6.「それに名前を付けるのなら」

 カーテンの隙間から入り込むわずかな光では菱川の表情は分からない。しばらくの沈黙の後、「やっぱり分かってたのかー」というつぶやきが聞こえた。


「何がきっかけでバレたのかな?」

「確信したのは、今日オマエが襲われた瞬間だ。

 “菱川なぎさだと絶対にバレない”ように歩けるオマエが、何故かマンションの周りでだけ芸能人オーラ全開で歩いているのはおかしいだろ。襲って欲しかったワケじゃないだろうが、みたいに思えたぞ。」

「ファンの人にちょっと声かけられるくらいだと思ってたんだよ。そのために、秋由くんを配置しておいたのだし。」


 菱川がオレに期待していた役目は2つ。

 1つ目は、菱川のファンにうっかり尾行されて菱川のマンションを知らせてしまうこと。

 2つ目は、そのファンから菱川を守ること。


 菱川の誤算は、そのファンが徒党を組んで車で拉致しようなんて考えるガチな犯罪者だったことだけだ。



「最初にインターネット上に菱川のマンションの写真と住所が載ったって話も妙だと思ったんだ。その情報を載せたやつは、“菱川なぎさだと絶対にバレない”のにどうやって菱川のマンションだと分かったんだよと。」

「マネージャーさんとか不動産関係の人とか、そっちかられることもあるんじゃない?」

「オレも最初はそう思ったけどな……菱川、オマエはオマエ自身が思ってる以上に日本中から愛されてるんだよ。」

「……」

「菱川に声をかけたいとか……1億歩ゆずって、菱川とヤりたいみたいな感情なら分かる。“好きという感情”がどういう形で出てくるかは人にるからな。」


 世の中には、“好きだから”という理由で毎日の朝晩にお互いの写真を撮りあう兄妹もいるくらいだし。“好きだから”という理由で、買えもしないゲームソフトを半日眺めているだけで幸せなヤツもいるくらいだし。


「しかし、菱川の住所をネット上に書いて拡散させようとするのは“好きだから”じゃ説明できない。菱川なぎさを窮地きゅうちに追い込もうとする悪意しか感じない。だから、自作自演の可能性を考えるようになった。」



 同じ部屋にいるはずなのに、菱川の距離がえらく遠く感じる。

 本当に暗がりの中にいる人影は菱川なぎさなのかと不安になるほどに。


「菱川、どうしてこんなことをしたんだ? どうなるのが、オマエの望みなんだ?」


 ◇


 テレビの中から聞こえてきた菱川なぎさの声。

 教室でクスクス笑っていた菱川なぎさの声。

 廊下の端っこで一緒に弁当を食べていた菱川なぎさの声。


 そのどれともちがう、今まで聞いたことのない声で彼女は喋り始めた。



「小学校2年生のころにね、両親が死んだの。」

「……」

「交通事故だったかな。その前の日まで家族三人、仲良く暮らしていたのに……学校から帰ったら突然一人ぼっちになっちゃったの。」

「……」

「それで、経緯は忘れちゃったけど友野さんという若い夫婦に私は引き取られた。お母さんの古い知り合いだったみたいでね、その家には子供がいなかったからすごく大事に育ててもらったと思うよ。親戚でもない、血もつながっていない赤の他人なのに。」

「……」

「だから、私は“いいこ”を演じることに決めたの。あの人達に嫌われないように。あの人達に嫌われたら、私にはもうどこにも行き場所がないから。」


 あぁ……そうか。

 オレがどうして菱川を放っておけなかったのか、分かった。


「私じゃない、“いいこの私”は何でも出来たの。学校の勉強も、家のお手伝いも、新しい学校にも友達がたくさん出来て……すごいねー、なぎさちゃんって何でも出来るんだねーってみんながチヤホヤしてくれた。」

「……」

「そんでね、友達の誰かが言ったの。なぎさちゃんくらいかわいかったら、アイドルになれるよって。」

「……」

「私は“いいこの私”を演じているだけなのに、みんなが私をかわいいって言ってくれた。」


 コイツは汐乃に似ているんだ。


「アイドルになったら自分でお金を稼いで、友野さんに迷惑をかけずに生きられるかなって思ったんだ。最初はそんなもん。それでオーディションを受けたら、あれよあれよという間に芸能人になってて、どんどん仕事が来るようになった。」

「……」

「バラエティ番組ならどういう行動が求められているのか、ドラマだったらどういうキャラクターが求められているのか、グラビアだったら、ステージだったら、私はその場その場で求められるものを“いいこの私”として演じているだけなのに、」

「……」

「なのに、」

「……」

「なのに、気付いたら“本来の私”がどこにもいなくなってしまったの。」


 オレのせいで“本来の自分”を失ってしまった汐乃にコイツは似ているんだ。


「秋由くんにとって、妹さんは“理想の妹”なのかな?」

「……あぁ。」

 オレにとっては理想的すぎる妹。

「でも、それは秋由くんにとっての“理想”であって、他の人にとってはちがうよね。」

「……それは身に染みて分かってるよ。」


「誰の目から見ても“理想”になるってことは、誰か一人の“理想”になっちゃいけないんだよ。」

「……」

「1億人にとっての“理想の娘”になるためには、誰かの娘になるワケにはいかないし。1億人にとっての“理想の恋人”になるためには、誰かの恋人になるワケにはいかないし。1億人にとっての“理想の友達”になるためには、誰かの友達になるワケにはいかない。」

