第三章 内在の表層と地獄への帰路

 深層を探るには、まずその表層を観察しなければならない。その形状を知らずに井戸に飛び込むのはただの滑稽である。

 故に、私はここで内在の表層を描き出そう。外在に関しては…どうでもよかろう。少なくとも、私の背がいくつで年齢がいくつでなどと、ここに書き連ねることに多くの意味があるとは思えない。

 私はまず、大層気まぐれな性格をしている。これがあらゆる内在の表層として、最も大雑把に適切な表現であろう。その前提の上に観察を進めねばならない。

 第一、目に飛び込むのはその不可思議な生真面目さと同率に存在する放埒な不真面目さである。私は時に群を抜いて真面目な生き物に成る。同様、その逆も然りなのである。私はこれに限らず、内在において多くの二元論的な両極性を持つ。

 お節介なほどの異様な優しさを見せたと思えば、次の瞬間には人間性など失せたかのように冷徹にもなり、狂気的な集中と情熱を発揮したかと思えば、あまりにも怠惰ですらある。この灰色を持たぬ両極的な特質の脳幹を占めるのは、畢竟、「興味と暇潰し」である。

 興味が湧いたのならば、私はこの世界でどれほど取るに足らぬ物事にすら命を捧げるだろう。それこそ蟻一匹のために自殺すら厭わぬほどに。煙草を吸う片手間に暇を持て余したのならば、私はシケモクを漁る老人に煙草の一箱を譲り渡すことだろう。例え自らに次の煙草を買う小銭が無くとも、それは関係がない。…

 私は私以外の物事に対する興味関心を、著しく欠いている。ただし、ここで言う「私」とは、私の思考、生活、人生、それらに深く絡まる他者に対しても包括する。だが同時にそれは、その他者が私にとって必要のなくなった瞬間、失せる興味でもある。そうなれば私は、その他者に対して、見ず知らずの誰彼に接する以上に冷淡にすらなろう。…

 総じて、これらの両極性は気まぐれと狂気的な外装を形成する。有り体に言えば、他者から見た私の内在は、「わけのわからない何を考えているか理解できない人」と評するのがもっとも正しいのかもしれない。

 原動力として朧に見えてきた「興味と暇潰し」を少々拡大してみることとしよう。「興味」は、私の生活において重大な役割を持つ特質の一つであることに間違いはない。私はどんな事物であれ、興味がなければあらゆる活動を行わない。例えそれが生命維持に必要な活動であっても、その原則は何ら変わることがない。

 「暇潰し」はその、「興味」に没頭せぬ間の、あらゆる物事に作用を及ぼす。私にとって興味を欠いた生は、すなわち死までの途方もない暇潰しでしかないのである。

 ここで、私が「存在の咆哮」を殺し、「地獄回廊」にて生き返ったことの本質の一端が見えてくる。

 私にとって最も興味を惹く物事とは、すなわち、今書き連ねているような、「私自身」であるに他ならない。咆哮を終えた私は、無限の暇潰しに没入した。そこに私は存在しなかった。ただ、あったのは、私の形状をした肉である。原動力を欠いた機械が、長く動くはずもない。故に、私は陽光の下の柔らかな暇潰しを捨て、地獄の回廊へと戻ってきたわけである。例えここが地獄であろうと、私は私に興味のある限り、この地獄を楽しむことだろう。それが肉体を滅ぼす魔の手だとしても、私は智慧の悪魔と契約さえするだろう。

 畢竟、私の肉が生存する意味とは、そこにしかないのだ。

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