第3話 見えざる動機

 事件現場―――茨薔薇の園、一階、三峰漓江の個室、バスルーム。


 そこにあったはずの死体は消え去っていた。

 バスルームの中は水浸しになっていて、壁に不着していたであろう血液もほとんどが洗い流されている。

 かろうじて残っている赤い血痕―――それが、美咲や八代が見たという血塗れだったバスルームの証拠であるが、今となってはどれだけの惨状であったのかは想像もできない。


 百合花は思わず爪を噛む。

 美咲や八代の証言を疑ってるわけではない。むしろ百合花は、こんな惨状を目の当たりにした今でさえも、彼女達のことを心の底から信用している。


 だが、これでは何も証明できない。

 蜜峰漓江が死んだ、その事実でさえ白紙になってしまった。

 他殺、自殺、密室トリック―――それらを決定的にすることさえも後回しにせざるを得ない。蜜峰漓江の存在そのものが消失してしまった以上、これはもはやただの人死になんて甘い事件ではなくなった。


「倉敷さん、リビングの調査を。美咲さんは出入り口の警備をお願いします。この部屋から出る為には玄関口と奥にある窓だけ。この扉を抑えている限り、犯行経路は限定されます」


「了解です」「ああ、わかった……!」


 百合花は誰にも聴こえない程度に舌打ちをする。

 それは決して犯人に対する苛立ちからくるものではない。そもそも未だに犯人が存在するかどうかも定かではないのだ。それはただ、己の不覚に向けられたものだった。


(……さて。本当に面倒なことになってきたわね)


 百合花は心を落ち着かせるように深呼吸をして、再び事件現場であったバスルームに目を向ける。


(これだけ荒らされてしまっていては、もはや現場の保全なんて意味を成さない。本来ならば倉敷さんに検証して頂きたいところではあるけれど―――)


 百合花が八代にリビングの調査を命令したのは、何よりも一番気掛かりであるこのバスルームを自分自身の手で調べたかったからである。


(美咲さんが死体を発見して倉敷さんが来るまでの間、美咲さんは死体を監視していたはず。そして入れ替わるように倉敷さんがここにやってきて、現場の検証を行っていた……。わたくしが到着してから少し後、倉敷さんが部屋から出てきて……およそ、五分程度。その短い空白の時間に、蜜峰さんの死体を部屋の窓から外へと運び出した―――)


 バスルームには少し湯気が残っていた。床や壁に飛び散っている水滴はすでに冷たくなっているが、温水で血痕を落としたのであろうことは想像に堅くない状況である。


 百合花は床に落ちている注射器を拾い上げ、おかしな部分がないかを確かめる―――が、それもまた水で綺麗に洗い流されていて、中に何が入っていたかはとても調べられそうにない。


(普通の注射器よりは少し大きめね。これがいったい何を意味するのかはわからないけれど、少なくともここにこうして放置されている、ということは、そこまで重要なものではない―――もしくは、これこそがカモフラージュだと?)


 あからさま過ぎる落とし物だった。犯人がこれを使用して殺害に至ったのならば、洗い流しているとは言え、こうしてここに放置していくわけはない。


 百合花は注射器を元の位置に置き直し、バスルームから少し出た場所で現場を俯瞰する。

 血の跡のようなものはバスルームから点々とリビング方向に続いている。それらは一定の間隔で、そこまでの量ではない。


(恐らく、犯人が蜜峰さんの死体を抱きかかえ、移動させている時……彼女の裂かれた手首から血液が零れてしまったのね。しかし、さすがの犯人でもこれを隠滅する時間はなかった―――いや、どうせ窓から逃走したことはバレてしまうのだから、そもそも隠す必要すらなかったわけか)


 百合花は腕を組みながら思考を巡らせる。


(これだけの血液が零れていたのなら、運んでいた本人にもそれなりの跡が残るはず。倉敷さんにそれは確認できなかったのだし、彼女は白……? しかし、それじゃあ、誰がどうやって……? まさか部屋の中に隠れていた……窓は確実に鍵が締まっていたと美咲さんは証言していた。なら他の場所は―――)


 踵を返し、バスルームを後にした百合花は、玄関口で辺りを見張っている美咲の元へと歩み寄る。


「美咲さん。少しお尋ねしたいことがあります。最初に死体を発見した際に窓の鍵は掛かっていた……間違いありませんか?」


「ああ、間違いない。入口から逃げるのは監視カメラもあるし、他に出入口があるとすればリビングの窓だけだろう。ここは一階だし、窓も人間が抜け出すくらいの大きさは余裕であるしな。それがどうかしたのか?」


