2.「子供のころからの約束」

「一条さん、風呂に入らなくても気にならない人だったりしない?」

「しない。私、もう2日間もお風呂入っていないんだよ。」


 どうにか交代交代で入る方法はないものか、考えてみたのだが……「どうせ透明で見えないんだから気にすることないよ」という一条さんの言葉で押し切られて、二人で脱衣所に。


 姿は見えない。

 だが、服を脱いでいると思われる衣擦れの音が聞こえる。平常心、平常心、平常心、平常心……


「シャンプーとか、どれ使えばイイの?」

「あぁ……これとこれとこれは妹のだから使わないでくれ。アイツ、自分の使われるの嫌がるんだよ。オレと同じのでイイか?」

「どうして、前を隠してんの?」

 ……


「いや、そりゃ隠すだろ! 男だってそこは見られるの恥ずかしいんだから。ていうか見るなよ!」

 男女のリアクションが逆じゃないのか、これ。

 相手が透明人間だと視線が分からないから、常に恥ずかしいもんだな。



 二人で入るには少し狭い洗い場で、まずは一条さんが体を洗い、その間オレは隅っこでうずくまっていた。平常心、平常心、平常心、平常心……一条さんが洗い終わって湯舟に入ってから、次にオレが体を洗う。平常心、平常心、平常心、平常心……


「ちょっとおっきくなってない?」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……そういうつもりじゃないんです。これは生理現象なんです。許してください。」

 オレが必死に謝ると一条さんはアハハッと笑い飛ばしてくれた。


「あのかわいいかわいい妹ちゃんとは一緒にお風呂入ったりしないの? その時は興奮しないの?」

「興奮するワケないだろ、相手は中学生だぞ。」

 ウソではない、多分。

 血のつながった妹に興奮してしまったら、兄としてもう終わりだろう。


「……」

「そもそも一緒に風呂に入ったのなんて、子供のころを含めてもほとんど記憶にないな。ひょっとして、オレあんまりなつかれていないのか?」

「逆だと思うけど……」

 そんなことを話しながら、オレも洗い終わったので二人で湯舟に入る。ちょっと大きめの湯舟だとは言え、脚を伸ばすと思わぬところに接触してしまうかも知れない。背中を向けて体育座りのような形で膝を抱える。まったくリラックスできない。


「私を部屋に連れこんだとき、エロイことがしたいのかなって思ってたんだけど……そうでもなかったの?」

「ない。でなきゃ、家族に事情を説明しようとなんてしないだろ。」

「それもそうか。私としては、一宿一飯の恩があるから体くらい別にやってもイイんだけど。」


 ――――――っ!


 思わず、向けていた背中を反転して、一条さんに向き合う。


「それはダメだ! オレ相手でなくても、そんな考え方は良くない! “体くらい”なんて思っちゃいけない!」

「……え? 何、いきなり。」

「人間には温かい飯を食べて、暖かい部屋で寝る権利があるんだ。そこに負い目を感じちゃいけない。大切な身体を対価にしなくても、堂々と要求してイイんだ本来は!」


 一条さんの顔も体もオレには見えない。今どんな表情をしているのかも分からない。

 しかし、今こうして同じ湯舟につかって気付いたのだが、この湯舟に張られたお湯は何故か透明化の影響を受けていないようで、モーセの十戒のように一条さんがいるところだけお湯が分断されている。そのため、お湯を見ると……一条さんの体型が何となく分かって……


「下半身はそんなこと思っていないみたいだけど?」

「すみません、すみません、すみません、すみません、すみません」


 再び背中を向けて膝をかかえる。


「こんな状況で言っても信用ならないかも知れないけど、男の性欲ってのは視覚から生まれるらしいんだよ。だから、目に見えないものに邪な気持ちは抱いたりしないんだ。」

「そう? 女だってイケメン好きじゃん?」

「でも、女性がイケメンに求めているのは性欲というより、状況だと思うんだよ。ロマンチックなムードとか、白馬の王子様とか、子供のころからの結婚の約束とか、運命の人とか、女のコはそういう少女マンガ的なシチュエーションに憧れるだろ。」


 少しの沈黙の後、一条さんは吐き捨てるように言い放った。


「私は、そんなものに、憧れない。」


「少女マンガなんて大嫌いだ。」


 ◇



 5月3日 日ようび


 我が家では、ゴールデンウィークに旅行に行かない。

 汐乃が人混みをあまり好きでないのと、オレが野球をやっていたころは練習で連休の予定が埋まっていたからだ。その代わり、両親の結婚記念日近辺に夕食を豪勢にする日を作っている。今年の場合は、今日がそれだ。



