8.「戻る場所が欲しいなら」

 今日の朝のことだった。

 菱川のマンションの前は、菱川がここに住んでいることを知って集まった野次馬で溢れていた。これではおちおち学校にも行けない。


「一人で出ていくのは危険じゃないか? オレも一緒に行くよ。」

「男のコと二人で出ていった方が危険だよ。私よりも、秋由くんが。」


 そもそも菱川には、“その辺にいる女子高生”になりきれる能力がある。それを使えば、この野次馬の中を突っきることも出来るんじゃなかろうか。


「それだと、私が学校に行った後もこの人達ずっとここに残って私が出てくるのを待つと思うんだよね。それなら堂々と出ていって、丁寧に応対した方がイイんじゃないかな。」

 昨日あれだけ危険な目にあっておきながら、よくそんな気が起きるなと思った。



 だが、実際に菱川が一人で出ていき、近所の人が困るので解散してくださいと笑顔で頼むと、興奮して集まっていた一団が一斉に落ち着いて波が引くように去っていった。思い出したのは、たった一言でクラスの興奮を収めた場面だった。これが、“菱川なぎさ”だった。


「集まったファンも人間だからね。ちゃんと目で目を見て話せば分かってくれるんだよ。」

「オマエ以外にそんな芸当ができるヤツはいないと思うぞ。」

「だからね、もう秋由くんがいなくても大丈夫。」

「……」

「こんな白昼堂々と人をさらいに来るヤツなんていないよ。」


 その笑顔もまた“擬態”なのだろうか。

 オレがコレ以上関わらないようにするための“擬態”。


 とにかく、菱川はそんなカンジで平気な顔して学校に行った。


 ◇


「白昼堂々と、彼女が一人になったタイミングを狙って拉致を狙うと供述したんです。」

「ヤツらは阿呆ですか? いや、そんな犯罪を起こすヤツは例外なく全員阿呆なんでしょうけど、そんなことしたらすぐに足がつくでしょう。」

「彼らからすれば、いずれ捕まることは承知で行動しているのかも知れません。」


 ――――!

 そうか、どうせ捕まるなら、捕まる前に好き勝手やろうということか。法を犯せば罰を受けるという法治国家の弱点は、罰を受けることが確定してしまえば or 罰を受けることを覚悟すれば何でも出来てしまうということだ。


 しかし、そんな身勝手な理由で傷つけられる方はたまったもんじゃない。たった1日であっても、一生消えない傷を背負うことになりかねない。

 “菱川渚”の時間は小学2年生で止まっているんだぞ。もし、そんな事態になったら、今度こそ“菱川渚”は彼女の奥底に封印されて二度と出てこなくなるような気がした。



 刑事さんからの電話を切る。


 どうする? どうする?

 今から全力で走れば、まだ教室に菱川は残っているかも知れない。だが、残っていなかったとしたら、致命的ちめいてきな時間ロスになってしまう。



 スマホを急いで操作して、アドレス帳から見知った名前を引っ張り出す。何十回と、何百回とかけた電話だ――――


「何だよ。今から練習で、こっちは忙しいんだよ。」

 電話に出た男は、ぶっきらぼうで、こちらを拒絶する威圧感を前面に出してきた。だが!


「熊! 頼む! オレに力を貸してくれ!」

 裏切ったのはオレだった。

 アイツの言うことを聞かなかったのはオレだった。


 でも、オレが最後に頼りにできるのはオマエなんだ―――!


「……何をすればイイ?」

「その場に菱川は、菱川なぎさはいるか!?」

「いや、教室には……もういないな。」

「じゃあ、菱川と仲の良い女子と換わってくれ!」


 クラスメイトの女子達の話によると、今日の菱川はスマホが壊れたこと以外には特に変わったところはなかったみたいだ。

 あんなことがあったのに普段と同じように授業に出て、普段と同じように弁当を食べて、普段と同じように笑っていたらしい。そんなとこまで“演技”してんのかよ、アイツは!!


「放課後、すぐに出てったからいつもみたいに仕事かなって思ったんだけど……」

「くっ……遅かったか!」

 どうする? どうする?


 1億人にとっての“理想の友達”になるために、友達なんかいらないと言った菱川―――


「秋由くん、なぎさ大丈夫なのかな? クラスのみんなも、なぎさには言わなかったけどネットで騒がれてたことは知ってるの。でも、みんなで黙ってようって決めて……」

「……」

「私達に何か出来ることはないのかな?」


 その台詞は、オレも言った。今朝の菱川に。

 そして、「もう役目は終わった」と言われた。「もう無関係」とも言われた。でも、だが、しかし、だからこそ、オレと同じ気持ちの人間がたくさんいるのならっ!


