7.「真実」
加鹿さんの指示によって、この街の自警団が一斉に動き出す。
事件現場から半径5kmを封鎖しつつ、黄色いジャンパーを処分しようとしている男を探す。オレと一条さんも監視カメラが少ない位置に向かって走っていた。
「いたぞ!」
住宅街の路地で、自警団の一員らしき若者の声が響いた。オレ達は当たりを引いたらしい。
その男は、大きなボストンバッグから黄色いジャンパーを取り出して民家の庭に投げ込もうとしていた。自警団に見つけられた男は、慌ててこちらに逃げてくる。硫酸攻撃に備えて、ゴーグルとマスクを着ける。
「一条さん、下がってて。」
左手でパンチ一閃。
鼻の下、“
ヒューッという小さな歓声が後ろから聴こえる。
男を抑えたまま顔を上げると、次々と駆けつけてきた自警団の男達に混じって加鹿さんと汐乃がいた。
「ほら、汐乃。行きなさい」と促され、汐乃がこちらにやって来る。オレもゴーグルとマスクを外して、じっくりと汐乃の顔を見る。たった1日だったけど、随分と長いこと会っていなかったみたいだ。
「おにいちゃん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
何を謝ることがある汐乃、謝りたいことがたくさんあるのはオレの方なんだ―――と、その時。一条さんの叫び声が路地に響いた。
「待って! この男じゃない! 顔がちがう!」
誰もいないはずの場所からあがった声が何なのかを考えるよりも、みんなハッとした。
犯人を追いかけていたオレがどうしてヤツを見失ったのか、黄色いジャンパーをどこに隠したのか、持っていなかったはずのカバンがいつ現れたのか―――
振り返ると。
スローモーションのように、
同じような体型の男が、住宅の生垣から出てきた。
右手には、何かが入っているような瓶を持って。こちらに走ってくる――――
犯人は、硫酸をかけた男と、その男を逃がすためボストンバッグを持っていた男の二人組だったのか。
「おにいちゃん!」
ボストンバッグの男を抑え込んでいて動けないオレをかばうように、
汐乃が小さな体を広げる。オレと、硫酸の男との間に立ち、ふさがる……
「ばかっ! 汐乃、やめろ!」
男の右手が振りまわされる。
瓶の中の、大量の液体が、勢いよく汐乃の顔面に降りかかる――――
「や めろーーーーーーー!!」
「汐乃っ!!!」
どれが自分の声なのかさえ分からなかった。
自分が何という音を発したのかさえ分からなかった。
その結果アナタが大怪我を負おうとアナタは名誉の負傷のつもりなのかも知れませんが、アナタが傷つくことで心を痛める家族や友人がいることにも想像力が及ばない阿呆なのですか―――あのクソドS刑事が言っていたことの意味が、こんなタイミングで、ああああああああ、ちっくしょおおおおおお!
だが、
硫酸は空中で何かに弾き返され、汐乃には一滴もかからなかった。
まるでバリアーがビームを伏せぐように、まるで透明の傘が雨を防ぐように――――
透明の傘!
そうか! スパイガジェットか!
「うおおおおおおおおお!」
オレの身体が飛び跳ね、硫酸が空中で弾き返されたことに戸惑っている男の右頬に左フックをぶち込む。体重を思いっきりかけたそのパンチは、男を路地のアスファルトに叩きつけるには十分だった。
自警団の男達が集まって、犯人二人組をそれぞれ取り押さえた。今度こそ、通り魔事件は終わった。だが、オレには言わなくちゃいけないことがある。最愛の妹に。
◇
「ばかっ! どうして、あんなことしたんだ! あんな危険なことを……!」
汐乃は泣きながら、そして笑いながら言う。
「おにいちゃん……おにいちゃんの理想の女性は私だって、言ってたけど。それはちがうの。ちがうんだよ……」
「どうして、今その話を……」
「私が、おにいちゃんの理想になったの。そ う 自 分 を 組 み 立 て た の。」
加鹿さんも一条さんも黙っている。
汐乃は、何を言っているんだ……?
「生まれたころから、おにいちゃんのお嫁さんになるのが私の夢だったから、私はおにいちゃんの望む姿になったの。」
「おにいちゃんが髪の長い女のコが好きだって言ったから、私も髪を伸ばした。」
そう言えば、小さい頃の汐乃は髪が長くなかった。大ファンだった菱川なぎさのようなミディアムボブだった。
「おにいちゃんがおしとやかなコが好きだって言ったから、私もおしとやかになった。」
そう言えば、少なくとも幼稚園くらいの汐乃は大きな声でよく笑い、よく泣く、女のコだった。
「おにいちゃんが家庭的な女の人が好きだって言ったから、私も料理を覚えて、編み物をしたの。」
そんなことを知らなかったオレは、ただ純粋に喜んでいた。汐乃からもらったものを。
「おにいちゃんが喜ぶから、毎日“いってらっしゃい”と“おかえりなさい”を言うようになったの。」
4歳の頃から続けてきた両親の真似事も、オレのために始めたことだったらしい。
「おにいちゃんと同じように、正義感の強い子になろうとしたの。」
正しいことと、正しくないことを自分の頭で考えて、間違ったことはしない子に成長してくれたのは、オレのためだったのか。
「おにいちゃんが思う“理想の女の子”になりたくて、部屋にはかわいいものをたくさん集めたの。」
妹の部屋には、かわいいものがたくさん置いてある。ネコやウサギのぬいぐるみが敷き詰められ、好きなアイドルのポスターが貼られて、カーテンの柄は何日も悩んで選び抜いたもので、家族や友達と一緒に撮った写真をプリントアウトして雑貨屋をハシゴして買ってきたフォトフレームに入れてあって……それも全部、オレのためにやっていたというのか。
「おにいちゃんが望むように、早く大人になりたかったの。子供のままじゃお嫁さんになれないから。」
だからね、妹ちゃんが本当に哀しんでいるのはそこじゃないんだよきっと―――いつだったか、一条さんに言われたことだった。
オレのために、オレと約束した結婚のために早く大人になりたかった汐乃を、オレは子供扱いしてたんだ。「子供とした約束だ」なんて言ってしまったんだ。
見ると、加鹿さんは優しく悲しげな目で親友を見ていた。彼女は知っていたのか。
そうか、あの三つのチュートリアルの意味は―――「汐乃がどれだけオレのことが好きで」、「汐乃がオレの望んだように成長して」、「オレの理想通りに汐乃が成長してしまったのか」をオレに気付かせるためのイベントだったのか。
オレの理想が、妹だったんじゃない。
オレの理想に、妹がなってしまったんだ。
「私のぜんぶはおにいちゃんなの。
だから、おにいちゃんのためなら、わたしは、
なんでも投げ捨てられるの。」
そんなの――――
そんなのって――――
そんなのって――――!
