第7話 過去編/紅条穂邑1
―――夢を見ていた。
僕こと
ある意味では、この僕という意識が生まれた時とも言える過去の出来事。
そう、それは。
紅条穂邑が、渋谷香菜に救われた日の記憶だ。
◆◆◆
目が覚めると、辺り一面に炎が上がっていた。
見覚えのない場所だ。
フローリングの地面、崩れかけている壁や天井にまみれ、際限なく炎が回っている。
暑い、とてつもなく熱い。赤黒い火の放つ熱気が今にも襲いかかってくるようだった。
……こんな場所で、何故?
そもそもここがどこなのかもわからないし、なによりも―――
「え……いや、は……?」
思わず声を漏らす。
あまりにも困惑して気づかぬ内に独り言を呟いていたようだ。
(いやいや。ほんとに?)
すぐそこに迫りくる炎という名の死。
いつ焼け死んでしまってもおかしくないし、この時の自分は混乱のあまり気付いてさえいなかったが、まともに呼吸ができる環境ですら無くなっている。
(嘘でしょ。
半分パニックになってはいたが、それが記憶喪失であるということは即座に理解した。
理解はしたが、事態の解決になるわけではない。一旦それは置いておいて、この現状をなんとかしなければならない。
かといって、そう簡単になんとか出来るような状況ではなかった。
本当に訳がわからない。
どうして私がこんな目に合わなきゃいけないんだ……?
疑問は怒りに変わり、怒りは諦めに変わり、諦めは失意に変わる。
もう、無理だ。
まさか私が記憶を失い、こうなった意味も理解できず、死ぬ理由も知らないまま、終わりを迎えることになるなんて。
もしかしたら、こうなってしまったのは自分の責任なのではないか―――なんて、なんの根拠もないネガティブな思考すら脳裏をよぎる。
今にも崩れ落ちそうな天井や壁。
恐らくどこかの屋内、焼け焦げて原型も留めていないが、この場所がこうなった理由はいったいなんだと言うのか。
他に誰かがいる気配も感じ取れない。
最初から誰もいなかったのか、それとも燃え尽きてしまったか、この空間がそれを感知させないのか―――それは定かではないけれど。
自分がここにこうしている理由。
まったくもって何も思い出せない私からすれば、こうなった原因は自分にあるとしか思えない。
(ああ。まあ、それなら仕方ないかな)
自分が原因であるというのなら、これは罰だ。
記憶がなくなってしまったことも、ひとりで孤独に死んでいくことも。
何もかもが因果応報なのだとすれば、ギリギリ納得できるかもしれない。
(まあ何も思い出せないし。未練とか、別にないかも)
そう思うと、何故か心が静かになった。
目を閉じると熱も感じなくなって、音も遠くなる。まるで時間がスローになる感覚。このまま死んでいく自分に与えられた、刹那の瞬間だろうか。
(どうせ死ぬんなら、今この瞬間を大切にしよう)
目を閉じたまま、思考を巡らせる。
どれだけ冷静になっても自分のことは思い出せない。いままで何をして生きてきたのか。名前も、年齢も。性別は感覚ですぐに理解できたけど、何か得体の知れない違和感があるのは事実だった。
(なんだろ。記憶なくなる前の私って、自分のこと、嫌いだったのかな?)