「今そこに何人いる!? 大勢だ! なるべく大人数を集めてくれ! 街中に散らばって、菱川を探すんだ!」


 ◇


 かもめとは二手に分かれることにした。

 オレはついこないだ菱川の後を追って行ったことのあるスタジオに、かもめは菱川のマンションに向かう。


 全速力で走る、走る、走る。

 芸能人が向かう場所がいくつあるのかは分からない。テレビ局、ラジオ局、撮影スタジオ、レッスンスタジオ……オレが唯一行ったことのあるスタジオに、今日たまたま菱川が来る可能性は何%なんだろうか。だが、奇跡を信じて走るしかない。



 スタジオの入口でオレに立ちふさがったのは、先日の大柄な守衛さんだった。


「あの! 菱川、来てませんか!? アイツ今日スマホ壊してて……」

「いや、来ていないと思いますよ。」

「じゃあ、今日これからここに来る予定はあるんですか?」

「私はここで立っているだけなんで、そういうのは分かりません。」


 クソッと膝を叩く。

 ここには来ていないが、ここに来る可能性もあるのか。戻るか、ここで待つか、どうする―――と、逡巡しゅんじゅんしている間に、守衛さんが「あ」と何か思いついたように奥に引っ込み、すぐそこにいたらしい人物を連れて戻ってきた。


「あ! シスコンおにーさんだ。」

 人懐っこい笑顔でぴょこぴょこ歩いてきたのは、ヘプタスロンの最年少:近藤聖空せいらさんだった。


「どうしたんですかー? 今日はなぎさちゃんと一緒じゃないんですか?」

「近藤さん、菱川の今日のスケジュールって分からない? 今日どこに向かっているか知ることができれば……」

「あー、グループって言っても別々のお仕事も多いので、みんなのスケジュールを知ってるワケじゃねーんですよ。」

 そういうものなのか。どうすればイイんだ、闇雲に街中を走るしかないのか……



「なぎさちゃんに何かあったんですか?」

 近藤さんのその表情は、テレビの中では見たことのないような真剣な顔だった。


「あたしにとっても、なぎさちゃんは大切なおねーちゃんです。」

 そう言って、彼女はランドセルからデコまみれのスマホを取り出す。


「マネージャーさん? なぎさちゃんの今日のスケジュールってどうなっています?」

 ヤバイ。オレ、ヘプタではそらちゃん推しになるかも知れない。小学生のことを好きになっちゃうかも知れない。


 ◇


 マネージャーさんによると、流石に昨晩の件があったので今日の菱川の仕事は全てキャンセルにしたらしい。それで彼女は、今もまた集まりつつあるマンションの前の野次馬達を帰らせようと自宅に戻ったと報告を受けたとのこと。



 「こんな白昼堂々と人をさらいに来るヤツなんていないよ」と菱川は言ったが、いるんだよ! それが!

 また走る走る走る走る。


「うぉおおおおおおおお!」


 野球を続けていたころ、オレは何になりたかったのだろうか。

 プロになりたいとか、甲子園で投げたいとか、そんなのは夢物語だった。ただ毎日が必死だった。走り続けた先に何が待っているのかなんて分からないまま、走り続けていた。それがつらくて、つらくて、つらくて、つらくて、でも夢中だったんだ。



「ゴメン、準稀! 間に合わなかった!」


 かもめからの電話が来たのは、そんな時だった。


「あの人を取り囲んでいたファンの中に紛れてたみたいで……車に連れ込まれちまった!」

 目の前が真っ暗になる。

 菱川の、菱川が、菱川を、

「でも、車の写真を撮った! これを使って!」


 上出来だ、相棒!

 届いた画像は、車の車種も、色も、ナンバープレートもハッキリと分かる車に菱川が入れられている瞬間のそれだった。


 急いで、その画像をクラスのグループLINEに貼り付ける――――

 今、この街中に散らばっているはずのクラスメイト達に向けて。



―――車道を見てくれ! この車がどこを走っているか教えてくれ、みんな!



 人員を動員して、街中の人の動きを制御する。加鹿さんの十八番を今回は使わせてもらう!



―――西小の前の道を、北に通り過ぎた!

―――郵便局の方に曲がった!

―――北高の方に向かってる!


 教室では喋ったことのないヤツからも、次々とメッセージが届く。


―――幼稚園の前の橋を渡るみたいだ!


 これは足立か。野球部をサボってくれてすまねえ。あとでオレも一緒に監督に謝ってやる。


―――中通りを西に向かっている!


 見えた!!

