第5話 真実の代償

 渋谷香菜はとある場所に忍び込んでいた。

 茨薔薇女学院、校舎、三階―――蜜峰漓江が所属している科学研究部の個室である。


(蜜峰さんの方に意識が向けられているこの時……調べるなら今しかない)


 彼女は用務室からくすねてきた鍵を使って部室へと侵入する。室内だけでなく校舎に人影はない。静寂が支配する建物の中、香菜は『とあるもの』を探していた。


(茨薔薇女学院、科学研究部―――忘れもしない。一年前、あの。百瀬百合花の連れているアレが本当にあの女だとすれば、蜜峰さんの引き起こした事件には必ず何かしらの関係性があるはず―――)


 個室内はまるで物置き小屋のようだった。中央に小さなテーブルと三つの椅子が乱雑に置かれているだけであり、それ以外は研究に使用されるような科学的機材などが山のように積み重ねられている。


(あたしの知っている限り、蜜峰さんはあんな性格じゃなかった。普段から物静かで研究や勉強に没頭していて、そして何よりとっても。なのに、あの日……裏庭の物置き小屋で見た彼女は、まったくイメージとは違う……そして、今日。彼女と再び会って確かめたことによって、その異常性は確信に至った)


 山積みになった器具や薬品には目も向けず、香菜はある一点―――明らかに最近になって使用されたような跡の残る場所へと足を運ぶ。


(彼女の変貌の理由。それはきっとここにある。あの日、船橋さんから聞いた言葉―――あの時、ただの勘違いだと一蹴してしまった自分を恥ずべきではあるけど、今は自分を責めていても仕方ない。そして、あたしは、


 個室の中央―――テーブルの真ん中に、書類のようなものが置かれている。香菜は躊躇わずそれを手に取って、まじまじとその文面に目を走らせる。


(―――見つけたビンゴ。やっぱり、船橋さんが言っていたのはこれのことか。そして……ああ、うん。これでほぼ間違いない。心の底では予想が外れて欲しい気持ちもあったけど、これは真っ黒。もう二度と目にしたくもない名前がくっきりと記されている、ときた)


 何かしらの確信を得た香菜は、満足するようにその書類を元の場所に戻し、間髪入れずに周囲を見回す。


についての目星はついた。あとは蜜峰漓江を変貌させた直接的な要因を……いや、さすがにそこまでヘマはしないか。は解っても、までは教えない、ってわけ? ―――ますます怪しい。これじゃ全部手のひらの上……あたしがこうして勘付くことすら意図されたものとさえ思えてくる)


 ふう、と溜め息を吐いて、香菜は諦めるようにその場から立ち去ろうとした。


「―――やはりそういう魂胆でしたか。けれど詰めが甘いようでしたね、渋谷さん」


 ずぶり、と。

 香菜の背中を猛烈な熱―――いや、


「ぐ―――う、は―――?」


 香菜の視界が眩む。

 生まれてから今まで感じたことのない強烈な痛覚が、彼女の思考を一瞬にして狂わせる。


「な……んで、あなたが……ここに……?」


 香菜はその場に蹲り、背後からやってきた襲撃者の方へ視線を向ける。視界はぼやけてよくわからないが、確かにそこには、姿


「くすくす。無様ですこと。もしかして、まさかとは思うのですが、?」


「な……に……?」


「あの方はもうここにはおられませんよ。確かに一昨日、私はあの方にお会いしましたが、私がしたことはただ単にお喋り……ええ、世間話程度のもの。つまり、


 嘲笑を繰り返しながら、その少女は苦しみもがきながら倒れている香菜の身体に触れる。


「知っていますか? 人はちょっとやそっとでは死に至りません。もちろん多量の血液を流してしまえば出血多量で死にますが……そもそも、が本当の痛みであると感じているのですか?」


