
「関係あるよ。忘れたの? お父さんがこんな調子だから、お母さん愛想尽かして出て行ったんだよ?」
「…………」
「……ごめん、ちょっといいすぎた」
「…………月夜」
「なに?」
「お父さんが浅はかだったよ。お前がいうように、安値で損な仕事なのは認める。久しぶりの仕事の依頼で、つい舞い上がってしまったんだ」
お父さんは顔を上げ、真剣な表情となってあたしと向き合った。
「うん」
「だけどな。本音をいえば受けたいんだ」
「どうして?」
「もう復帰できないと思っていた美術修復の仕事に携えるチャンスだからだ。父さんは今年で48だ。これを逃したら、一生後悔すると思う」
お父さんはゆっくり丁寧な口調であたしにいった。
一言一言が、重くあたしは感じた。
「お前に苦労かけることはわかってる。お前だってやりたいことがあるのに、我慢させてるのは申し訳ないと思う。だけど、お父さん、このまま警備員の仕事だけやって人生終わらせたくないんだ」
お父さんはそれだけいうと、何もいわなくなった。
あたしは天井を仰いだ。
なんだよそれ。
ずるい。
反則だよ。その顔は。
そんな潤んだ目であたしを見ないでよ。
これじゃどっちが子供かわかんないじゃん。
「……………お父さん」
あたしは息を強く吐いた。
お父さんがあたしをまっすぐ見つめた。
「これで最後だって約束してくれる?」
「ああ」
「もうこれを最後に、こんな安い仕事は引き受けないって、本当に約束してくれる?」
「ああ、もちろん。約束する」
お父さんがいった。
信用していいかかどうか怪しいけど、とにかく約束を取り付けることはできた。
本当は気持ちよくおめでとうっていってあげたい。
やりたい仕事が見つかってよかったねって。
だけど、娘のあたしが心配するほど、お父さんは子供すぎる。危機管理能力が圧倒的に欠落していると思う。
あたしが高校卒業して家から離れたら、冗談ぬきでお父さんはあっという間にホームレスになるんじゃないか。そう感じて仕方がない。
今回は許すけど、次も同じことがあれば、容赦するつもりはない。お父さんのためにも。お父さんを教育しないとダメだ。
「海円寺……か」
あたしはぼそっと心の中の声をつぶやいた。
お父さんに仕事を依頼するそのお寺って、どんな寺だろう。
さっきマイナーな寺だといってたけど、どれくらいマイナーなのか、寺に詳しくないあたしは海円寺のマイナー具合を知らない。
あたしはスマホを手に取り、海円寺を検索した。
天井画があるぐらいだし、そこそこ大きな寺なんだと思うけど、やっぱり有名じゃないのかも。
「え?」
検索結果の表示を見て、口が勝手に開いた。
「どうした?」
お父さんがあたしに声をかけた。
「たしかさ、G県の海円寺だよね? 依頼してきたのって」
あたしは口を抑えて、スマホの画面を凝視した。
スクロールすればするほど、検索結果が過激なものになっている。
変だと思った。
だけど、本当にこんなことって、あるんだ。
それにびっくりした。
「ああ、そうだが?」
「…………悪魔崇拝のカルト寺だって出てるよ?」
To be continued...
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