第147話 ※残酷描写あり。

 どれだけの間そうしていただろうか。いつしか流した涙は乾き、声はしわがれていた。それでも尚、虚しいという感情だけが残っていた。


「なんと情けない姿ですか」


 呆然と地面に蹲る恭弥に声をかける者がいた。顔を上げると、そこに宗介が立っていた。


「宗介……お前も俺を笑いに来たのか」


「君を笑いに? なぜ僕が君を笑わなければならないのか理解に苦しみますね」


「……じゃあ、何しに来たんだよ。見りゃわかるだろ、俺はお前と話すような余裕はない」


 言われて、宗介は恭弥をじっくりと見下ろした。そして小さく嘆息を漏らすとこう言った。


「無様ですね。仮にも僕を倒した人間ですか」


 恭弥が何も言い返さずにいると、宗介は恭弥の胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。


「君はいつまでこんなところにいるつもりですか! 冥道院を倒すのではなかったのですか!」


「……もう、どうでもいいんだ。何もかも、全部嘘だったんだよ……」


 宗介は恭弥を放り投げた。力なく地面に横たわる恭弥を心底見下げ果てたといった目で見下ろすと、こう言った。


「君にはほとほと呆れ果てましたよ。一瞬でも君のような人間を認めた自分が恥ずかしい! 文月さんは僕が守ります。君には任せておけない」


 宗介は何も言い返さない恭弥を一瞥するとその場を去っていった。


 再び誰もいなくなった。自ら望んでそうなったというのに、どうしようもないほどに寂しかった。孤独に耐えられそうになかった。


積み上げてきたものを失うのは一瞬だ。恭弥は今まさに、積み上げてきたもの全てを崩そうとしていた。それを理解していて尚、何もする気になれなかった。


 それから恭弥は最後まで誰の前にも姿を現す事はなかった。


   ◯


 桃花はプライベートジェットの窓に反射する自身の顔を見てため息を溢した。酷く疲れた顔だ。潤いを無くした唇はカサついて毛羽立っているし、肌色もどことなく悪い。これでは、街を歩けば誰もが振り返って見たといっても信じられないだろう。


 この機は間もなく発進してしまう。その段になっても搭乗しているのは自分一人だった。つまりは、そういう事なのだろう。結局神楽は逃げずに戦う事を選択したのだ。


 どこまでも自分と違い、どこまでも自由な妹の生き方を羨むと同時に、この選択は間違っていなかったのだと無理に自分を納得させる。そうしなければ、降りかかる様々な思いに押し潰されそうだった。


 逃げる、というのは全てを見捨てるのと同義だ。苦楽を共にする事もなく、何が起こったのかをその目で見る事すらしない。どこまでも無責任で、無関係だ。これから自分がやる事はそういう事だ。


 桃花は爪が皮膚に突き刺さり血が出るほどに強く手を握った。痛みが強ければ強いほど自分を罰してくれているようで心地よかった。


『当機は間もなく発進致します。シートベルト着用をお願い致します』


 機長のアナウンスが聞こえた。それから幾ばくかの時間を置いて、浮遊感と共に飛行機は空へと旅立った。文字通りの逃避行だった。


 そうして桃花は無事国外へと脱出した。それから数週間もしない内に、協会が白面金毛九尾の狐によって壊滅させられたとの一報を受け取った。


 その一報は予想された事ではあったが、心労が祟っていた桃花に止めの一撃となるものだった。桃花は報告を聞いてすぐに心臓発作によって帰らぬ人となった。


 恭弥が何もしなかった結果、イベントは形を変えて完遂されてしまったのだ。


「やあ、こんなところにいたんだね」


 山奥に一人籠もっていた恭弥の元に冥道院が現れた。彼はニコニコと厭らしい笑みを浮かべて、さも長年の友人であるかのような距離感でもって恭弥に近寄った。


「君が一人籠もっている間に、協会は潰させてもらったよ」

「……それがどうした」


「今生き残ってるので主要な面子は、九尾の一尾と、安倍千鶴、椎名神楽ぐらいかな? 後はお爺さんが一人。ここからの逆転は難しいだろうねえ。皆死んじゃったよ。君が何もしないからだ。君が運命に抗っていれば、あるいは別の未来があったかもしれないのに」


