第201話

「明彦さんが妖に取り憑かれました」


 恭弥は禅を組んでいる千鶴に向かってそう言った。それに対し千鶴は「そうですか」と言うだけであくまで目を閉じたままだった。


「千鶴さんはこうなるってわかってたんですね。だからあんな事を言った」


 千鶴は薄く笑うとようやく目を開き、こう言った。


「明彦さんが取り憑かれるところまではわかっていませんでしたよ。ただ、誰かが代わりになるだろうとは思っていました。それで? 恭弥はここに何をしに来たのですか」


「千鶴さんに力を借りに来ました」

「私に出来る事など――」


文殊法もんじゅほうを使います。明彦さんに取り憑いてる妖を強引に引っ剥がして数珠に封じ込める」


「文殊法――六字文殊ですか……」


「そうです。六字文殊が調伏を意味してるのは知ってますよね。明彦さんに憑いた妖は犬神と夜雀です。犬と鳥、どちらも調伏するには丁度いい存在だ」


「犬神? 神を調伏するつもりなのですか?」


「あなたなら出来るはずだ。最高神天照大神を呼び出せるあなたなら」


「……調伏となると話は別です。表に出す事は出来るかもしれませんが、調伏までは……」


「父さんの力も借ります。それに、明後日は重日じゅうにちです。陽が重なる。妖の力が弱まる日だ。十分に勝機はある……やってくれますね?」


 断られるなどと微塵も思っていない様子の恭弥に、千鶴は小さく笑みを浮かべると、


「……本当に、手間のかかる弟子ですね。やってみましょう」


 恭弥は千鶴の手を取ると、彼女閉じ込めていた檻から脱出した。


 フロントに戻ると、優司がつまらなさそうに煙草を咥えながら小説を読んでいた。既視感を覚えたのはきっと気の所為ではないだろう。


「おや、今度は連れてこれたようだね」

 以前と同じように優司は煙草を咥えたままこちらを見る事なくそう言った。


「祭りを開く必要はなかったよ」


「そのようだ」優司は読んでいた小説を閉じて煙草を灰皿に押し付けた。「久しぶりだね、千鶴ちゃん。少し大きくなったんじゃないかい?」


「ご無沙汰しています、優司さん。明彦さんが取り憑かれたそうですね。微力ながら、お力添えさせていただきます」


「とんでもない。君の力が借りられるのはありがたいよ。閉じこもっていた間に一段と強くなったみたいだ」


「あそこは自らを鍛える以外にする事がありませんから。まあ、自分からそうなるよう仕向けたのですが」


「恭弥から話は聞いてるかい?」

「はい。文殊法を使うのですよね」


「うん。今遠方から高僧の数珠を取り寄せてるんだ。明日には届く手筈になってる」


 千鶴は優司の向かいのソファに腰を下ろした。恭弥もその隣に座る。


「しかし、よく許可を出しましたね。あなたなら迷いはしても逝かせる決断をするものと思っていました」


 優司は何かを言いかけてそれを打ち消すように新しく取り出した煙草に火をつけた。そして、天井に向かって大きく煙を吐き出すとこう言った。


「……正直なところ、今も迷ってるよ。もし失敗してしまえば明彦は完全に妖になってしまうだろう。そうなった時、変わり果てた父親の姿を見るのはまだ幼い子供達だ。いくら精神的には大人といっても、精神は身体の成長に引きずられる」


「……トラウマになりかねないと、そう言いたいのですか」


「端的に言うとそうだね。僕は退魔師である前に一人の親だ。どうしてもそこが引っかかる」


「だからといって、抗わないのは俺は間違ってると思う。すでに桃花達は以前の世界で美智留さんを失ってるんだ。二回も親を失わせたくない」


「うん。恭弥の言い分もわかるよ。だからこそ、僕は明彦に判断を委ねた。結果、僕らは抗うという選択肢を取った。あいつにしても、まだ子供達の成長を見たいという気持ちが強いみたいだしね」


「通常、六字文殊で調伏出来る妖の格は本人よりも下です。しかし今回調伏しようとしている相手は神の中では格下といえど神は神。その格は明らかに明彦さんよりも上でしょう。私達が手助けをしたとしても、封じ込める事が出来るかどうか……」


「明彦さんって何級なの?」


「一級だよ。恐らく、取り憑いた妖を顕現させた後弱らせる作業が必要になるだろう。いわゆる封印処置ってやつだね。僕はそっちの方面には明るくないんだけど、千鶴ちゃんはどうだい?」


「幾らか知ってはいますが、神相手ではどれもまともに機能しないでしょうね……私達は以前神と戦っています。あれは人がどうにか出来る範疇を超えています」


「それは……参ったね。僕らがどうにか出来る神である事を祈るしかない」


 優司は再び天井に向かって大きく煙を吐き出した。どこかため息のように見えたのはきっと気のせいではないだろう。


   ○


 決行の日が訪れた。今日は重日。巳の日である。陽が陽に重なるこの日は、妖の力が弱まる。翻って、多くの退魔師の力が増す日でもある。そのせいか、話に聞いていたよりも明彦は妖の力に抗っているように見えた。意識もまだはっきりとしている。


 恭弥が霊装を着ているのに対し、優司と千鶴は古式ゆかしい陰陽師の正装をしていた。


 文殊法は攻撃的な術式ではなく、祈祷に分類される。そのため、二人は少しでも術の効果を上げるために祈祷師としての格好をしているのだ。


「準備はいいかい、明彦?」

 優司が床に伏す明彦にそう問いかけると、


「世話をかけるな……面目ない……失敗してもお前のせいじゃないから、やりたいようにやってくれ……」


「君と僕の仲じゃないか、気にするなよ。それに、子供達の成長を見守りたいんだろ? お前がそんな弱気でどうするんだ」


 明彦は薄く笑うと「そうだったな……」と言った。


「覚悟は決まってる……始めよう」


「わかった。美智留さん、お願い出来ますか。僕達はその間に式の準備をしておきます」


「わかりました」


 美智留は女中の手を借りて明彦を連れ去っていった。霊水で身を清めて、死装束に着替えさせにいったのだ。


 人の身に取り憑いた妖を調伏するには、対象者を限界まで希薄にするのが効果的とされている。


 霊水で俗世の垢を落とし、死装束に身を包む事で現世との繋がりを断つ。そうする事で人の身を幽世の存在である妖に近づける。そうして妖に取り憑いている感覚を薄れさせ、調伏するのだ。


「千鶴ちゃん、庭で式を挙げよう。台は用意してもらってるから、後は小物の設置だけだ」


「餌の用意は?」

「大丈夫。それも用意してもらってる」


 慌ただしく準備を行う二人を尻目に、恭弥は深刻な顔で事の成り行きを見守っている桃花と神楽に声をかけた。


「そんなに心配しなくても、きっと上手くいく。大丈夫だよ」


 その言葉は自分自身にもかけていた。もし失敗すれば? という弱気になる自分を奮い立たせるためだ。


「……わたくしは無力です。自らの父がこんな事になっているというのに、結局出来る事といえば人を頼りにして祈る事だけ。自分自身の無力が憎い……」


「姉様……」

「大丈夫、大丈夫だよ……明彦さんを信じよう」


 それ以上、かける言葉がなかった。

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