一条 鴎 編

1.「本人が一番分かっていない」

 5月19日 火ようび


 夕食の後、風呂上がりの汐乃に誘われてリビングに二人きりになった。昨日もらった菱川なぎさの写真集を一緒に見ようと言われたのだ。


「この写真集、まだ開けてないんだね。おにいちゃんはまだ見てないの?」

「開封済みの写真集なんてプレゼントされたらイヤだろ。」

「へ? なんで?」


 小2のころからちょっとえっちな小説を読んでいたマセガキの菱川とちがい、性的なものを避け続けてきた汐乃にはそもそも「そういう知識」がなくて、「そういう発想」がない。だからまぁアイドルの写真集を兄と一緒に見ようなんて言い出せるのだが……


 少しだけタレ目気味の目尻をさらに下げて「あぁ~、なぎさちゃんはかわいいなぁ」なんてニマニマしていた汐乃の顔が、唐突に真っ赤になった。汐乃のかわいい顔ばかり見ていて菱川の写真集をろくに見ていなかったオレは何があったのかと思ったが、凄い勢いで汐乃が本をうつ伏せにしてしまった。


「おにいちゃんは、見ちゃダメ!」

「……あ、そういや水着写真もあるって言ってたなアイツ。」

「うぅ……なぎさちゃんをそういう目で、見ないでほしい……」

「水着なんてそんなエロイもんじゃないだろ。海に行ったらみんな着てるし、水泳の授業でだって着てるものだし。」

 ウソは言っていない。

 水着写真はエロくない。そこから中身を想像するようなヤツがエロイってだけの話だ。ハイ、すみません。


「そ、そうかな……」

「菱川だってがんばって撮った写真なんだから、汐乃に見てほしいんじゃないか? オレは別に見なくてイイから、汐乃一人でも見てあげようぜ。」

「う、うん。」


 マジな話、“親友”になった菱川をそういう目で見てしまったら今後がつらくなりそうなんで、オレもアイツの水着写真はあまり見たくない。

 オレに見えないように離れてソファに深々と座り、1ページごとに真っ赤になりながら菱川の水着写真をめくっている汐乃―――ヤバイ、これはこれでエロイぞ! “親友”をエロイ目で見てはいけないと言いつつ、“妹”をエロイ目で見てしまうのはどうなんだオレ!



 しかし、先週の騒動からは想像もできないような幸せな時間だな。


「菱川のヤツ、アイドルを辞めたがっていたんだよ。もうそんなこと思っていないみたいだけど。」

 ふと、そんなことを言いたくなった。「えっ」と驚く汐乃。


「なぎさちゃん、ラジオでもブログでもTwitterでもそんなこと言っていなかったよ。悩んでいるようなところもなかったのに……」

「オマエ、アイツが出てるもの全部チェックしてるの?」

「こんなに可愛くて、何でも出来る人間でも……辞めたくなっちゃうときがあるんだ……」


 菱川は“私はその場その場で求められるものを“いいこの私”として演じているだけなのに”と言っていた。それがどんなとてつもないことなのか、恐らく本人が一番分かっていない。

 菱川自身が否定した“菱川なぎさの価値”を、こうして汐乃が全肯定しているのを見ると……自分の価値と可能性は、“自分”では決して分からないもので、“他人”が決めてくれるものなのかななんて思った。


「あの……おにい、ちゃん。なぎさちゃん……私のこと、何か言ってた……?」

 銀河一のスーパー美少女である汐乃も、やっぱり“憧れの人”からどう見られたのかは気になるらしい。鏡を見ただけでは「私ってすごい」とは思えないものなのか。


「また汐乃に会いに来たいから、近所に引っ越してこようかなって言ってたぞ。」

「ホント!? また、ウチに遊びに来てくれるの?」

「仕事もあるし、そんな頻繁にじゃないんだろうけどな。社交辞令じゃなくて近いうちにまた来るんじゃないか。」


 オレ達の間に社交辞令なんて存在しない。それが“親友”になるってことだからな。


 ◇


 部屋に戻ると、かもめが一人でゲームをしていた。

 かもめの姿は見えないのでテレビに映るゲーム画面をボーっと眺めていたのだが、さっきの話を思い出して、ちょっと言ってしまった。かもめの価値や可能性を、このまま誰にも知られないのはイヤだななんて思ったからだ。


