はじまりの朝

みたか

はじまりの朝

 白紙に広がる罫線を撫でた。ひんやりと冷たいそれは、指先から俺を否定してくる。

 窓の外は薄紫色に光っていて、朝の訪れを知らせている。開けっぱなしのカーテンを揺らすと、カラスがバサバサと音を立てながら飛んでいった。

 今日も書けなかった。

 書きたいことはあって、頭の中ではストーリーが進んでいくのに、俺はここ最近全く書けずにいる。

「こんなもの、書いてどうするんだよ」

 友達に言われた言葉が、また頭の中で響いた。

 俺が書いて何になるんだろう。

 俺が書かなくても、物語はこの世界に溢れているのに。

 そんな考えが心を支配する。

 小説家になりたいと思っていた。でも誰にも言えなかった。大それた夢だと笑われるのが怖かった。

 ふと、スマホが点滅しているのに気づいた。タップすると、ミキからのメッセージだった。

『はしにきて』

 漢字変換すらされないまま送られてきた五文字。ミキはいつも変換するのが面倒だからと言って、俺には全てひらがなで送ってくる。他のやつらには漢字も絵文字も使うくせに。

 ミキは近所に住む七歳上のお姉さんだ。家を出て仕事をしていたが、少し前に帰って来た。たまに俺を呼び出して、なんでもないことを話したり、互いの家でだらだらとご飯を食べたりしている。

 はし、というのは 波上橋なみうえばしのことだ。駅とは反対のほうに行くと大きな橋がかかっていて、そこからは川が海と繋がる瞬間が見られる。

 時計を確認すると、まだ五時だった。ミキはいつも時間など気にせず送ってくる。それにももう慣れた。

 五時なら始発も動く頃だ。用が済んだら、遠回りしてゆっくり学校に行こう。俺は制服に着替えてから家を出た。



 空気が澄んでいる。排気ガスも埃も混ざっていない、生まれたばかりの空気だ。街はまだ眠っている。鞄の中でノートがカサカサと揺れた。

 ミキは橋にもたれかかるようにして俺を待っていた。Tシャツにジーンズというラフな格好で、朝日に背を向けて立っている。俺に気づいてから、手元で煙草を消した。

「なんでそっち向いてんの」

 海から昇る朝日は特別綺麗だ。水面を煌めかせながら、金色の光が広がっていく。それなのに、ミキは反対側の空をじっと見つめていた。

「夜の終わりを見てたの。そっちはキラキラしすぎて眩しいから」

 ミキは目を細めて言った。その顔が泣いているように見えて、目が離せなかった。ぐ、と喉の奥で息が詰まる。

「あんたもそんな感じするよね」

「俺が?」

「あんたも、見てると眩しい」

「なんだよそれ、からかってんの?」

 眉間に力が入る。そういうからかい方は、面白くない。

「違う。本当だよ」

 ミキは口元だけ緩めて笑った。僅かに息が漏れる。そんな笑い方、今までしなかったくせに。

「最近、白いものを見るとあんたを思い出す。雲、アイスクリーム、ほんとうに何でも」

 ミキがこっちを向いたとき、シャンプーの匂いが鼻をかすめた。甘い花のような匂いと、煙草の苦い匂いが混ざって溶けていく。掠れた高い声で、洋平、と俺の名前を呼ぶ。

「あんたは、白に似てると思うんだ。何色にも染まれる色。一番自由な色なんだから」

 ミキは昔からそうだった。身勝手なことを言ってわがままに振り回してくるくせに、ときどきこうやって俺の心を見透かしてくる。

「お前、なんかずるいな」

 指先が朝日にあたためられて、体温が戻ってくる。すぐそばで鳥の声がする。俺の心も冴えてくる。

「……お前もだろ」

「え?」

「自分は違う、みたいな言い方すんなよな。お前だって、まだ何色にも染まれるだろ」

 何があって帰って来たのか、詳しいことは聞いていない。でも、大体想像がつく。

「諦めきれないんだろ、絵を描くこと」

 今更頑張ったって、もう遅いから。そんな言葉は、ミキから聞きたくない。祈るような気持ちで言葉を待った。

「うん、そう」

 ミキは振り返って光る海を見つめた。瞳の中で波が揺れて、宝石みたいに輝いている。その目は夢と憧れを抱いた子どものようで、ミキが少し幼く見えた。

「諦められないから、戻って来たの」

 晴れやかでまっすぐな瞳が俺を映す。

「それなら、どっちが早く夢を叶えられるか勝負だな」

 そう言った俺に、ミキは笑いながら頷いた。始まりの音がしたような気がした。



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