第202話

 明彦が台座に寝かせられた。彼の前には犬神に捧げる餌である生肉が置かれ、その周囲には神を祀るための様々な道具が置かれていた。


 明彦の右手には妖を封じ込めるための数珠が握られている。高僧から譲り受けたそれは、並の妖であれば特別な儀式を必要とせずに調伏出来るだけの力を持っている。


 やれるだけの準備はやった。優司と千鶴は禅を組み、呪文を唱えている。徐々に明彦を中心として霊的空間が整えられていく。


 松明の火が揺らぐほどに空間が霊気によって歪められた。張り詰められた空気の中、千鶴が手に持った大鈴を鳴らした。


 ――リン。と澄んだ音色が響き渡った。同時に明彦から莫大な霊気の奔流が溢れ出た。


 次第に霊気は姿形を取り、巨大な犬の姿を取った。青白く光り輝く犬神は、餌と置かれた生肉に食らいつこうとする。だが、


「健やかなれ。奏音霊縛かのんれいばくじゅ


 千鶴が大鈴を用いて発した呪により、犬神は神具として置かれたしめ縄によってその身を拘束される。


「その調子だ。動きを止めていてくれ」


 優司は立ち上がり、三方に置かれていた神酒を手に取ると、その中身を犬神にぶっかけた。


 ジュワっという肉の溶ける音が聞こえたかと思うと、犬神がもんどり打って倒れた。苦しそうに藻掻きながら、千鶴の施した拘束から逃れようと地面を転がりまわる。その隙に優司は犬神の心臓に独鈷を突き刺した。


「よし……まだ動きを止められそうかい?」

「なんとか……しかし、長くは持ちそうにありません」


千鶴は懸命に犬神の動きを止めているが、その額には大粒の汗が浮かんでいた。やはり神の動きを止めるのは一筋縄ではいかないようだ。


 出来る事ならもっと弱らせてから封印処置に移りたかったが、千鶴の様子を見るにこれ以上時間をかける訳にはいきそうにない。優司は想定していた弱体化の工程を何段も飛ばす事にした。


「もう少しだけ頑張ってくれ。封印処置に移る」


 優司は巾着袋から掌サイズの珠を取り出した。6個ある珠にはそれぞれ、「闇」「婆」「計」「陀」「那」「摩」つまり、六字文殊の真言である「闇婆計陀那摩あんばけだなま」の文字が掘られている。


 犬神の頭、胴体、四肢をそれぞれの珠に封じる事が出来れば六字文殊の法は完成する。


 慎重に、万全を期す事は出来ずとも可能な限り力の切れ間を狙って珠に封じていく。


「よし! いいペースだ! これなら……!」


 見ていた恭弥が思わず口にしてしまうほどに封印処置は途中まで上手くいっていた。


 四肢を封じ込め、胴体も今まさに封じられようとしていた。だが、ここにきて異変が起きた。犬神が最後の力を振り絞って胴体と頭を分離させたのだ。


「マズい!」


 それが誰の発した言葉だったのか、今となってはわからないが、はっきりしているのは犬神が拘束から逃れて明彦の元へと戻ろうとしている事だった。


 犬神は睨みつけるように一度こちらを振り返ると、一声吠えて明彦の中へ入っていった。


 それからの展開は早かった。台座で横になっていた明彦の身体が痙攣でも起こしたかのようにガクガクと激しく揺れたかと思うと、頭の部分がそっくりそのまま犬神になってしまった。