「なぁ、やっぱりオマエの“能力”のこと。誰かに相談してみないか?」

「誰かって、誰?」

「菱川でもイイし、加鹿さんでもイイし。」

「彼女たちに言ったところで何か良くなるとは思えないけど。」

「でも、オレとオマエの二人だけで考えているよりかは、三人なら打開策が思いつくかも知れないだろ。」


 このままで、良いワケがない。

 確かにこの奇妙な同居生活は楽しいことは楽しい。だが、誰にも姿が見えない透明人間のまま生きていくことも、ずっと家に帰らないことも、永遠に続けられるワケがない。いつかは「この先どうするか」を考えなくちゃいけないんだ。


「この家に初めて来たとき、オマエは“アンタのことは信用してもイイけど、他の人は信用できない”って言ってたよな。でも、汐乃だって、菱川だって、加鹿さんだって、今なら信用できるんじゃないのか?」

「それはそうだけどさ……」

「ひょっとしたら、オレ達が知らないだけで、足の親指のツボを押したらあっさり透明化が治る―――みたいなことがあるかも知れないじゃないか。」

「偏頭痛じゃねえんだぞ。」


 悔しかった。

 オレの大切な妹が、親友が、妹の親友が、まだかもめに信用されていないのが悔しかったし。彼女たちがまだかもめの存在を知らず、かもめの価値も可能性も認めてあげれていないことが悔しかった。


「私に、そんな価値はないよ。」

「そんなことはない! みんながどれだけオマエに救われたことか……」

「それはさ、私 が 透 明 で 誰 に も 見 え な か っ た か ら じゃないの? 透明じゃなくなったら、私には存在意義なんてなくなるんだよ。」


 そんなことはない――――!

 また、そう言いたかった。


 だが、言えなかった。

 もしオレが、自分の姿が透明になって誰にも見えなくなったとしたら……父さんや母さんに相談する、汐乃に助けてもらう、加鹿さんに、今なら菱川に、未智に、熊に、足立に、頼らせてもらう顔が何人も浮かぶ。


 コイツにはそういう人が一人もいないんだ。

 親にも友達にも頼れず、碌に知りもしないオレのところに名前と年齢を偽って転がり込んで、泊めてもらう代わりに身体を支払うとまで言ったんだ。


 透明になる前の彼女の人生がどんなだったのか、オレだって想像できないワケじゃない。


「元の体に戻ったところで、私には大した人生が待っていないんだよ。」


 ◇


 5月20日 水ようび


 放課後、本来ならさっさとかもめと合流して家に帰り、そのままバイトに向かわなくちゃいけないのだが……どうにも気が重い。昨日からかもめとちょっと気まずいというのもあるし、彼女が今後どうなってしまうのかを考えると憂鬱になってくるというのもある。


 テスト期間前ということもあって、オレが机に突っ伏してウダウダしている間に、さっきまで一緒に授業を受けていたクラスメイト達も次々と帰っていく。教室の人口密度もかなり下がった。ふと、横を見ると10cmくらいの距離に菱川の顔があった。


「うわっ! 菱川!?」

「そんなに飛び退かなくてもイイのに。キスされるとでも思ったの?」


 慌てて周りを見る。

 菱川と仲の良い女子が数人「あらあら~」と遠巻きに見ながら教室から出ていく。


「オイ、こんなことしてたら絶対誤解されるぞ。アイドルとして大丈夫なのか?」

「大丈夫。さっきは女子しか見ていなかったし、クラスの女のコはみんな私達のこと応援してくれてるから。」


 それこそが誤解だろうが。クラス全員が見ている前で「“親友”になってやる」宣言をしてしまったため、クラスの女子からはオレと菱川の関係は「さっさとくっつけ」と言われているらしい。


