第8話 過去編/紅条穂邑2

 あれから一ヶ月。

 思っていたより軽症で済んでいたらしい身体だったが、それよりも精神面の診察に時間が掛かってしまった。


 とはいえ、ようやく明日には退院できるらしく、退院後はとある施設に預かって貰えるという。

 住む場所もなくなった僕にしてみれば願ったり叶ったりなのだが、申し出てくれたのは親族でもなければ香菜が関わっている訳でもないらしい。


 僕を預かると申し出た施設―――謎の存在ではあったが、この身を保証してくれるのならば問題はない。

 社会復帰まで少し時間は掛かるかもしれないが、これから生きていくためにも頑張らないと。


 そう言えば、目覚めたあの日から香菜とは会っていない。

 自分の意思でここから出ることは許されなかったし、向こうから会いに来ることもなかった。


 まあ、当然の結果だろう。

 あれだけ一方的に突き放してしまったのだ、愛想を尽かされてしまうのも無理はない。


 けれど、彼女に入院の費用を出して貰っていることに変わりはなかった。

 いずれ働いてきちんと返すつもりではあるけれど、退院する際には一度直にお礼くらいは伝えないと。


 余談ではあるが、一ヶ月の間にやっていたことと言えばもっぱら読書だった。

 それくらいしか暇を潰せる娯楽がなかったし、記憶のない脳に新たな知識を詰め込んでいくというのはそれなりに楽しい行為ではあった。

 特にお気に入りだったのはシャーロック・ホームズの登場する推理小説だったのだけど、まあそれは置いておくとして。


 空虚だった。

 あれからどれだけの時間が経とうとも、記憶が蘇る兆しはない。


 何も感じない。

 記憶を取り戻したいという気持ちは一切わかない、もはや他人事だった。

 自分が自分ではない感覚、それがずっと続いている。


 けれど、少しだけ気になるのは―――


(香菜、か。彼女は、僕を命懸けで助けてくれたんだよな)


 渋谷香菜。

 あの少女は見た目とは裏腹に同い年らしい。同級生、というやつだ。

 彼女が僕の家に泊まりに来ていた時、不幸にも事件が起きてしまったのだと言う。


 いいや―――本当に、そうなのか?

 彼女が火を放った犯人であるというのが、一番腑に落ちる真相ではないだろうか?


 警察や検事から直接話を聞いたわけではないので断定はしないが、火の元栓はしっかり閉じられていたようだし、第三者による犯行であることは間違いがないらしい。

 そして、その日に偶然にもその場所にきていた第三者。僕を助け出したのは動機を悟られないようにする為なのでは?


 おっと、いけない。

 少し毒されてしまっているようだ。

 これは僕にとってはフィクションでもない、小説とは違う現実だ。


 あれから一度も会いに来ていないのに、あれだけのことで友達だって?


