第146話
目が覚めると酷い頭痛がした。見慣れた天井に、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香り。ここが自分の部屋で、長い間布団で眠っていたのだと理解したのは、起き上がろうと身体に力を入れた際に僅かにラグがあった事からだった。
桃花は額に巻かれた包帯に手をやった。傷が完全に塞がっていないのか、まだ僅かに痛んだ。そうして、自分がなぜこうなったかを思い出した。
「……誰か」
発した声は掠れていた。自分で思ったよりも身体は病人のようだった。だが幸いにも、すぐ側に控えていたらしい女中が声に気付いて秋彦を呼びにいった。
暫く待っていると、霊装に身を包んだ秋彦が部屋にやってきた。腰には彼の得物である刀が二振り差されている。お務めに向かう前だったのだろうかと桃花は思った。
「目が覚めたようだな。何があったか覚えているか」
「ええ……ある程度は……」
桃花の声は未だ掠れていた。見かねた秋彦が女中に経口補水液を持ってこさせた。それを飲んで、ようやくまともに声を出せるようになった。
「狭間から事情は聞いた。白面金毛九尾の狐の一件と、お前の死はひと繋がりになっているそうだな」
父である秋彦の口からその話しが出るとは微塵も思っていなかった桃花は酷く驚いた。同時に、恭弥が話したのであれば、話す必要があったのだろうと考え納得した。
「そのようですね」
「お前には国外の安全な場所に避難してもらう。椎名と繋がりのある海外の名家だ。そこでなら、最悪の事態となっても悪いようにはならないだろう」
それは決定事項で、桃花が何を言おうと変わる事がないであろう事は彼の口振りからわかった。
桃花がその決定に不満を覚えるだろう事は秋彦をして当然理解していた。その上で、彼はこう続けた。
「今更都合の良い話しだが、頼み事がある」
「……聞くだけ聞きましょう」
「椎名の血を絶やさないでくれ」
その言葉は、今回の一件で自分を含め椎名にまつわる人間が全てこの世を去ってしまうかもしれない可能性が高い事を示唆していた。
「何を言うかと思えばこの期に及んでまだそんな事を……」
「私は……いや、俺はお前達にとって善き父親ではなかっただろうな」
そう始まったのは、椎名家の当主としての言葉ではなく、椎名秋彦という一人の男としての言葉だった。
名家とは程遠い末席の凡人として生まれた秋彦は、周りに言われるがままに物事を卒なくこなし、退魔師としてそれなりの人生を楽しんでいた。
恐らく自分は誰かの使いっぱしりで、一般人よりは寿命が短いが金に困らない太く短い人生を生きるのだろう。秋彦はそう考えていた。
そんな彼に人生の転機と呼べる出来事があった。当時すでに一級退魔師として活躍していた椎名家次期当主の椎名美智留との出会いだった。彼女のただ在るだけで美しいその姿に心奪われた秋彦は自分の人生を美智留に捧げたいとすら思った。
彼女の横に並びたい。その想いを胸に血を吐く努力を重ねた彼は、異例ともいえる早さで格を上げ、いつしか彼女と恋仲になり、祝言を挙げた。
「俺は、美智留さえいてくれればよかったんだ。だがあの時、俺にはどうする事も出来なかった」
桃花と神楽がまだ幼い時分、美智留は妖に取り憑かれた。意識の半分を妖に持っていかれはしたが、半分は美智留の意識を保っていた。それこそが地獄だった。
いつ何時妖に意識を乗っ取られ破壊の限りを尽くさんとするかわからぬ彼女を、呪術で雁字搦めにし、苦しむ様を見ながらなんとか救えぬものかと足掻く。
時折母としての意識を取り戻す美智留だったが、ふとした拍子に暴れ始めるのだ。幼い桃花と神楽は無意識に記憶を封じているが、その姿は彼女達も何度も目にしている。
「そんなはずは……! 母上は妖に取り憑かれて貴方にすぐ殺されたはずです!」
「……覚えていないのも無理はない。あの時の美智留は、お前達にとって見たくないものなはずだったからな」