「いえ、鍵が掛かっていたのならば問題ありません。それでは、他の部屋……主に寝室やお手洗いを調べたりは?」


「扉開けて中見るくらいはした。人の気配はしなかったが……まさか、誰かが隠れていたとでも言いたいのか?」


「その可能性を否定する為の尋問です。では、美咲さんは部屋中をくまなく調べ尽くしたわけではない、というわけですね?」


「いや、それはそうだが……隠れられる場所なんかあるか? トイレはちゃんと確認したし、人がひとり収まるようなスペースは他には―――」


「美咲さんがどれほど調べたのかが解れば問題ありません。参考になりました。引き続きこの場所をお願いします」


「あ、ああ。それは任せてくれ」


 百合花は目を細めながら部屋の中へと視線を戻す。

 すると、奥のリビングからこちらへとやってくる八代の姿があった。


「血痕は間違いなく窓の外へと伸びていて、窓の鍵は開いていました。間違いなくあそこから外へと出ています」


「……そうですか。ご苦労さまです。少しお尋ねしたいのですが、この部屋に人がひとりでも隠れられるような場所は?」


「人ひとり……ですか。少し難しいですね。トイレか寝室か、その程度しかないでしょう」


「(では、やはり誰も部屋には……となると、いったいどうやって……?)わかりました。八代さんはリビングで待機。窓の鍵は開けたまま、状態を保持しつつ外への監視をお願いします」


「了解です。百瀬様はどうなさるおつもりで?」


「わたくしは確かめなければならないことができました。しばらくここを離れます。玄関口の警備は濠野美咲に一任していますので」


 百合花はそれだけを言い残してリビングを後にする。そのまま玄関口を超え、美咲に一礼をしてからその場から立ち去る。


(……二人の証言を疑っても仕方がない。いや、あの二人を疑う必要はあるけれど、それでは、どこまでいっても状況証拠の不足している現状でまともな推理すらできない。わたくしがこの目で確かめられていない以上、彼女達の証言を元に捜査を行うしかない……けれど、それでは、その答えはもうひとつしか―――)


 百合花は寮の廊下を突っ切って、ロビーを抜け、エントランスから外へと繰り出す。


(窓の外はこっち側……ね。血の跡が残っていれば追うのは容易だけれど)


 寮の周囲をぐるりと一回り、草花の生い茂る裏庭から蜜峰漓江の部屋がある位置まで向かう。


(窓の鍵は閉まっていた。部屋の中に何者かが隠れていたとは考えにくい。バスルームは洗い流されていて、そこにはカモフラージュと思われる注射器が転がっていた。バスルームから血痕がリビング方面へと伸びていて、それは確実に窓から外まで伝っている。窓は人がくぐり抜けられるくらいの大きさはある。そこから外に出るということはこの裏庭へと飛び出たことになる―――)


 そうして辿り着いた百合花は、今度こそ大きく苛立ちの込められた舌打ちを鳴らす。


(……なんてこと。確かに血の跡は少し残っているけれど、ここまでで途切れている。血の流れが収まったか、犯人がそれに気付いて対処したのか。どちらにせよ、ここで手詰まり……いえ、敷地内から外に出るには警備の目を潜り抜けなければならないし、まだこの敷地の中にいる……となると、いったいどこへ?)


 外側の窓から中を覗くと、神妙そうな表情をしていた八代が百合花の姿に気付き、軽く一礼する。


(考えられるパターンはふたつ。まずは、犯人がこの窓から中に侵入して蜜峰さんの死体を運び出したこと。部屋の中に潜んでいた可能性は限りなく低いのだし、ならば鍵さえなんとかすればいい。倉敷さんが検証しているフリをして死体を運び出した可能性も捨てられないけれど、明らかに時間が足りない。彼女の服装に変化もなかったし、少なくとも実行犯とは考えにくい。ただし、。……あまり考えたくはないけれど、これがひとつ目の可能性。そしてふたつ目は―――)


 百合花は窓際の壁に背を預け、空を見上げる。


(―――ふたつ目の可能性。恐らくはこれが本命でしょうね。……けれど、どうしたって理由がわからない。。もしこの事件がそういうことであるなら、わたくしはいったい、どう動くのが正しいのかしらね……?)

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