第85話
「これは……」
無だった。どこまでも広がる透明な世界は自らの影すらも映さず、ただひたすらに透明だった。
(やはりあの程度の試練で燧を入手する事は出来ませんか。恐らくここは燧の生み出した顕界。とすれば、あちらから接触があるまで待つしかありませんね)
果たして桃花の考えは正しかった。暫くその場に正座して待っていると、急に世界に色がついた。
目まぐるしく変わる景色の渦は次第に明確な形を取っていった。そうして定まった形は、桃花がよく見知った場所だった。つまり、椎名家の神楽の部屋だった。
物の配置、匂い、ちゃぶ台に置かれた湯呑が放つ熱。全てが現実であると錯覚させた。
「姉様……」
気が付くと、目の前に神楽がいた。彼女は悲しそうに眉を曲げて姉を呼んだ。
「姉様がここにいるって事は、私の事助けようといろいろしちゃったんですよね?」
「貴方が気に病む必要はありません。それより、ここは燧が生み出した顕界という認識であっていますか」
「はい。歴代の燧使い達の遺志が残る場です。どうやら私も、死んだものと燧に判断されたみたいです」
「先代を超えて初めて燧の持ち手と認められる。そうして燧は強くなっていった。わたくしの雷斬と同じですね」
姉妹は揃って湯呑を傾けた。白く美しい喉がゴクリと鳴ると、神楽はこう言った。
「私を倒して燧を受け継ぎますか? ここに来れたという事は、その資格はありますよ」
「いえ、わたくしは賭けをする事にしたのです」
「賭け、ですか?」
「ええ。今、現世では貴方の身体を千鶴さんが確保しています。今頃恭弥さんの家の地下に拘束されている事でしょう。燧の真の力を解放し、その身体を黄泉帰らせます」
「無理ですよ。燧の解放なんて歴代の誰もが出来なかった事ですし、第一、私の身体は意思がないんですよ? 燧を握る事すら出来ないはずです」
「でしょうね。ですが、貴方と肌を重ねた恭弥さんならどうでしょう。燧にしてみれば、恭弥さんは貴方の身内同然です。悪いようにはしないでしょう」
「だとしても……」
「別にわたくしがやってもよいのですよ。ですが、眠れる森の美女は、王子様のキスによって目を覚ますもの。その役は恭弥さんに譲るつもりです」
「それは、そうですけど……。でも、恭弥さんが燧に認められたからって、燧の解放は難しいんじゃないですか。というか、まず無理ですよ」
「わたくしもそう思います」
「なら――」
「ですが、少しくらいのご都合主義はあってもよい、そうは思いませんか?」
姉妹は暫くの間無言で見つめ合った。どちらが根負けするか、言葉には出さなかったが、そうした雰囲気があった。
一分か二分か、とにかく長らく見つめ合っていた二人だったが、やがて神楽がため息をついた事でこの時間は終わりを告げた。
「……久しぶりに、喧嘩しませんか」
「何を言い出すかと思えば」
「昔は毎日のように喧嘩してたじゃないですか。でも、私が燧を受け継いで、姉様が雷斬を受け継いで、いつの頃からか私達は喧嘩しなくなりました」
「お務めに出るようになったからでしょう」
「そうでしょうか。お菓子の取り合いをしたり、姉様が私のおもちゃを取り上げたり」
「わたくしはじゃんけんの結果を正当に受け取ったまで。喧嘩の理由の大半は結果に納得しない貴方が愚図ったからでしょう」
「そうでしたっけ。勝ったり負けたりでしたね。でも、確か私が勝ち越してますよね?」
「四十七戦二十六勝二引き分け十九敗でわたくしが勝ち越しています。勝敗を捏造するのはやめなさい」
「……いちいち覚えてるなんて蛇みたいですね。そんなんだから腹黒いとか言われるんですよ」
「なんとでも」
「まあいいです。ここでの十分は現世の時間で一分です。思う存分戦えますよ」
「貴方には困ったものです。ですが、たまには姉妹喧嘩もよいでしょう」
「そう言ってくれると思ってました。それじゃ、庭に行きましょうか」
姉妹は立ち上がり、庭へと出た。そしてそれぞれの得物である燧と雷斬を鞘から抜き放った。
「姉として、先手は譲りましょう」
「では妹として先手はいただきます。行きますよ!」
神楽は燧を腰だめに構え横一閃に切り放った。能力は使わない。これはあくまで「姉妹喧嘩」だからだ。
「居合など得意ではないでしょうに。わたくしの真似ですか」
桃花は雷斬を逆さに構え、神楽の一閃を受け流す。返す刀で上段から力任せに雷斬を振り下ろす。優雅な戦い方をする桃花らしくない一撃だった。
「姉様こそ、そんな力任せにして。私の真似ですか」
「かもしれませんね」
上段から刀を押し付ける桃花。それを下段から受け流そうとする神楽。二人の拮抗する力は鍔迫り合いという超至近距離の状況を作り上げる。
「懐かしいですね。姉様と私はいつも同じくらいの強さでした」
「今だから言える事ですが、姉のわたくしは一年遅く生まれた貴方がわたくしと同じ力量である事に恐怖していたのですよ」
「そんな風に思ってたんですか。知らなかったです。私はいつまで経っても勝てない目の上のたんこぶみたいに思ってました」
鍔迫り合いを終わらせたのは桃花だった。不意に雷斬に込めた力を抜き、後ろに跳ねた。
「姉相手にそのような事を」