「なぜ今に至るまで隠していたのです! もっと早く教えてくれていれば――」
続く桃花の言葉は秋彦が言った言葉によって言えなくなってしまった。
「せっかく忘れているのに、母親の痴態をわざわざ思い出させる父がどこにいる」
そう言われてしまえば桃花としては何も反論出来なかった。
「苦しかったよ。日に日にやつれていく美智留の姿を見ながら、俺は父として、退魔師として、夫として、どうするべきなのかずっと考えていた。そんな日が続いたある日、意識を取り戻した美智留はこう言ったんだ。もう終わりにしましょう、と。俺は何も言えなかった」
桃花は痛む身体を忘れて話しに聞き入っていた。
「最期の言葉が、椎名を頼むだった。だから俺は、家に固執するんだ」
「今更……今更そんな事を告げられてどうしろというのですか! 神楽の一件で、貴方を憎んでいた私のこの気持ちは!? 母上が死んで、急に冷たくなった父の姿に私達がどんな思いを抱いたと思うのですか!」
気がつけば桃花は涙を流していた。父に対する愛憎入り混じった感情に抑えが効かなくなったのだ。
「……すまないと思っている。だが、だからこそ、お前は生きろ。神楽にもこの話はするつもりだが、アレは言っても聞かないだろう。せめてお前だけでも生きてくれ」
「卑怯です! そんな事を言われては、頷くしかないではありませんか……」
「当主たるもの、卑怯なくらいでなければ務まらないのだ。私の事はもう忘れろ。愛しているぞ、桃花」
言うだけ言って、秋彦は部屋を後にしてしまった。
「卑怯……卑怯です……」
部屋には桃花のすすり泣く音だけが響いていた。
◯
時を同じくして恭弥もまた一人必死に嗚咽を殺していた。宛もなくバイクを走らせ、たどり着いた無人のガソリンスタンドで給油をしていると、予兆もなく涙が溢れてきた。
「チクショウ……チクショウ……!」
どれだけ拭っても拭っても大粒の涙が流れ落ちる。
拠り所を失った今の恭弥には何もなかった。空っぽそのものだった。自分を彩ってきたと思っていた過去は作られたもので、この世に肉親というものは存在しない。それどころか、ちゃんとした人間ですらない。自分はどこまでいっても作られた存在で、狭間恭弥というキャラクターを演じている人形に過ぎないのだ。
血の繋がった両親だと信じていた親に、お前は本当の子供ではないと初めて告げられた者も恐らくこんな感情を抱くのだろう、と妙に冷静な頭で思った。
「もう、死のう……」
恭弥は小刀を生み出した。この霊力を物質化する異能すらも自身のものではない。自分自身を殺す道具すらも借り物であるという事に気付くと、乾いた笑いがこみ上げてきた。
ひとしきり笑うと、切っ先を心臓に突き立てた。後はグッと力を込めれば死ねる。
「ふっ……ふっ……ふっ……!」
無意識に呼吸が浅くなる。自らの生を自らの意思で終わらせるという人間のみに許された究極の罪。
もし死後の世界というものがあるのならば、きっと自分は地獄に行くのだろう。そう思うと、小刀を握る手が震えた。気がつけばカタカタと歯も音を鳴らしていた。
なんと無様な姿だろうか。人とはここまで情けなくなれるものなのか。そう思わざるを得なかった。
ひとしきり憐れな姿を晒していた恭弥だったが、いよいよその時がきた。彼は意を決して小刀を心臓へ押し込んだ。だが無情にも、自らの霊力によって作られた小刀では自身を傷つける事叶わず、切っ先は押し込まれると同時に霧散してしまった。
「は……? はは……ははは……あーはっはっはっは!」
恭弥は狂ったように笑った。それは間抜けな事をしてしまった自分に対する笑いか、死ねなくて安心した笑いか、はたまた別の理由かはわからなかったが、とにかく笑いが止まらなかった。
誰もいない真夜中に恭弥の笑い声だけが響いた。
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