第141話 ※残酷描写あり。

 早々に弟を発見した薫は、とりあえず彼が無事であった事に安心した。すぐさま彼を背負って住み慣れた我が家からの脱出を図ったが、どういう訳か何度玄関の扉をくぐっても廊下に出てしまうのだ。


「なんで……!」


 冷静な頭であればこれが結界の仕業である事に思い当たる事が出来ただろう。だが、父親が殺されるかもしれないという異常事態で冷静な判断能力は損なわれてしまっていた。


(こうなったら、庭から脱出するしかない……でも、庭にはあいつが……)


「姉ちゃん?」

 不安そうな様子が表に出てしまったのだろう、背負った弟が問いかける。


「大丈夫。けいは私が守るから」


 意を決して元来た道を引き返した薫を待ち受けていたのは、衝撃の光景だった。すでに身体の中程まで溶かされて蟲と化してしまった父親がそこにいた。


 両足はすでになく、胴から腸がだらしなくこぼれ落ちている。その先端はうねうねと蠕くミミズへと変わりつつあり、見る者を卒倒させた。そんな状態にあって尚、慶一は自らの得物である錫杖を手放していなかった! 全ては子を逃さんとする執念からだった。


「お父さん!」

 薫は自らの口から発せられる金切り声を抑えられなかった。駆け寄ろうにも、父親の側には冥道院の姿がある。背中の慶太の安全を思うと迂闊には近寄れなかった。それくらいの自制心はまだ残されていたのだ。否、残ってしまっていたと言った方が正しい。


 自らの父親が生きながらに溶かされていく姿を見て狂わない人間の方が珍しい。事実、慶太は慶一の姿を見てすぐに気絶した。幼い彼にとってショッキング過ぎる光景だったのだ。


「薫……な、何故戻ってきた……ゴフッ……!」

 慶一は最早言葉を発する事すら困難な状況だった。


「だ、だって……!」


 悲劇的過ぎる親子の再会を目撃した冥道院は、堪え切れないといった様子で徐々に笑い始めた。最初は喉の奥から声が漏れる程度だったが、次第に大笑いへと変わっていった。


「何がおかしいのさ!」

 激高する薫を見て尚冥道院は笑いを止めなかった。


「アッハッハ、最高だ……君達親子は最高だよ! 全部僕の思った通りに動いてくれる」

「お……お前の仕業か……」


 気力を振り絞って睨みつける慶一に冥道院は鷹揚に頷いて見せた。


「最初に言ったじゃないか、君達には蟲になってもらうって。僕がなんの対策もなしに来ると思ったのかい? 当然結界を張っているに決まっているだろう」


 冥道院は散歩でもするかのような気軽さで自らの胸に突き刺さった錫杖を抜き放つと、人差し指を掲げてこう言った。


「さあ、ゲームオーバーだ。ここからは種明かしの時間だよ。僕はこの家にマヨイガの結界を張った。同じ場所をループする類の結界だね。強度はお嬢さんがギリギリ壊せる程度のものだ。つまり、君は脱出しようと思えば出来たんだ。もっとも、冷静さを失って出来なかったようだけど」


「ふざけやがって! 最初から私達を逃がすつもりなんてなかったくせに!」


「そんな事はないよ? ゲームはフェアじゃなきゃいけない。僕は十分チャンスは与えたつもりだ。ここからは別のゲームをしよう。なに、簡単なゲームさ。どちらかを選ぶだけでいいんだ。ね、お義父さん?」

 そう言って冥道院は倒れ伏す慶一に微笑みかけた。


「ルールを説明しよう。今から僕はお嬢さんか弟さんのどちらかを殺す。お義父さんはどちらを殺すかを選ぶんだ。ふふ、簡単だろう?」


「ベラベラといい気になりやがって! 見なさい! 冥道院!」

「や、やめろ! 薫……ガホッ! ゴフッゴフッ!」


 薫の双眸が爛と輝いた。金色の光を放つその瞳の魔力からは何人も逃れる事は出来ない。冥道院は不敵な笑みを浮かべたまま、しっかりとその瞳を見つめ返した。しかし妙だ。捻じ曲げられるはずの四肢が微動だにしない。


「良い事を教えてあげよう。瞳術の本質は催眠だ。だから、瞳術によってかけられる催眠よりも強い自己催眠をかけていれば無効化出来るんだよ。もう一点、瞳術使いが気をつけなければいけない点がある。瞳術を使用する時、術者と対象者は霊気の回路で繋がる。だから、対象者が術者に干渉する事も出来るんだよ。例えば、こんな風に――」