確かに汐乃はかわいい。
見た目だけじゃなくて、性格も、好きなものも、仕草も、全部全部かわいい。それでいて間違ったことはしない、オレの“理想の女性”だ。
でも、でも! そんなの間違っている!
“自分”というものを持たずに、最初から“他者の望む姿”を実現するための透明な人生――――そんなものが正しいワケがない。
――――そもそもの話なんだけどさ、準稀は汐乃と結婚したくないの?
母の言葉が思い出される。
確かに汐乃はかわいい。見た目だけじゃなくて、性格も、好きなものも、仕草も、全部全部かわいい。それでいて間違ったことはしない、オレの“理想の女性”だ。
そう育ててしまったのが、オレのエゴだというなら、
オレは、
汐乃の兄貴として、コイツに恥じない背中を見せなくちゃいけないんだ。
◇
「汐乃……オレはオマエのことが好きだ。」
「妹として、だけじゃなくて。一人の成長した人間としても尊敬している。」
「世界で一番大切な人は誰か、と訊かれたら迷わずオマエの顔を思い浮かべる。」
でも、
「でも、オレ達はまだ狭い世界しか知らない。」
生まれたころから、オレのお嫁さんになりたいと願ったかわいいかわいい妹。
「あの家で育ち、あの家の中しか知らず、あの家の中だけで閉じこもってちゃダメなんだ。」
何故、兄妹は結婚できないのか。
「この世界にはまだまだオレ達の知らないことがあるんだ。色んな人と出会い、色んなことを経験して、色んな人を好きになって、そうしてオレ達は大人になっていくんだ。」
血がつながっているかどうかなんかよりも、大事なこと。
「こどものままでは、大人には、なれないんだ―――」
気がつけば、オレの目からも涙があふれていた。
きっと、オレもまだ子供だったのだろう。まだ恋愛を知らずに、妹をかわいいかわいいと言っていられた時代。でも、そんな時代は終わりにしなくちゃいけない。
「だから、オレは オマエと、結婚できない。」
兄として、妹に背中を見せなくちゃいけない。
正しくないことには「間違っている」と言える人間でいなくちゃいけないんだ――――
「はーーーーーーーーーーーーーーっ!?」
誰の声かと思った。
この場にいる女性は三人。透明で見えない一条さん、ずっと黙っている加鹿さん、そして汐乃。汐乃のこんな声は初めて聴いた。まだまだオレの知らない顔があるんじゃないか。
「意味わかんないよ! 私のことが好きだけど、世界にはもっと好きになれる人がいるかも知れないから結婚できないって! そんなこと言ったら、世の中の人は誰も結婚できないよ!」
そう言えば、汐乃は普段は口数が少ないのだが、好きなことになるとムチャクチャ饒舌になって早口になって語りまくるクセがある。これって“オレの理想”ではない、“汐乃本来の顔”が出てくるってことなのか。なんだよ、そっちの汐乃もかわいいじゃないか。
加鹿さんも、警察の到着を待っている自警団の人達もめっちゃこちらを見ている。恐らくその辺に立っているであろう一条さんも。
「大人になっても、他に好きになれる人がいなかったらどうするの!?」
「そうなったら、お義兄さんに責任をとってもらえばよろしいんじゃないです?」
親友の手助けなのか、オレへの嫌がらせなのか、加鹿さんが口をはさむ。
「あぁ……イイよ。そうなったらオレが責任とってやるよ。」
「じゃあ、おにいちゃん! 私が20歳、おにいちゃんが24歳になるまで、どっちにも他に好きな人が出来なかったら責任取って結婚してよ。」
20歳!?
と思ったが、残り8年か……まぁ、そのくらいあれば。
「二つ条件がある。」
「うん。」
「これはオレが汐乃に押しつけた話だ。だから、オレの方はどうでもイイ。オマエが20歳になるまで、オマエがオレ以外の人を好きになれなかったら責任をとってやる。これが一つ目。」
ほーぅという加鹿さんの声がした。
「もう一つ。汐乃はまだ知らないんだろうが、世の中にはオレなんかよりもよっぽどカッコ良くて、優しくて、頼りになる男がいる。そういう男達を、8年かけてオレがオマエに紹介してやるからな!」
そう言うと、汐乃は露骨にイヤな顔をした。
誰もいないはずの空間から、笑いをこらえる一条さんの声が少しだけ聞こえた気がした。「どんだけクソマジメなんだよ」と。
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