「どういう……こと……?」


「普通、これだけ唐突に背中からひと突きされたらショックで倒れてもおかしくありませんが、貴女はまだ意識を保っていますわよね?」


 少女は今にも倒れそうな香菜の顔を指で撫でながら、


「さあ、貴女はここで何もできずに死ぬのか。それとも誰かが見つけて助かるのか。私としてはどちらでも良いのですよ。結局、さえ作ることができれば効力は発揮される。貴女には、その実験体第二号となって頂きます」


「じっ、けん……だいに、ごう……?」


「くすくす。これからは、なんでも自分の思う通りになると思わないことですね。……ああ、申し訳ありません。今ここで何を言っても無駄でしたわね。どうせ―――」


 そこで、香菜の意識は暗転した。

 少女の言葉を最後まで聞くことはできなかったが、結局、それはどこまでいっても無意味であり―――


「さあ、最後の締めと参りましょうか」


 少女は立ち上がり、隠しきれないほどに不気味な笑みを浮かべながら、その場を去っていった。


  ◆◆◆


 穂邑達は一階の捜索をあらかた終えた後、二階へと向かおうとしていた―――その道中。


「オイ、紅条。あそこにいるのは―――」


 摩咲が何かに気付き、背後にいる穂邑へと振り返り、その場所へと指を差す。


 そこにいたのは、紛れもない―――蜜峰漓江、その人だった。


「蜜峰……さん……!?」


 穂邑はその場から駆け出して、二階へと続く階段部分で倒れ伏している少女―――漓江のもとへと向かう。


 それは死んだはずの少女。

 穂邑たちにとっては、こんな場所にいるはずのない存在である。


「摩咲……いや、える! 百合花さんに連絡を! 間違いない―――!」


「わ、わかりました……!」


 穂邑は漓江の身体を抱きかかえると、わずかに聴こえる呼吸音からその生存を確認した。

 そして、穂邑の腕の中にいる少女の身体がピクリと動く。


「こう……じょう……さん」


「蜜峰さん!? 意識が―――」


「わ……たし、本当……は……。あな、たに……謝ら……ないと……」


 掠れた声で、けれども切実に、少女は言葉を紡ぐ。


「喋らなくていい! 今、助けを呼んでいるから、しっかり意識を保って―――」


 穂邑が絵瑠の方へ視線を向けると、すでに連絡を終えていた彼女が穂邑たちの方へと駆けつけていた。

 そして、摩咲は周囲を駆け回っている―――事件の犯人を探しているのだろう。


「ほむらさん、百合花さんに伝えました。すぐに救急を手配すると―――」


「……! あなた、は……!」


 絵瑠の顔を見て、漓江は驚くように、


「そ、んな……あなたが、まだここに……。それじゃあ、私の―――」


 それだけの言葉を残して、漓江は意識を失った。

 一瞬焦る穂邑と絵瑠ではあったが、すぐにそれが気絶しただけであることに気付く。


「えっと、その……わたし、なにか……?」


「蜜峰さん、どうしてこんなところに―――」


 カラン、と。

 何か金属のようなものが漓江の右手から床に落ちた。

 それは、見間違うこともない―――ナイフであった。それも、先端には少量の血が付着している。


「ほむらさん、それって……?」


「まさか、この手首の傷をこれで……いや、それにしては―――」


 そこまで言って、穂邑は気付く。

 先程の言葉―――何故、彼女は謝っていたのか?


「まさか」


 彼女の倒れ方は、まるで階段を降りている最中に転げ落ちたかのような様子だった。

 つまり、蜜峰漓江は上の階からやってきていたのだ。そして、その手には新しい血が付着している。


 失踪した渋谷香菜。

 いるはずのない蜜峰漓江。


「―――香菜っ!!」


 穂邑は最悪のイメージを浮かべた瞬間、漓江の身体をその場に預けて立ち上がる。そして一目散に階段を駆け上っていった。


 それを見ていた絵瑠は、追いかけようとしたが―――しかし、思い留まる。

 摩咲はどこかへ行ってしまった。

 この場でこの少女を保護できるのは自分しかいない。


(百合花さん……はやく、来てください……!)


 三日月絵瑠は祈る。

 一刻も早く、この悪夢のような事態が解決されますように、と。

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