「……終わり、か」

「……そうですね。残念ですが、こうなってしまえば、もう……」


 術者二人の判断は早かった。調伏が不可能と見ると、すぐに妖と化した明彦を殺す方向で動き出している。優司は手に霊刀を生み出しているし、千鶴も術符を手にしている。


「そんな……駄目だ!」

 恭弥は慌てて二人の前に駆け出してそう言った。だが、


「恭弥、退くんだ。式は失敗した。あれは明彦じゃない、妖だ」

「まだ何か手があるはずだ! どうして諦めるんだ!」


 文字通り子供のように駄々をこねる恭弥に対し、千鶴はその身体を優しく抱き留めた。


「見たくないのなら、私が隠しましょう」

「嫌だ! 嫌だ! 離してください!」 


「いいえ、離しません。離したら、優司さんを止めるつもりでしょう」

「……っ! 離せよ千鶴さん!」


 千鶴はより一層力を込めて恭弥を抱きしめた。


「……辛い役目を負わせちゃったね。ごめん、千鶴ちゃん」

「いいえ、私は恭弥の師ですから」


「そうだったね。恭弥、よく覚えておくんだ。これが退魔師だ」


 優司は獣のように飛びついてきた明彦の首を一刀で断ち切った。


「あ、ああ……!」


 なぜこんなにも残酷な事が出来るのだろうと思った。子供達が見ている前で、その父親をあんなにも簡単に殺してしまうなんて。これが同じ人間のやる事か。恭弥は自らの父親の人間性を疑った。


 頭では優司の行いが退魔師として正しいと理解している。だが、理解するのと納得するのとでは話が別だ。


 視界が暗くなっていくのがわかった。同時に、段差を乗り越える規則的な音が聞こえてきた。


「酷い面じゃな」


 電車の中にいた。夕暮れ時の世界を当て所なく走り続けるその車内に、恭弥は天城と二人きりだった。


「りすとらを言い渡されたさらりいまんの方がマシな顔しとる」


 今は俗に塗れた煽りを言ってくる天城に言い返すような気力もなかった。恭弥はヘタれてクッション性が失われている座席でうつむく事しか出来ないでいた。


「そんなにしょっくじゃったか? 救えると思ったか? それは傲慢というものじゃ。少しは成長したかと思うたが、やっぱりガキのままじゃな。どうして人を頼ろうとする。どうしてお前自身の力で物事を動かそうとせん?」


 普段なら反論の一つでもしただろうが、言っている事がいちいち的を射ているので何も言い返せなかった。


「なんのためにお前の頭は付いとるんじゃ? 物を考えんようでは置物と変わらんではないか。なぜ我に相談せんかった?」


「……お前に相談してたらどうにかなったのか?」

「犬ころ如きちょちょいのちょいじゃ」


 恭弥は以前神楽が於菊虫に成った時の事を思い出していた。あの時はにべもなく断られた。その記憶が色濃く残っているせいで発想から抜け落ちていた。


「大方小娘の時の事を思い出しとるんじゃろうが、あれは妖に成っておった。じゃが今回は憑かれただけじゃ。どうにか出来た」


「は、ははは……」


 乾いた笑いが溢れた。いつもこうだ。どうしてこうも気付くのが遅過ぎるのだろうか。今更気付いたとしても手遅れだというのに。


「すっかり諦めとるようじゃが、まだ間に合うぞ」

「……………………は?」


 何かの聞き間違いかと思い、もう一度問いかけたが、やはり天城は「間に合う」と言った。


「今回は運がいい。犬ころでも神は神じゃ。首を落とした程度では死なんじゃろう。頭を潰されれば話は別じゃがな。幸いまだ頭はその辺に転がっとる」


「ど、どうすればいい!」

「ええい鬱陶しい! 離れんか!」


 思わず駆け寄って天城の手を握ってしまった。が、思い切り蹴飛ばされてしまった。


「イテテ……頼むよ、教えてくれ」


「……さっきまで死人みたいな面しておった癖に調子のいいヤツじゃな」


 天城は胡乱な目で恭弥を見ながらも、方法を語りだした。


「よいか、一回しか言わんからその耳かっぽじってよく聞け。妖に憑かれるというのはある種契約に似ているのじゃ。じゃから、本人が意識出来ないだけで妖と人間が存在する、ここのような上位者のための場所が在る。そこで妖に勝てばいいんじゃ」


「……それはわかったけど、俺が出来る事なんてあるのか?」


「さて、な。或いはお主が他者の空間に侵入する事が出来るかもしれん」


「という事は、出来るんだな?」

「どうだかな」


 天城はそっぽ向いてしまったが、ここまで教えてくれたという事はすなわち出来るという事だ。その方法は自分で探せという事だろう。


「次は終点、終点。お乗りのお客様は――」


 アナウンスが流れた。この場を後にする時間がやってきたという事だ。


「借りが出来ちまったな。晩飯はお前の好きなものを作ってもらうよ。夜までに考えといてくれ」


「お主は我に借りしかないわ。いいからはよ行かんかい」


 電車が停車し、扉が開く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る