 唐突に、冥道院は服の袖から小型のナイフを取り出して恭弥の右腕に突き刺した。


「あれ? 痛がらないんだね。もしかして痛覚がどこかにいっちゃった?」


 確かめるように、今度は指で恭弥の左目を抉り出した。だらんと垂れ下がる視神経を乱暴に引き千切って、抜き取った眼球を掌でコロコロと転がす。


 恭弥は空洞になった穴からダクダクと血を流しているが、苦悶の声は一切上げなかった。それをつまらなさそうに見た冥道院は、躍起になったのか、恭弥をダーツの的に見立ててナイフを突き刺していった。


「君にも聞かせてあげたかったなあ、椎名神楽が狐火で燃やされている時の声。燃えても燃えても死ねないんだもん。彼女、相当苦しんでたよ。安倍千鶴は腕を引き千切られても毅然として立ち向かってた。バカだよね。絶対に勝てない相手に挑むなんてさ。所詮人間は本物の神には勝てないんだよ。どうしてそれがわからないのかな」


 最初は丸太に座りこんでいる恭弥の四肢を狙っていた冥道院だったが、段々と胴体を狙うようになっていった。


「協会がなくなって、今札幌はすごい事になっているよ。妖が好き勝手に暴れ回ってる。人間の踊り食いだ。同族として何も思わないのか、って? 思うはずないじゃないか。彼らは生きている価値がないからね。皆死ねばいいんだ。僕は母さんさえいればいいからね」


 恭弥の腹部に5本目のナイフが刺さった。彼の身体は真っ赤に染まっており、意識を保っている事が不思議なくらいだった。


「そうそう、椎名桃花だけど、彼女、多分死んだよ。僕が白面金毛九尾の狐を蘇らせたからね。今頃病気か何かで死んでるんじゃないかな」


 尚もなんの反応も返さない恭弥に苛立ったのか、冥道院はあえて避けていた無事な方の眼球にナイフを突き刺した。


「……君、つまらないよ。もうそのまま死ぬといい。じゃあね、僕はもう帰る」


 視力はなくなってしまったが、まだ聴力は無事だった。おかげで、冥道院がいなくなったのはわかった。


「……やっと、死ねる」


 これだけナイフを刺されれば流石に死ねるだろう。出血も合わさってすでに意識も朦朧としている。それが心の底から嬉しかった。


 家を出てから何もする気が起きなかった恭弥は食事も取らずに今日まで生きてきた。通常の人間ならばあり得ない事だ。だが、あり得ない事が天城と契約していた事によってあり得てしまったのだ。


 能動的に死ぬ気も起きない。だからただ日々を無為に、漫然と過ごす事で緩やかに死へと向かっていた。どこまでも虚無だったのだ。


 それも、やっと終わりの時がきた。もう、意識が途切れそうだった。


「クソッタレ……」


 最後の言葉はこの世の全てに対する呪詛だった。


   ◯


「――弥さん! 恭弥さん!」


 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。それも耳元でかなり大きな声で呼んでいる。


「恭弥さん! 起きてください!」


 うるささに耐えかねて目を開けると、自分は立っていて、今いる場所は見慣れた通学路である事がわかった。右隣には桃花が、左隣には神楽が、一歩離れた位置に文月が立っていた。


「あれ……俺、どうしたんだ?」


「覚えてないんですか? 歩いてたらいきなり立ち止まって目を閉じちゃったんですよ?」


「季節外れの夏バテですか。貴方らしくもない。体調管理くらいしっかりなさい」

 桃花がやや心配そうな顔で言う。


「ご気分が優れないようでしたら、どこかで休みましょうか?」

 文月が首元に手をやって熱を計る。ヒンヤリとした手が心地よかった。


「なんか……すごい辛い事があったような……」


 声に出しながら、全てを思い出した。自分が作られた存在であると知り、全てを見捨てて逃げた事を。そして、冥道院に殺された事も。なのになぜ、自分はこんなところにいるのだろうか? 


 ――全ては夢の中の出来事だったのだ。


 そう思い込みたい自分自身の考えを否定するように、拾壱次元が自己主張を始めた。全ては現実に起こった事で、お前は逃げてきたのだと。


 それを自覚すると、恭弥は腹の底から笑いがこみ上げてきた。


「はは……ははは! あはははは!」

「ちょ、急にどうしたんですか? そんなに大笑いして……」


 戸惑う三人をよそに、恭弥は尚も笑い続ける。


「あはは……そうか……そういう事か……! 逃げられないって事かよ……そんな……そんなのってありかよ……」


 恭弥の意思とは無関係に、恭弥が死ねばこの地点に巻き戻るように本来の狭間恭弥が設定していたのだ。それに気付くと、恭弥は絶望した。やっと、死ぬ事で逃げられたと思ったのに、本当の絶望はここからだという事に気付いてしまったからだ。

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