 午後からのバイトの前に、公園をいくつか見回ってみる。


「そういやこないだも公園にいたけど、何してんの? 家に居場所がないサラリーマンなの?」

「一条さん、別についてこなくてイイぞ。オレの部屋でゲームしてても文句言わないから。これはオレの自己満足でやっていることだから。」

「いんや、どうせならこの街のいろんなとこ見ておこうかなって。」

 ……あまり巻き込みたくはなかったが、説明するだけなら別に害にはならないか。


「ここ数週間、若い女性や10代の女のコに硫酸りゅうさんをかける事件が起こっているんだよ。」

「硫酸? って、理科の授業で出てきたヤツ?」

「そう。アシッド・アタックって言って、特に海外では男が女性に逆恨みなんかをしてかけるケースが多いらしい。喰らった女性は、一生消えない傷を顔や体に負うことになる……最悪の犯罪だ。」

「……」

「それが、先週では隣街、先々週は更に隣の街、その前は更に隣ってカンジで、通りすがりに男に硫酸をかけられる事件が起こっているんだ。犯人はまだ捕まっていない。」

「どんどん近づいてきてるから、次はこの街かも知れないと。」

 もちろんオレ一人が広い街を見回っていたって事件が防げるとも思えない。そもそも次の事件がこの街で起こるかも分からない。だが、


「だが、オレは“自分が何かを出来たかもしれない”と後悔するのはイヤなんだ。」

「アンタ、ヒーローにでもなりたいの?」

「バカなことをしてると思うか?」

「うん、バカだ。超バカだ。クソバカだ。」

 そこまで言わなくても良くない?


「でも、」

 一条さんの顔は見えない。

 でも、見えないはずの一条さんの笑顔が見えた気がしたんだ。


「でも、街を守るために人知れず戦うヒーローってのは、Splatoonプレイヤーとしては嫌いになれないバカだ。」


 ◇


 街中を見回っても、その日は特に何も起きなかった。

 午後のバイトが終わった後にネットニュースを見たが、この街だけじゃなくどこの街でも硫酸事件は起こっていなかった。これでイイ。事件が起こらなければオレ達の勝利だ。



 一条さんの分の弁当を買い、帰宅。

 オレ達家族4人はちょっと豪華な夕飯をとっている間に、一条さんはオレの部屋でその弁当を食べる。申し訳ないとは思ったが、「家族の団欒だんらんをジャマしたくないからイイよ、気にしないで」と言ってくれた。



 そして、その時が来た。


 オレの人生において、天地がひっくり返るような衝撃を受けた一番の出来事はこれにちがいない。


「準稀、前の前に住んでいた家って覚えている?」

 夕食の後、改まって母さんがオレに向き合って言う。

 前の家ではオレと汐乃が同じ部屋の二段ベッドで寝ていたのだが、オレが中学に上がったタイミングで別々の部屋の方がイイだろうとこのマンションに引っ越してきた。“前の前に住んでいた”ということは、更にその前か。


「いや……覚えていないな。何の記憶もない。」

「アンタ、昔のことすぐ忘れるもんねぇ……」

 そりゃ幼稚園くらいのころのことをイチイチ覚えてはいられないのは、オレに限ったことではないだろう。


「準稀は、俺と汐乃が別の家に住んでいた時期のことを覚えていないか?」

 ??

 今のは父さんの言葉だ。


 “父と妹が別の家で暮らしていた時期”? そんなものがあったのか?


「オレが何歳の頃の話だ?」

「アンタが4歳で、汐乃が生まれたばかりの頃だね。」


 汐乃が生まれたばかりなのに、母さんは一緒に暮らしていなかった? それは一体どういう状況なんだ。


「汐乃の母親は、汐乃を産んですぐに亡くなったんだ。」

「……は?」

 横の椅子に座ってる汐乃を見る。

 特にショックを受けている様子でもなく、大きな黒目でまっすぐこっちを見ている。


「んで、準稀。アンタの父親とはもっと前に離婚していてね。そんな時に、お父さんと出会ったの。生まれたばかりの赤ん坊の世話を男親一人でするのは大変だろうから、アンタも連れて一緒に汐乃の世話を手伝ってあげてたら……じゃあ、一緒に暮らした方がイイかって一緒に暮らし始めて、一年後に結婚することになったってこと。」

「つまり……?」


「お父さんとお母さんは再婚同士だから、アンタとお父さん、汐乃とお母さんは血がつながっていないのよ。」

 あー……、あー……、あー……、

 珍しく真剣な面持ちで語り始めるから何かと思った。確かに驚きの事実だったが、オレにとってはそれほど重要なことではない。


「血なんて、」


「血なんて、つながっていなくてもオレにとって父さんは父さんだよ。大切に育ててもらったことは分かっているし、正しいことと正しくないことを自分の頭で考えられるようになれたのは父さんのおかげだ。感謝している。」

