第9話 過去編/紅条穂邑3

 病院での騒動があった次の日。

 朝食の時間より少し前、香菜が部屋までやってきた。


「おっはよーぅ、ほむりゃん!」


 ええと、なんですかこのテンション。


「あたし今日はすぐ行かなきゃいけないんだけど、先に報告だけしようと思ってさ」


「報告?」


「うん。昨日言ってたほむりゃんの身柄の話だけど、先輩が話をつけてくれてさー。なんでも知り合いの管理してる施設だったみたい」


「先輩……そう言えば、昨日もそんなこと言ってたけど、それって?」


 僕と香菜を助けたという謎の存在。

 明らかに何かしらの権力者のようだが、いったいどういう関係なのだろうか。


「あ、ごめん。そっか、ほむりゃんは先輩のことも覚えてないんだよね。……うん。ほんとに記憶喪失、なんだね」


「む、まだ信じてなかったの?」


「いやいやゴメンゴメン! 別にそういう意味じゃなくてさー。あ、それで先輩なんだけど……百瀬百合花、って言う人。あたしとほむりゃんが通ってる学院の生徒会長さんなんだよねー」


「ももせ……ゆりか……」


 やはり記憶にはない。

 だが、話を聞く限りでは香菜はともかく僕の知り合いであったのだろうか?


「学院にも復帰できるようになったよ。お金の事はあたしが全部出すことになってるから、気にしないで」


「―――えっ? 今、とんでもない発言しなかった?」


 聞き間違いでなければ。

 学費を彼女がすべて持つ、と言ったのか?


「ほむりゃんは覚えてないんだろうけど、あの学院に入学することになった理由はほむりゃん自身にもあるんだから、今更あたしだけで通えだなんて言わせないからねー!」


「いや、うん。それはよくわからないけど……でも、さすがにお金は貰えない。せめて卒業して働けるようになったら返すよ」


「ふうん。そういう律儀なとこは相変わらずなんだなぁ〜」


 香菜が何やらぶつぶつ言っているがよく聞こえない。

 何はともあれ、事は上手く運んでいるようだった。


「ああ、そうだ。香菜にお願いがあるんだけど」


 昨日から今日にかけて考えをまとめていたこと。

 少なからずこれから生きていく為には最低限必要なことだけでも、今のうちに伝えておかなかれば。


「う、うん。なに?」


 途端に緊張した顔付きになる香菜。


「いや、その……自分なりに、今の自分の状況について考察してみたんだ」


「考察?」


「うん。先に聞いておきたいんだけど、記憶がなくなる前の僕って、香菜から見てどうだったのかな。具体的に言うと、女の子らしい女の子だったかどうか、なんだけど」


「うーん。ちょっと大雑把なところもあったけど、少なくとも一人称は私だったし、言葉遣いも女の子だったよ?」


 まあ実際のところ、記憶喪失になってからも一人称は無意識に『私』だったのは間違いない。今こうして『僕』と言っているのはあくまで意識的なものだ。

 女であることに嫌悪感を抱くのは確かだけど、昨日の感覚からして、男はもっとキツい。正直に言って関わり合いになりたくないレベルのものだった。


「あれだけ言って、申し訳ないとは思うんだけど。香菜には僕を女の子として扱って欲しいんだよね」


 僕がそう言うと、香菜は呆けるように目を丸くして、


「は……、はあぁぁぁぁああああああああ!?」


 叫んだ。

 狭い部屋の中に香菜の甲高い声が響き渡る。


「ちょ、ちょっと待って。あのさ、それじゃ今までのはなんだったわけ? もしかして、あたし……からかわれてた!?」


「そうじゃない。ごめん、とりあえず落ち着いて。ほら、クッキーあげるから」


 僕は香菜に貰った見舞いの品のひとつであるクッキーを取り出す。


「それあたしがあげたやつじゃん!!」


「ええと、うん。なんというか、からかっていたわけではなくて。冷静に考え抜いた結論というか」


「どういうことなの……?」


「確かに僕は自分が誰かわからない。記憶がまったくないんだ。でも、それだけで自分が女だってことにここまで嫌な気持ちになるとも思えない。きっと、何かあったんだと思う」


 まるで他人事のように。

 けれども、これは自分の為のことだから。


「女の子扱いして欲しくないのはホント。でも、だからといって別に男になりたいわけじゃないんだよね。むしろ男なんか絶対になりたくない。サイアク。死んだ方がマシ」


「そ、そこまで言う?」


「とにかく、そういう精神状態なんだよ。マジでワケわかんないと思うけど、女のままではいたいのに女扱いされたくはない、とかいう意味不明な状態なワケ」


「お、おう」


「こんなの香菜はともかく赤の他人に話すようなことでもないでしょ? それこそ気味悪がられちゃうかもしれない。だからさ、表向きは僕のことをちゃんと女の子として扱って欲しい。というか、ようするに以前のままで良いってことなんだよね」


 自分でもめちゃくちゃなことを言ってる自覚はあるが、僕が伝えたい事とはつまるところそう言う事だった。


「じゃあ、ほむらちゃん?」


「ああ、それはなんか嫌。まだほむりゃんのがマシ」


「ちょっと自分勝手過ぎませんかねぇ!?」


「うん。だから、ごめん」


 しばしの沈黙。

 香菜自身、唐突にこんな事を言われてもすぐには呑み込めないかもしれない。

 けれど、これが僕の嘘偽りない状態なのだから、これだけは彼女に知っていて貰わなければならない。


「わかったよ、もう。それじゃ、遠慮なくいかせてもらうけど……良いんだよね?」


 香菜は不機嫌そうに、けれど、どこか声色は弾んでいて。


 ―――その日。

 やっと僕は、この少女と心から友達になれた気がした。


  ◆◆◆


 そうして数日後、僕は無事に退院を果たす。

 香菜に連れられて向かったのは、。僕にとっては初めての、これから暮らしていく場所。


 そう、これは現在いまからおよそ一年前の日の記憶。

 私という記憶を失い、僕という自分が生まれ、香菜という親友に救われた時の―――


「ほら、行くよ。ほむりゃん!」


 茨薔薇女学院と書かれた正門を潜る。

 その先に見えるものは、記憶のない自分には目新しい、けれどどこか懐かしい光景。


(さあ、行こう)


 ―――ここから、僕の物語が始まったんだ。

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