「あああああああああああ!」

 信じられない事が起こった。唐突に薫の双眸から出血が起こった。血涙などという生易しいものではない。確かな出血だった。


「や、やめろ……もう、やめてくれ……」

 慶一は冥道院の足にすがって弱々しく懇願する。


「君が早く選ばないからだよ? 僕はやると言ったら必ずやる。そうだ、僕が選びやすくしてあげよう。お嬢さんの方は鬼灯家当主として必要な瞳術が目覚めているね。だけど、弟君はどうなんだい? まだ幼いけど、瞳術が目覚める気配はあるのかい?」


 究極の選択だった。冥道院が言っているのはつまりこうだ。当主としての資格を持つ薫を逃がす事が出来れば御家を存続させる可能性の芽はある。一方の慶太は異能に目覚めない可能性がある。理性では薫を選ぶのが正しいとわかっている。だが、親が子を選別にかけるなど、なんと残酷な行いだろうか。


「あ、悪魔め……!」

「そうさせたのは君達だろう。僕達は平和に暮らしていただけなのに」


 どこまでも伽藍の瞳だった。冥道院の残された左の目は、慶一の姿を映しているようでその実何も映していなかった。あるのはただ伽藍。空虚そのものだった。


「復讐だと思うかい? 残念だけどそれは的外れだ。僕はね、どうでもいいんだ。全部全部どうでもいいんだ。僕には母さんさえいればそれでよかった。じゃあ、母さんを殺した鬼灯と稲荷が憎いかって? そんな事はない。当時の彼らにとっては必要だからやった事なんだろうさ。今なら理解出来る。じゃあなんで君達を狙ったかって? 別に理由なんてないよ。強いて言うならやりやすそうだったからさ。蟲を作れれば誰でもよかったんだよ」


「狂っている……!」


「誰だって愛する者を失えばそうなるさ。君も今からそうなる。もっとも、君は狂う前に死んじゃうかな? さあ、時間はないよ。選ぶんだ」


「だ、だめお父さん……そんな奴の言う事に耳を傾けないで……」


 薫は未だに血涙を流していた。血で視界が霞む中、なんとかして慶一の姿を捉えてそう言った。その姿が一層、慶一の胸を締め付けた。


「薫……」


 慶一の脳裏には自らの子供との思い出が無限にも思われる間流れていた。厳しい修行をこなす傍ら、時間を見つけて釣りに行った記憶、妻を亡くして娘を育てる大変さを思い知った。服や下着などを買ってやっても気に入らないと言われた記憶がある。最近では父離れが進んだのか秘密を抱える事も増えてきた。そうだ、父離れといえば慶太もいっちょ前に反抗するようになってきた。


 全て、大切な家族の記憶だった。どちらかを選ぶ事など出来ない。自分がここで諦めてどうなるというのだ。


 一度は失いかけた力が再び漲ってくるのがわかった。慶一は錫杖を握りしめ、冥道院に突き立て――――ようとした。


「だから無駄だって言ってるだろう?」


 全ての希望を折るかのように、冥道院は錫杖を握り砕いた。


「絶体絶命の状況で身体のどこからか力が湧いて出る? そんな主人公みたいな事が起こる訳ないだろう? 君はただのおじさんで、ここで死にゆく人間なんだ。世の中はね、不条理で出来ているんだ。ご都合主義なんてものは存在しない」


 冥道院は「飽きてきた」と言って慶一の両腕を踏み砕いた。


「君が選ばないから最悪の結果が訪れようとしているよ。せっかく片方は無事に逃してあげようと思ったのに。まずは弟君だ」


「やめ――」


 パチンと指を鳴らした冥道院は、巨大なカミキリ蟲を呼び出すと、慶太の首をその強靭な顎でもいでしまった。


 勢いよく宙を舞った慶太の頭は、ゴトリと鈍い音を立てて廊下に落ちた。主を失った慶太の身体から音もなく大量の血が流れ落ちた。


 薫は声を出す事すら出来なかった。細部はわからなかったが、何が起こったのかは血で霞む視界でもわかった。


 ――次は自分の番だ。


 この時点で薫は意識の大半を放棄していた。本能的にそうしなければならないと判断出来たのは幸運だった。この後に起こる出来事は、正常な精神では受け止められない。唯一狂う事が出来なかった慶一は、全ての出来事を目撃して尚狂えなかった事を後悔などという言葉では言い表せないほどに後悔した。


 慶一は舌を噛んでも死ぬ事が出来ない己の身体の頑強さを呪った。


「みょうどういいいいいんんんんん!」


 ただ名を叫んだに過ぎないのに、万言の呪詛よりも呪詛らしい叫びだった。


「フフフ、実に心地よい叫びだ」

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