「……」

「だから、私はなんにも持たないの。」

「……」

「友野さんの家を出て一人で暮らすようになって、私は1億人にとっての“理想”になった。家族も、恋人も、友達も、趣味も、私にはなにもいらない。」


 毎日教室で一緒に笑っているクラスメイトも、あんなに懐かれていた近藤聖空せいらさんも、菱川が演じていた“普通の女子高生”や“国民的アイドル”というキャラクターの友達でしかないということなのか。



「そう思っていたんだけどね。そう思っていたんだけどね。突然、ホントある日突然、この部屋に帰ってきたらむなしくなったの。家族も恋人も友達も趣味も作ることができない私の人生は、空っぽでしかないんだって気付いたの。」

「……」

「でもね、私一人のわがままでいきなり芸能界をやめるワケにもいかない。」


 近藤さんの「あたしたち全員、明日から路頭ろとう彷徨さまようことになっちゃうですよー」という言葉を思い出す。菱川がやめると言い出したら、事務所が、グループの仲間が、動いているイベントや番組が、スポンサーが迷惑をこうむることになる。


「だから、トラブルにでも巻き込まれれば理由になると思ったんだ。」

「……」

 警察署でコイツは、自分を拉致しようとした男を見逃そうとした。それは、自分の計画に巻き込んでしまったという負い目からだろう。自分をレイプしようとした男相手であっても、それを感じてしまうほど菱川の心はまだ幼いんだ。


「でも、浅はかだった。」

「……」

「アイドルをやめて、どこか遠い町に逃げてひっそりと暮らそうとしても、この国には私の顔を知らない人なんていない。」

「それは、そうだろうな。」


 女子としては平均くらいの体格のはずの菱川の体がものすごく小さく見える。

 拉致されかけた今日の出来事を思い出しているのだろうか。日本中から自分に向けられている“好き”という感情がドス黒くなればあんな暴力的なものになることを、痛いほど知ってしまったからか。


「どこに逃げても、私は菱川なぎさなんだ。」

「……」

「この国に、私が“本来の私”に戻れる安息の場所なんてないんだ。」


 何にでもなれる演技の天才。

 日本中に顔を知らない人なんていない国民的アイドル。


 に名前を付けるのなら、“特殊能力”でも“特異能力”でも“超能力”でも“超常現象”でもなく。



 それはきっと、“呪いのろい”と呼ばれるものだ――――


 ◇



―――もう二度と、床で寝たくない。


 朝になってかもめから届いたメッセージだった。

 とりあえず緊急で頼みたいことをまとめて返信しておいた。



 朝、6時40分。

 キッチンを見ると、ジャージ姿の菱川が軽い朝食を作ってくれている。どことなく楽し気な彼女は、流石の国民的美少女なだけあってジャージでも「これはこれで」と思わせるかわいさだった。

 朝目覚めたら美少女が自分のための朝ゴハンを作ってくれているだなんて、昨晩の8時半以降のことを全部なかったことに出来れば、夢みたいなシチュエーションだと思った。


「ハイ、どうぞ」

 菱川が用意してくれたのはチーズと目玉焼きを載せたトーストと、野菜がたっぷり入った温かいスープだった。食器は予想通り紙皿で、テーブルがないから床に直置き。ここはあんまり夢みたいなシチュエーションじゃないな。


「そういや菱川、料理番組をやってたんだってな。妹が観てたって言ってたよ。」

「うん、小4から中2までかな。おかげで料理はいろいろ覚えたね。ただ、あの番組の時に“演じていた自分”にならないと作れないの。」

 さっき楽し気だった理由が、哀しいものだった。



「秋由くん、1週間ありがとう。私が望んでいた形とはちょっとちがったけど、私がやろうとしたことは全部終わったよ。」

「……菱川。オレに出来ることはもうないのか?」

「ないよ。秋由くんの役目は終わったの。あとは、これからのこと、自分一人で考えるよ。」

「菱川、オレにはオマエを助けられないのか?」

「ここから先は私と事務所とかメンバーとかの問題だからね。秋由くんには無関係だから。刑事さんに木槌で頭、叩かれちゃうよ。」

 そう言ってクスクス笑う菱川は、クラスでいつも見かける“普通の女子高生”を演じているときの菱川だった。


 この期に及んで、彼女はオレに演技をしているのだ。



「じゃあ、最後にこれだけ訊かせてくれ。ど う し て オ レ だ っ た ん だ ?」


 どうしてオレを選んだんだ。

 菱川を守るヒーロー気取りで、ストーカーにマンションの位置をバラしてしまう大間抜けの役にどうしてオレを選んだんだ。


「わかってくれるとおもったから。」

 見上げると、菱川が今まで見たことのないような顔をしていた。


「秋由くんも、やめた人だったじゃない。」

 その顔は、とてもじゃないが16~17歳の女子高生の顔ではなかった。


「秋由くんも、やきゅうぶのエースだったのにやめた人だったじゃない。だから、わたしのこともわかってくれるとおもったんだ。」

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