「んで、どうしたの? 元気ないね。お腹痛いの?」

 オレの机の上にチョコンと顔を出して上目づかいでこっちを見る菱川は、流石の国民的美少女だった。


「ちょっとした冒険心でお尻に乾電池でも突っ込んだら取れなくなっちゃったりしたの?」

 言動はあまり国民的美少女っぽくなかった。

 ちょっと待て、菱川。オマエの読んでいる「エロイ体験談が書いてあるサイト」ってどんなとこなんだよ。エロ知識に偏りがありやしないか?


「入れたのは単3? 単1? はっ、まさかボタン電池……?」

「どうして電池縛りなんだよ。というか、何も入れねえから! 海賊王だって、そんなとこで冒険しようと思わねえよ。」

「でも、ホントに今日一日ずっと元気なかったよね。大丈夫? おっぱい揉む?」


 その提案に乗ってしまったらオレ達はもう“親友”ではいられないだろう。とてもとてもとてもとてもとても惜しいのだが、ご遠慮申し上げざるを得なかった。良かったぜ、水着写真を昨日見ておかなくて。見ていたら誘惑に打ち負けていたかも知れない。



「菱川、下ネタは抜きにして……友達がいない人間ができる気分転換って何がある? 友達がいなかったスペシャリストの“菱川渚”に訊きたい。」

「んー、それって準稀くんのことじゃないよね。汐乃ちゃんのことでもないな。別の女の話?」

「別の、とは何だ。」

「その女のコは、準稀くんにとってどれくらい重要な人なの?」


 どれくらい……そんなこと考えたこともなかった。


「打順で言うと、5番バッターくらい重要か……な。」

「5番目かー……1番が汐乃ちゃんで、2番が私なら、よし! 許そう」

 野球の打順はそういう順番で組むんじゃないぞとは思ったが、勝手に勘違いしてくれたので黙っておく。間違いを否定しないのはウソつきではない。


「一人でできる気分転換と言えば、グループの若いコ達を見るとやっぱりYouTubeの動画とかを見てることが多いかなー。」

「テレビに出てるようなコも、YouTubeを見たりしてるのか?」

「そりゃそうだよ。かわいい猫の動画とかを延々と何十分も流すのなんて、テレビだと出来ないでしょ。」

 猫の動画か……そういう“いかにもかわいいもの”は、アイツは好きじゃなさそうだな。「猫とか、かわいいだけで人間から養ってもらえると思っているところがムカつく」くらい言いそうだ。


「そらちゃんなんかは、よくゲームの動画を観てるかなー。」

「ゲームの動画ってCMとかか?」

「いや、実況動画。自分で喋りながら遊んでいるのを、動画にしている人がいるの。芸能人でもいるけど、一般の人でもやっている人むちゃくちゃたくさんいるね。」

「それを観るだけって何が楽しいんだ……? ゲームなんて自分で遊べばイイじゃないか。」

「恋愛映画だってスポーツ中継だってAVだって、自分でしないで他人がしているのを観てるだけだもの。そんなものだと思うよ。」


 サブリミナルのように下ネタが差し込まれた気がしたが、ツッコまずにスルーする。


「ん? それって、“観る”だけじゃなくて“遊ぶ”方をやってもイイのか? オレでも出来るのか?」

「うん。私はあんま詳しくないけど、準稀くんの部屋にはパソコンあったし、あと2~3コ機材をそろえたらすぐに出来るんじゃないかな。」


 それだ、と思った。

 菱川に礼を言って、その日は帰り、バイトに行き、その夜からオレはネット上で情報を集めて必要なものを調べた――――



 5月22日 金ようび


 ゲーム実況用の、キャプチャーボードとマイクを買って帰宅した。

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