「準稀……」

 ちょっと照れくさいが、勇気を出して事実を告げてくれた両親に応えなくちゃならない。ウソではなく、本当にオレは両親に感謝している。この二人に育てられて良かったと思っている。


「それで準稀、気付いてる? 汐乃とも血がつながっていないのよ?」

 横を向いて汐乃を見る。

 照れてるような、恥ずかしがっているようなその表情もかわいい。


「分かっている。血がつながっていても、つながっていなくても、汐乃は大切な妹だよ。今までと何も変わらない。」

「血がつながっていないということは、アンタ達も結婚できるってことよ?」

「いやいや、流石にそれはないだろ。妹相手にそんな感情は湧いてこないよ―――」


 と、言った、瞬間……場が凍りついたような気がした。

 母さんを見る。あちゃーといったカンジに呆れた表情をしている。父さんを見る。ばつが悪そうな顔をしている。汐乃を見る。汐乃を、汐乃を……


 世界が終わったかのような顔をした後、しばらくうつむいて、軽く震えたまま、立ち上がって走って部屋に戻ってしまった。


 ?????


「え? な、なんだ? なんだ? なんだ? オレ、なんか変なこと言ったか?」

「あー、アンタってホント的確に地雷を踏みぬいてくわね。」

「は? ど、どういうことだよ。」

「とりあえず汐乃の後を追いかけた方が良いと思うぞ。」



 言われるがままに、汐乃の部屋をノックする。

「汐乃、オレだ。すまない、多分オレがオマエを傷つけるようなことを言ったんだろうが……オレにはそれが何かも分からない。教えてくれ、汐乃!」


 しばらくすると、泣きはらしたような顔をした汐乃が部屋から出てきた。胸が締めつけられる。そりゃ汐乃はかわいいから泣き顔もかわいいんだけど、オレは妹には笑顔でいてもらいたいんだ。オレのせいで妹が泣いてしまったなんて、オレはオレが許せない。


「12回……」

「12回?」

 何だそれは、延長12回の話か?


「私が3歳の時の5月と9月、4歳の時の4月と7月と12月、5歳の時の3月と6月と7月、6歳の時の8月と11月、7歳の誕生日、8歳の時の2月……その12回だよ。」

 難しすぎるクイズが始まった。

 ヒントが12コあるらしいが、1つもピンと来ない。


「おにいちゃんがっ、私に“結婚しよう”って言ってくれた回数だよ!」

「なにっ!?」

 確かに、子供のころに軽はずみにそんなことを言ったことがあったかも知れない。今も汐乃は天使のようなかわいさだが、小さなころもそれはまぁかわいかったのだから。


 でも、まさか……


 そんな……


「オマエ、それをずっと真に受けていたのか……?」

 だって、そんなの。子供同士のかなわない約束だろ。「オレがオマエを甲子園に連れてってやる」みたいな。


「おにいちゃん、最後に約束してくれたの……いつだか分かる?」

「えっと……確か、オマエが8歳の頃の2月ということは。」

 汐乃の誕生日は3月で、今が汐乃12歳の5月だから……3年3ヶ月前か。


「割と最近じゃねえか!」

「おにいちゃんなんて、中学生だったんだよ!? もう分別のつく年齢だったでしょ。」

 いや、マジで3年前のオレがそんなことを言ったのか―――と思ったら、汐乃がスマホを取り出す。何かの音声ファイルを再生する。



「汐乃はかわいいな、かわいいな。もう妹さえいれば他になにもいらない。」

 自分の声は聞き慣れないという話だが、間違いなくこの声はオレだ。言っていることが今とほとんど変わらないから。


「ホント? おにいちゃん、あたし、およめさんにしてくれる?」

「あぁ、汐乃が16歳になったら即結婚しよう。」


 むっちゃ言ってる……

 言い逃れしようもないくらいに言ってる……声変わりしたような年齢で、むっちゃ約束している。



「私は、ずっと信じていた……」

「でもな、汐乃。確かにオレはこの頃、中学生だったけどな……相手が8歳の子供だと思っての発言だと思うぞ。まさかそんな約束をずっと覚えていられるだなんて思わなかった。」

 ましてや録音されて、3年後に再生されるだなんて思っていなかっただろう。


「それって……」

 見ると、タレ目気味な目尻にたっぷりの涙を溜めながら、汐乃が今日一番の絶望的な顔をしていた。


「それって、私のことなんてしょせん“子供”にしか見えてなかったってことなの?」

 答えられなかった。

 だって、そうじゃないか。オレにとって汐乃は、小さくて小さくてかわいい妹だったのだから。


「おにいちゃんの……ウソつき。」

 汐乃はまたうつむき、やっとの思いで言葉を絞りだして、再び部屋へと戻っていってしまった。



 そして、翌朝。

 汐乃は人生初めての家出をしていた。

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