 わからない。

 彼女の思惑が理解できない。

 仲の良かった友達であることは事実なのだろうけど、何の思い出も無くなってしまった僕にしてみれば、アレはただの容疑者その一でしかない。


 恩義はある。

 彼女が犯人であるかは置いておいて、命を助けられたことに変わりはない。

 こうして入院させて貰っているのも彼女の力添えによるものだ。


 疑いたくはないけれど、その程度の感情しか湧いてこない。

 記憶が戻れば、もっと別の気持ちを抱くのかもしれないが―――だからこそ、その一点だけが唯一の気掛かりではある。


 コンコン、とノックの音がした。

 今は昼前でまだ食事の時間には早い。とすると看護師が様子を見にきたか、それともついに香菜が来たのだろうか。


「はい、どうぞ」


 僕が答えると、返事のないまま扉が開かれる。

 すると、そこには―――黒服を纏ってサングラスをつけた、見るからに怪しい人物が立っていた。


 しかも、それは一人だけではない。

 後ろから二人、三人と増えていく。


「紅条穂邑だな」


「え……はい、そうですけど―――」


 僕が返事をしていると、先頭の一人がこちらへ寄ってきて、おもむろに僕の腕を掴んできた。


「ちょっ……いきなり、なにを―――」


「確保した。連行する」


 そのまま身体を引き寄せられて、男の腕で身体を抱きかかえられる。

 急展開すぎて思考が追いつかないが、間違いなく非常事態なのは間違いなかった。


「や、やめ……ッ!!」


「動くな、大人しくしろ。なんだ、話は通っていないのか?」


 男は不思議そうな反応を見せるが、僕はそれどころではない。痛いし体臭がきつい。別に酷いものではないと解っていても心底から嫌悪感がする。


 そこで、初めて理解する。

 本能が警告する。

 全身が、男という存在を拒絶している。


「くそっ……触るな、気持ち悪い!!」


 抵抗して暴れるが無意味だった。

 どうしようもなく、僕の身体は少女のそれだった。成人した男性に敵うわけがない。


「おい、コレを静かにさせろ」


 男が背後の者達に指示するように言い放つ。

 微かに見えたが、そこには注射器のようなものを取り出す男の姿が、


「た、助け……うぐっ―――」


 騒いでいた口元を強引に塞がれて、いよいよどうしようもない状態になる。

 抵抗も虚しく、僕は為すすべもないまま―――もはや、諦めるしかないのか。


「失礼します」


 もう一人の男が注射器を僕の首元に近付ける。


「―――やめて!!!」


 そこに、一人の少女が飛び込んできた。


「人払いは済ませていたはずだが。おい、その女は何者だ?」


「渋谷財閥のご令嬢、ですね。ここにいるという情報はありませんでしたが」


「なるほど。こいつと友人関係であるというのは知っているが、少し面倒なことになったな」


 意識が遠退く。

 塞がれた口元からまともに呼吸をすることができない。


「は、離しなさい。貴方達が何者かは知りませんが、その子はあたしの庇護下にあります!」


「残念だがそれは違う。彼女の身元は我らが預かることになっている。その様子では、どうやら情報のすれ違いがあるようだがね」


「そんなわけないでしょ!? いいから離して!!」


 薄れゆく意識の中、騒ぎ立てる香菜の声が聴こえてくる。

 あれだけずっと会いに来なかったクセに、こんな時だけ助けに来てくれるのか。


「後々そちらにも通達がいくだろう。まあ、渋谷のご令嬢とはいえ、ただの子供には関わりのないことだよ」


「関係、ある……!! ほむらちゃんは、あたしの友達だから!!」


「ふう……あまり、騒がないでくれるかな。人払いをしているとはいえ、それだけ騒がれてしまうと嫌でも誰か来てしまうだろう。おい」


「……は。失礼します、ご令嬢」


「っ……いや、やめて! お願いだから、ほむらちゃんを離して……!」


 途切れ途切れに声が聴こえる。

 もう駄目だ、絶体絶命だろう。香菜は懸命に何かを訴えているが、もはやその言葉も僕にはわからない。


 終わりが近付いてくる。

 最後に思ったのは、香菜に危害が加えられないかという心配。

 まさか、今になってそんな感情が湧き上がってくるなんて。少しだけ、後悔した。


  ◆◆◆


 次に僕が意識を取り戻した時。

 そこにいたのは、驚きながら涙を流してこちらを見つめている、一人の少女の顔―――渋谷香菜が、そこにいた。


「ほ……ほむらちゃん! 良かった、目が覚めたんだ……!」


 どうして?

 あの状況は絶望的だったはずだ。

 とても香菜ひとりでなんとか出来るはずがない。


 けれど、確かにそこに彼女はいる。

 そして、周囲に男達の姿はない。


「あ……ああ……」


 なんとか声を出そうとするが掠れている。喉がやられてしまったのかもしれない。もしくは精神的なものからくる症状か。


「ごめんね」


 ふと、香菜が唐突に誤ってきた。

 いったいそれが何に対する謝罪なのか。


「あいつらはがなんとかしてくれたよ。もう少しで本当に連れて行かれるとこだった」


「そ……う、なん……だ……」


「全部、なんとかする。後で先輩と話して、ほむらちゃんの身柄は絶対にあいつらから取り戻してみせる。あたしに任せて。もう、大丈夫だから」


「で、も……」


 今思えば、おそらくあの連中は退院後に僕が収容されるという施設の人間だったのだろう。思わず抵抗してしまったが、確かに彼らは間違ったことをしていたわけではない。少しばかり乱暴だったけれど。


「あのさ。ほむらちゃんは、記憶がなくて、あたしなんかよりよっぽど大変なんだと思う。けど、これだけはわかってほしい」


「……?」


「あたしは、貴女の事が好きなんだってこと」


 それは、少女が心の底から絞り出した偽りのない真実こころ

 どこにも証拠はない。理屈はない。証明する為のものは、何もない。


 それでも。

 何故か、彼女の言葉は本物なのだと、その時の僕には理解できていた。


「もしかしたら、嫌われてるかもしれない。でも、あたしはそれでも見捨てたりしない。あたしは自分のこの気持ちを裏切りたくないの」


 なんて、身勝手。

 だけどその気持ちに対して嫌悪感はない。


「ずっと会いに来なくて、ごめん。言い訳はしないけど、ひとつだけは。これだけは、わかってほしいから」


「う……ん……」


 どこまでも、真っ直ぐで。

 目元は涙でいっぱいだけど、とても綺麗で澄んだ瞳をして。


「記憶がなくたって、あたしにとってほむらちゃんは、世界にただ一人しかいないの……!」


 ああ、本当に。

 僕はどこまでいっても、大馬鹿だった。


「……ほむら、ちゃんは……嫌、だな」


 精一杯、声を絞り出す。

 言いたかったのはそんな言葉ではないけれど、それでも香菜は僕の真意を理解してくれていた。


「あっ、ごめん。そうだよね。今のほむらちゃ……あ、ええっと。女の子扱いは、嫌なんだっけ」


 香菜は手の甲で涙を拭きながら、


「じゃあ、これからは……、って呼ぶね」


 目元を赤くしたまま満面の笑顔を浮かべて。


 ―――そんなことを、言ったのだ。

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