わからない。
思い出せないのだからわかるはすがないのだけど、違和感の正体として辻褄が合うとすれば。
それがどういった経験からもたらされた感情であるかはわからない。けれど、何も覚えていない自分でも、呼吸の方法や言葉の意味が本能で理解できているのと一緒で、感覚としてわかってしまう。
きっと私は自分が許せない。
自分が許せないから、殺そうとしたんだ。
だって、そうじゃないと説明がつかない。
(何故かはわからないけど、気持ち悪いなあ)
別に女という性別に対する嫌悪ではない。自分がそうであるという事実に激しい苦悩のような何かを感じる。女として生まれてきたことに対する憎悪のようなもの。
(まるで他人事みたい。でも嫌なものは嫌だし、ほんっとに吐き気がしてくる)
きっと何かあったんだろうけど、生憎と今の自分は覚えていない。
もしかしたら、本能的な部分が無理やり記憶を消したのかもしれない。オカルトチックだけど、元の魂は無くなって、今の自分は空っぽなのかも。
(何もない。だから、怖くもない)
今まで積み重ねてきたもの。
これから積み重ねてゆくもの。
そういったパズルのピースがすべてごっそり消え去って、まっさらな自分がポツリと立っているだけ。
―――ああ、そうか。
こうなると、人は『死』に対して恐怖すらしなくなるのか。
もはや生きる理由もない。
記憶を思い出す為に生きる、なんて目的が発生するような状況でもない。
ただ願うなら、どうせなら苦しまずに死にたいなあ。
「―――、―――!」
五感がシャットアウトされ、思考も奈落の底へと落ちていく。
その間際。
人の声が聴こえたような、そんな気がした。
◆◆◆
再び目を覚ますと、真っ白な天井があった。
「……? え、マジ……?」
なんと生きている。
すぐにでも鮮明に思い返せる、あの地獄のような炎の世界から生き延びたとでも言うのか。
「いやいや、ないない。アレ、夢だった?」
顔が引きつっているのが自分でもわかる。
もはや笑いすら込み上げて、よくわからない感情が暴れ回っていた。
身体を起こす。
その瞬間、全身という全身がひび割れるかのような衝撃が襲う。さらには激しい頭痛、そして目眩。思わず倒れそうになるが、なんとか踏みとどまる。
(ああ……いや、うん。これ、現実だ……)
白いベッドの上で白いシーツを被り、白い服を着て、極めつけには白一色の何もない部屋。
とにかく狭い。
窓はあるが白いカーテンで遮られている。外は明るそうだから夜ではなさそうだ。
記憶と状況を照らし合わせ、この場所がどこか推論を立ててみる。病院かなにか、救助されて保護されて治療を受けて安静にしていた、というところか。
(人は、いない。狭いし個室かな)
人の気配は感じない。
静寂。外から鳥のさえずりが聞こえてくるくらいで、本当に何もない。まるで異世界に迷い込んだみたいな。
(生き延びた、か)
別に死にたかったわけではないし、こうして五体満足に生きていることは喜ぶべきことだ。けれど、何故か腑に落ちない。あれはもう、いわゆる絶体絶命というやつだったと思うのだが。
(記憶は……うん、ある。あの炎に囲まれていた死の淵での記憶は、だけど)
自分が何者であるのかもわからないし、あの時より前の記憶も無い。あれが夢でないのなら、助かったとは言えど記憶喪失に変わりはないようである。
まあそれでも助けられたのなら身元も調べて貰えるだろうし、時間が立てばすっと思い出すこともあるかもだし、特に問題はないと思う。
自分でも気待ち悪いくらい冷静だったが、そんな自分を『案外こんなものか』と客観視さえしている。とにかく自分は自分でも他人のような気分だった。
(―――誰か、来る?)
ペタペタ、と、部屋の扉の向こうから足音が近付いてくるのが聴こえる。
丁度良い。タイミングばっちりだ。
「失礼しま―――ほ、ほむらちゃん……?」
扉を開いて入ってきたのは、背の小さな子供だった。
「意識、戻ったの!?」
「あ、うん。おかげさまで」
それは女の子だった。
お団子みたいな髪型で、学院の制服を着ていた。
(……ん、あれ。なんでこれが制服だってわかったんだろ?)