 ちょうど中通りに向かっていたオレは、十字路の向こうの先頭で信号待ちをしているその車を見つけた。


 ◇


 あの暑い夏の日。

 あの日以来、投げられなくなったボールを左手に握る。


 震えがないワケじゃない、恐怖がないワケじゃない、硬球は凶器になりうることも分かっている。



 でもな、菱川。

 オレはのピンチに何もできないようなヤツにはなりたくないんだ。


 縫い目を指にかけて、ワインドアップで振りかぶる。

 左脚を軸にして、右脚を蹴り上げ、全身のバネを使って体全体を回転させて―――


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 放たれた白球は、信号待ちで止まるしかなかった車のフロントガラスに一直線で向かう。ガッ!という大きな音がして跳ね返る。流石にガラスを突き破ることは出来なかったが、ちょうど運転席のところに無数の白いヒビが生えて視界を奪ってくれた。


 何が起こったのか分からずに、慌てて車を降りた運転席の男のアゴに全速で飛びこむ。


「菱川ぁあああああああ!!」


 握りしめたコブシは男を的確にとらえて、吹っ飛ばした。地面に叩きつけられてビクンビクンとした後、まったく動かなくなったが、とりあえずは放っておこう。



 後部座席を開くと、残りの一人の男が、後ろ手に縛られて足も括られて猿轡を噛まされている菱川なぎさを、後ろから抱えて首元にナイフを突きつけていた。


「来るなっ! どうなっても知らんぞ!」

 そう言って、反対側のドアまで後ずさる男。

 諦めたような菱川の顔。



「菱川、言っておくけどよ……“キャラを作ってる”のなんてオマエだけじゃないからな!」

 菱川の顔は変わらない。


「オレだって、教室じゃ場を和ませるためにシスコンキャラなんて作ってるんだよ!」

 菱川の顔は変わらない。


「足立のおちゃらけキャラだってそうだ! 小熊が“オレを許さない”ポーズだってそうだ! カリスマ小学生やってる近藤さんだって、ちょっと怖い守衛さんだって、あのドS刑事さんだってそうだ! みんな多かれ少なかれ“キャラを作ってる”んだよ!」

 それでも菱川の顔は変わらない。


 そこら中からクラクションの音が聴こえる。きっとここらは大渋滞だろう。


「オマエ、“本来の私”がどこにもいなくなってしまったとか言ってたな!」

 菱川の顔はまだ変わらない。


「ふざけんなっ!オレは腹立つくらい知ってんぞ! ワガママで、嘘つきで、人を勝手に巻き込んで勝手に諦めて、自分だけが特別な人間だなんて思いこんで、それなのに寂しがりで、死ぬほどメンドくせー女だって知ってんぞ!」

 菱川の顔は、まだ変わらない。


「何が国民的アイドルだよ! 何が天才子役だよ! オレ程度の人間に、そのメンドくささがバレてんじゃねえか!」

 菱川の顔が、まだ変わらない。


「1億人の“理想”だから、誰の家族にも、誰の恋人にも、誰の友達にもなれないだと!? 後でクラスのグループLINEを見せてやんよ! 今、クラス中のみんながオマエのために走ってることを見せてやんよ!」

 菱川の顔が、


「友野さんが、近藤さんが、守衛さんが、マネージャーさんが、刑事さん達が、オマエを助けたいって思ってたんだ!」

 菱川の顔


「もちろんオレもだ!」

 菱川の



 パトカーのサイレン音が近づいている。

 もう放っておいても事件は解決されるだろう。


 でも、でも、オレは彼女に言わなくちゃいけない――――

 1%のウソもない、魂の奥底から出てくる言葉で――――



「それでもオマエが“本来の菱川渚”に戻る場所が欲しいって言うなら―――」

 菱川


「オレがっ! オマエの“親友”になってやる!!!」

 菱


「全然“理想的じゃない”、オマエの死ぬほどメンドくせーところを見ても受け止めてやれる“親友”になってやる……っ」

 菱川の


「だから、」

 菱川の顔が、


「だから、オマエは国民的アイドルのままでイイんだよ。“本来のオマエ”をオレが見ててやるから。」

 菱川の顔が、変わった。

 ボロボロに泣きながら、笑いながら、哀しみながら、怒ってるような、忘れていた“本来の人間の表情”を思い出したかのような。



「今だっ! 足立! 熊!」

 後部座席の向こうのドアが思いっきり開かれる。開いたのは足立だった。


 バランスを崩した男と菱川は道路に投げ出されそうになるが、ナイフを持った手を小熊にガッチリ抑え込まれ、咄嗟に男はナイフを落としてしまう。その隙に、菱川が男の腕からすり抜ける。


 焦った男は逆方向のドアから逃げようとしたが、当然そこにはオレが待っている。豪速球を投げることができる左腕から放たれた左ストレートは、男を一撃でK.O.するのに十分な威力を持っていた。



 クラスの男子達が犯人二人を拘束し、女子達が縛られていた菱川を解放してやっている。

 クラクションとサイレンの音がそこかしこから聴こえる。往来のど真ん中での決戦は幕を閉じた。その後やってきた警察の人達からクラス全員ムチャクチャ怒られたのは言うまでもない。


 でもこれは、オレ達2年A組の勝利だ!

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