第86話

「秋彦さんよぉ。自分の子供が元に戻るかもしれないんですよ。可能性に賭けてみようとは思わないのか?」

 英一郎は油断なく石下灰燼流の構えを取りながら、眼前の秋彦を睨む。


「僅かな可能性と椎名の存続、天秤にかける事など出来ない。それに、そのような姿で生きながらえる事こそ苦痛。引導を渡してやるのが親心というものだ」


「あんたとはどうもわかりあえないみたいだな。俺は若い連中が信じる可能性を信じる。いつだって新しい時代を作るのは若い連中なんだ。俺達みたいなおじさんがでしゃばるもんじゃない」


「若さ故の甘さがこの結果を招いたのだ。早々に殺しておけばこのような大事にはならなかった。そうは思わんかね」


「青春ってのは青に春って書く。俺は青春を尻の青い連中がこの世の春を作るって意味だと解釈してる。とすれば、今の状況はまさに青春。振り返れば良い思い出さ」


「……青春など、我ら退魔師には不要!」


 秋彦が独鈷を投げた。霊力をまとったそれは凄まじい速さで寸分違わず英一郎の顔面に向かった。しかし、英一郎は硬質化させた右拳でそれを打ち砕く。


 それが開戦の合図だった。二人は駆け出し、英一郎は己の四肢で、秋彦は錫杖を用いて互いを殺すべくその能力を遺憾なく振るう。


 清明と小春も椎名家お抱えの退魔師見習い相手に奮闘している。桃花が加勢した事で戦況は有利になったが、二人に気を使いながらでは十全に力を発揮出来ないだろう。何より、仮にも相手は無関係な退魔師だ。殺す訳にはいかない。


 そんな中、恭弥はその光景をどこか別世界の物のように見ていた。足元には桃花が置いていった燧があった。燧と暴れ狂う神楽を何度も見比べて、その度にあの言葉を思い出していた。


 ――愛を信じて、愛のために殺せますか。


(燧の真の力を解放する事が出来たら神楽を元に戻す事が出来る。だけど失敗したら? 今度こそ完全に神楽は死んでしまう。だけど、元々俺は神楽を殺す決心をしたじゃないか。今更何を悩む事がある)


 一度諦めてしまったところに見えた僅かな光明。絶望から少しだけ這い上がったところに希望があるかもしれないという状況で、恭弥は未だ決心する事が出来ずにいた。


「愛を信じて、愛のために殺す……」


 原作において、燧はどのルートにおいてもその真の力を解放する事はなかった。ただ燧を解放する事が出来れば不死鳥の力を得る事が出来ると描写されていただけだ。燧の解放条件がわからないのに行動に出るというのは難しい選択だった。


「でも、皆頑張ってくれてるんだよな……」


 桃花はもちろん、関係ないはずの英一郎や清明、小春や千鶴。全ては自分のわがままから始まった事だ。ならば、この茶番を終わらせるのもまた、恭弥の仕事である。


 恭弥は足元の燧を手に取った。そして、鞘から抜き放った。


 美しい小烏造りの刀身に炎がまとう。漆黒の刀身と燃え盛る炎のコントラストは、見る者を虜にする怪しい輝きを放っていた。


 本来恭弥が扱えるはずのない燧。それが今は長年付き添った愛刀かのように手に馴染んだ。間違いなく、今燧は恭弥を使い手として認めていた。


 全てが無音だった。堂々と神楽の前まで歩いて移動した恭弥の目には、神楽しか映っていなかった。それは神楽も同様で、神楽の瞳は恭弥を映すのみだった。


「俺がもっとしっかりしてれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。ごめんな」


 恭弥はゆっくりと炎をまとう燧を神楽の心臓向かって突き出した。


 肉を裂き、骨をくぐり抜け燧は心の臓を穿つ。


「神楽、愛してるよ」


 神楽の全身が炎に包まれた。それはあたかも不死鳥が蘇る際に自らの身体を炎の渦に任せるかのような光景だった。


 燃え盛る炎の中で、神楽の身体がボロボロと焼け崩れていく。そして、その姿が完全に炎に溶けてなくなると、一際大きな炎が起こった。


「恭弥さん……私も愛してます」


 炎の中から神楽が新たに蘇った。飛び跳ねた神楽は勢いそのままに恭弥に抱きついた。


「良かった……! 本当に良かった! 神楽!」


「はい! 大好きです! 恭弥さん!」


 神楽と恭弥が喜びに満ちた表情で抱き合う姿を、秋彦は信じられないといった表情で呆然と眺めていた。


「信じられん……燧の解放など、歴代の誰もが成し得なかった事……!」


 その言葉を受けて英一郎は煙草に火を付けて大きく煙を吸い込み、不味そうに吐き出すとこう言った。


「だから言ったろ? 新しい時代を作るのは若い連中だって」


 こうして、神楽妖化をめぐる一連の事件は幕を下ろした。とはいえ、そう言えるのは助っ人である英一郎達だけであり、恭弥達中心人物は後処理に目を回していた。


 神楽妖化によって椎名家当主レースが桃花に傾いた件で、神楽側から桃花側に寝返った一部の老人達は肩身の狭い思いをする事になる訳だが、今回の一件で完全に家を継ぐ気をなくした桃花がなんとかバランスを取るために動くはめになった。


 その逆もまた然り、桃花側に傾いたレースのバランスを取るために神楽は家の行事に積極的に参加するはめになった。


 恭弥も恭弥で、一度指名手配された関係で地に落ちた番付を上げるためにお務めをこなす必要があったり、事情聴取で椎名家に何度も呼び出された。おまけに、千鶴の生存が完全にではないが気付く人間には気付かれてしまった。その関係で千鶴生存という切り札を切るタイミングを早める必要が出てしまった。


 だが、そんな苦労を消し飛ばすのが神楽のはつらつとした笑顔だった。この笑顔を見れるのならば、苦労など苦労足り得ない。おまけに、顕界での喧嘩で姉妹の仲はより一層固いものとなった。この様子では、姉妹が殺し合うなどといった事は起こらないだろう。


 原作開始を目前に起こった一大事件は、結局誰も犠牲になる事はなかった。しかしこれが、次に起こる事件の前触れに過ぎない事をこの時の恭弥達は誰も知り得なかった。

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