「姉だから、ですよ。姉様はいつだって私に無いものを持っていた」
「それは貴方とて同じ。姉である、ただそれだけの理由でわたくしのお気に入りのおもちゃは貴方に持っていかれた!」
再び力任せに上段から雷斬を振り下ろす。
「いつだって新しいおもちゃは姉様にだけあたった。私はおさがりばかりでした!」
雷斬を避けた神楽は再び燧を横一閃に放つ。
「どれだけ気に入っていても、結局は貴方に持っていかれるのです。わたくしの気持ちがわかりますか!」
「知らないですよ! 私だって新しいのが欲しかった!」
「おやつの数がいつも貴方の方が多かった!」
「私の方が年下なのに修行の内容が同じだった!」
「姉を差し置いて身長も胸も大きくなったのが疎ましい!」
「サラサラの髪が羨ましい!」
「恭弥さんと先に肌を重ねた!」
「恭弥さんの本当の気持ちは姉様に向いている!」
「……いつだって、わたくしは貴方が妬ましかった! 椎名家の長女であるからと押さえつけられ、自由を感じた事などありませんでした。たった一年。一年遅く生まれただけで貴方は自由だった。わたくしに無い自由を持っていた!」
「私だって姉様が妬ましかった! どれだけ頑張っても姉様には勝てなかった! やっと勝ったと思った恭弥さんも、結局は姉様の方が好きなんです!」
「何を根拠に!」
「私に対する態度と姉様に対する態度が違います! 私は哀れみで抱かれてるだけです!」
「強引に迫るからです! あの手のタイプは付かず離れずが一番よいのです!」
「私にはそんな事出来ません! そんな態度が取れる姉様が羨ましい!」
「貴方のように強引に迫る事が出来たらと何度思った事か!」
「すればいいじゃないですか! なんでやらないんですか!」
「わたくしは貴方とは違う!」
「私だって姉様とは違いますよ!」
桃花は力任せに上段から雷斬を振り下ろし、神楽は燧を横一閃に放つ。この繰り返しだった。
そうしてお互いの心の内を打ち明けながら得物を振り回し続けて一時間近くが経とうとしていた。流石の二人の息が上がって肩で息をしている。
「……実は私、私の分だけおやつの数が多いの、姉様が自分の分を分けてくれてたからだって知ってました。だけど、食べたかったから知らないフリをしてました」
「……知っていたのですか」
「姉様はなんだかんだ言っても私に優しかった」
「……当然です。たった一人の血を分けた妹なのですから」
「母様が死んで、父様が厳しくなってから私はいつも泣いてました。慰めてくれたのは姉様だけでした」
「神楽がいたから、わたくしは姉として気丈に振る舞えたのです」
「やっぱり、姉様は強いですね」
神楽は柔らかく微笑んだ。そして、こう続けた。
――姉様は愛を信じて、愛のために殺せますか。
(わたくしにはその覚悟がなかった)
桃花は自身が背負えなかった覚悟を恭弥に求めようとした。
「恭弥さん、愛を信じて、愛のために殺せますか?」
「俺に、神楽を殺せって言うのか?」
「ただ殺すのではありません。愛を信じて、愛のために殺すのです」
「愛を信じて……愛のために殺す、か」
桃花は無言で恭弥の眼前に燧を差し出した。
「貴方に、これを受け取る覚悟はありますか?」
「俺は、本当に神楽を愛していたんだろうか」
「それは、貴方の心が決める事です」
「……本当に、情けないな。自分自身の胸の内すらわからないなんて。見定めさせてくれ。俺はもう一度、神楽に会う。そして、神楽を、俺自身を信じる事が出来たら、燧を受け取るよ」
「よいでしょう。神楽は千鶴さんが確保しているはずです」
「俺が捕まってる間に随分大事になってるみたいだな」
「多くの人を巻き込みました。これで失敗しました、では目も当てられません」
「全部俺に懸かってるって訳か。こういう役目は主人公のものだろうに」
「主人公になる時がきたのです。我々の手で、物語を紡ぐのです」
二人は地下を出た。すると、家中がドタバタと忙しいのがわかった。
「何があったのですか」
桃花が廊下を走る一人を掴まえて聞いた。すると、男は椎名家に妖が攻めてきたと言った。桃花の細い眉が歪む。
「なんというタイミング……!」
更に悪い事が重なった。地下を出て電波が繋がった事で、桃花のスマホに千鶴から連絡が入った。
「どうされましたか」
『まずい事になりました。捕縛していた神楽さんが逃走してしまいました』
「何故そのような事に」
『椎名家の刺客を分け身で相手していた一瞬の隙を突かれて逃げられてしまいました。面目ない。完全に私のミスです』
「まさか……」
桃花は通話を切るのも忘れて人の流れに沿って走り出した。そして、庭に出ると、於菊虫となった神楽が暴れているのが見えた。英一郎と清明、小春の姿も見えた。どうやら秋彦に加えて椎名家お抱えの退魔師見習いから神楽を守っているらしい。とはいえ、神楽の攻撃対象は無差別だ。三人は神楽の攻撃を避けながら戦っている。無秩序な三つ巴の戦いだった。
「最悪の事態ですね。最早一刻の猶予もありません。行きますよ」
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