何故すぐ理解できたのかはわからない。恐らく知識として知っていたのだろうが、記憶喪失ではあるので当然、彼女が誰であるかまでは思い出せない。ただし。
「―――
私は訝しげな顔を作って見せて、その言葉を復唱する。
「え?」
目の前の少女は訳がわからないと言わんばかりの表情をしていた。
「ああ、なるほど。
淡々と。
事実を冷静に確認するように、僕は呟く。
「どう言う、こと?」
たぶん、この時点で察したんだろう。
この女の子は見た目によらず頭が良いのかもしれない。いや、それだけではなく、私と歳も近いのかも。
「ごめん。単刀直入に言うけど、記憶喪失みたい」
事実を告げる。
その瞬間、女の子の顔がくしゃくしゃになって、息を呑む音がした。
「キミが誰なのか。それに、自分が何者なのか。今まで何をして生きてきたのか。なにもかも、全部。まったく、思い出せない」
そこまで言い終わる前に、女の子はその場でへたり込んで、
「そんなの、うそ……」
まるですべての気力を失ったかのように。
しばらくの間、ピクリとも動かなくなってしまった。
◆◆◆
時間が経つにつれて、平静を取り戻した女の子は、色々と聞きたかったことを教えてくれた。
まずは名前。
私が
彼女がその友達で
どうやって助かったのか詳しくは聞けなかった。どうやら彼女も無我夢中だったのでよく覚えていないらしい。
あの場所は私の住んでいた家で、あそこに居たのは私と両親と香菜の四人。
事件が起きたのは深夜帯で、皆が寝静まっていた頃だという。
警察や消防隊の話によると放火事件ということで話が進んでいるらしく、放火を起こした物、犯人などは未だに見つかっていないとのこと。
助かったのは一階の自室で眠っていた私と、遊びに来ていた香菜の二人のみ。
両親は二階にいて脱出できないまま焼死体として発見された。眠ったまま死んだのか、或いは苦しみながら息絶えたか。今となってはもう確かめる術はない。
真っ先に放火に気付いたのは夜中にトイレに起きて出ていた香菜だった。
トイレで用を足している時に違和感に気付いたのだという。
彼女が容疑者にされなかった理由は、死にかけていた私を救出したその一点のみであり、今でも候補としては目をつけられているかもしれない。
とまあ、事の顛末はこんなところだ。
なんとも、親不孝ではあるのだが。
両親が死んだと言われた時、胸に飛来した感情は『無』そのものだった。
何も思い出せない以上、言い方は酷いが他人事だとしか感じられなかった。
それだけではない。
実家が全焼して帰るべき場所もなくなったのにまるで実感がないのだから、記憶喪失とは本当に恐ろしいものである。
これからどうするべきか。
何も覚えていないのだからどうしようもない。頼れる身内はいないが、なんでも香菜の祖母が大手グループの会長をやっているとのこと。
こうして病院に入院させて貰えているのもその人のおかげらしいので、もし会えたら感謝の言葉くらいは伝えたい。
「なんだか、変わったね」
香菜が寂しそうな顔で言う。
そんなことを言われても、以前の自分がわからないのだから仕方ない。
なんとなく今の自分を否定されたような気がして、反発精神が働いてしまう。
「思うんだよね。これ、本当に自分なのってさ」
「えっ?」
「こうして話している自分が、君の知っている紅条穂邑という人物である保証って、あるのかな?」
「やめてよ。それは……そんなこと、言わないで」
申し訳ないとは思うけど、これも偽りのない本心なのだ。
事実として、今の自分として意識すればするほど、どんどん違う何かになっていくような、不安というか、違和感―――?
「ごめん。でもさ、もう違うから」
「ほむらちゃん、それ以上は―――」
「違うんだよ。
違うんだ。
だから、もう『私』ではない。
「僕は……って……ほんとに、ほむらちゃ―――」
「吐き気が、するんだよ。僕を……女として、見ないで欲しい。僕は、もう君の知っている紅条穂邑じゃない」
「―――それ。本気で、言ってるの?」
本来なら友達で、命の恩人であるはずの、なんの罪もなく悪意もない少女に対して、最低な行為であることは理解している。
それでも。
これ以上は、限界だった。
「ごめん。独りに、なりたいんだ」
突き放すように、冷たく、しっかりと。
―――『僕』は。
―――『私』を。
この瞬間から、破却した。
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