第82話
「恭弥さん? 恭弥さん!」
電話口の向こうからうめき声が聞こえた。恭弥の身に何かあったのだろう。桃花は慌てて狭間家の客間を飛び出し、居間にいる千鶴に声をかけた。
「恐らく恭弥さんが椎名に捕まりました」
「遂にその時が来ましたか……事ここに至っても未だ解決策を見いだせない己の無力を呪いたくなりますね」
「今はそのような事を言っている場合ではないでしょう。わたくしは椎名に戻ります」
「恭弥が捕まったとなれば、隠形の結界が解けるのも時間の問題でしょう。私は神楽さんを救出しに行きます。桃花さんはなんとか恭弥の身の安全を確保してください。最悪、私に連絡を入れてくれれば分け身を出します」
「頼みます。ですが、それをすれば椎名との敵対は決定的なものになります。千鶴さんの身も安全ではないでしょう。よいのですか」
「私の事はいいのです。いずれバレる事。早いか遅いかの差でしかありません」
「そうですか……我が家の揉め事に巻き込んでしまい、申し訳ありません」
「いいのですよ。弟子が関係しているのであれば、師である私も無関係ではありません」
「ありがとうございます。では、わたくしでは家に戻ります。神楽の事を頼みます」
「はい。頼まれました」
桃花は雷斬を手に狭間家を飛び出した。千鶴も、自身に変化の術を施して家を後にした。
一方その頃、北村家の道場で清明と小陽に修行をつけていた英一郎は、恭弥の霊気を感じていた。元来陰陽術を苦手とする彼だったが、恭弥が消息を断ってから常に恭弥の霊気を辿っていたからこそすぐに感じる事が出来たのだ。更に感覚を研ぎ澄ませると、恭弥の霊気が順調に椎名家へと向かっているのがわかった。
「……こりゃ、なんかあったな」
「え? どうかしたんスか?」
「んー、悪いが急用が出来た。今日は自習って事で頼むわ。おじさんはちょっと出てくる」
言うが早いか英一郎は紫煙をくゆらせながら道場を去っていった。
「狭間さんの件かな?」
「だろうな。たぶん、椎名の追手に捕まったんだ」
清明は悩んだ。あれだけ周囲の人間に何もするなと言われたが、やはり心の内にはこのまま何もしなくていいのか? という思いがあった。その思いは考えれば考えるほど大きく膨らんでいった。そして、やがてそれは行動を起こす原動力へとなっていった。
「俺、何も出来ないかもしれないけど椎名に行く。あの人には恩があるし、何もしないのは筋違いだと思う」
「そっか……あたしも付き合うよ。やっぱり家族同士殺し合うなんて認められないし」
「師匠に大目玉を食らうのは間違いないな。けど、やろう。何が出来るかわからないけど、きっとやれる事があるはずだ」
清明は「正宗」を、小春は「人斬り包丁」を手に立ち上がった。
それはきっと蛮勇と呼ぶべきものなのだろう。しかし、だからこそ彼らは主人公と呼ばれるのだ。いつだって主人公は蛮勇をかざして正義とするのだ。それはこの世界においても普遍のものなはずだ。
○
秋彦は地下室に監禁されている恭弥の眼前にあった。秋彦は伽藍の瞳で恭弥を舐めつけるように見下ろしていくと、こう言った。
「因果なものだ。今度は私が裁く側になるとはな」
「……そう思うならこんな真似しないでほしいものですね」
秋彦は恭弥の言葉に返す事はなかった。代わりに、パイプ椅子へと腰を下ろして自らの過去を振り返った。
自身の妻であり、桃花と神楽の母でもある美智留との出会いは忘れたくても忘れられないものだった。
当時半人前だった秋彦のサポートとして、すでに退魔師としての立場を明確なものとしていた椎名家の次期当主、美智留がお務めのペアとなったのが二人の出会いだった。
秋彦は美智留の姿を見た瞬間、身体に電流が走ったかのような錯覚を覚えた。その美しい所作と、強大な妖に恐れる事なく立ち向かっていく凛々しい姿、そして、時折見せる柔らかい笑み。秋彦は心の全てを美智留に奪われた。しかし、秋彦と美智留には絶対的な立場の差があった。
片や名家椎名家の次期当主、それに比べて秋彦は論ずる事すら億劫なほどに格の低い家の次男だった。どうしても自身の立場を引け目に感じてしまい、美智留に想いを伝える事が出来ないでいた。だが、そんな秋彦にチャンスが訪れた。強大な妖が現れたのだ。
自身の実力に自信のある者を募って行われたそのお務めに、秋彦は明らかに実力不足である事を理解しながらも参加した。参加者名簿に美智留の名があったからだ。
次々と実力者達が倒れていく中、秋彦は意地と根性だけで生き延びていた。そして、気が付くと秋彦と美智留を残して参加者は全滅していた。
「……逃げてください。今なら妖の注目は私に向いています。貴方一人なら逃げられます」
息も絶え絶えに美智留はそう言った。一瞬、逃げて生き延びようという考えが脳裏をよぎった。しかし、ここで逃げれば確実に美智留は死んでしまうだろう。そんな結末は認められなかった。
「ここで……ここで逃げる訳にはいかないんだよ!」
果たして決意を固めた秋彦は、美智留と協力して辛くも妖の討伐に成功した。
「まさか本当に倒せるなんて……貴方には助けられちゃいましたね。確か、秋彦さんっていいましたよね?」
秋彦は自身の名を覚えてもらっていた事に感動した。
「そうですそうです。あの、記念に一緒に写真撮ってもらえます?」
言った後に秋彦は後悔した。強大な妖を討つ事が出来て、一種のハイ状態になってしまっていたのだ。常であればこんな事を口に出す事はなかった。
一瞬の内に落ち込んだ気持ちはしかし、次に美智留が言った言葉で跳ね上がった。
「え、写真、ですか? いいですけど……」
「ほんとですか! よっしゃ! 出来れば肩組んでもらえます? 戦友みたいな感じで」
もうこの際だ。やけくそ気味に秋彦はそう言った。
美智留は苦笑しながらもその提案を受けた。そして、二人は処理班の一人に声をかけて写真を撮ってもらった。その写真は、今も大切に写真立てに入れられて保存されている。
ここから、二人の付き合いは加速した。
「君は、昔の私によく似ている。末席で、見分不相応な相手と恋仲になって――」
「そして、相手が妖になる、でしょう」
「……知っているのか。どこから聞いたのか知らないが、知っているなら話は早い。神楽の事は諦めろ。私も若い芽は摘みたくない。このままでは君も死ななければいけなくなる」
「もう、諦めてますよ。あれはもう、神楽じゃない。妖だ」
「わかっているのなら、何故逃げた」
「あの時点ではまだ神楽の意識はありました。元に戻せるかもしれなかった」
「だが、結局無理だった。私がそうだったように、君も神楽を苦しませるだけだったのだろう?」
恭弥は何も返せなかった。原作知識で美智留がどんな最期を遂げたのか知っていたからだ。そして、秋彦が最後に美智留と交わした約束も知っていた。
「だからって、可能性があったのに神楽を殺そうとしたんですか」
「我が家も一枚岩ではない。私だけの意見でどうこうなるものでもないさ。それに、私には美智留との約束がある。美智留は死の間際椎名を頼むと言ったのだ。それを守るためならば、例え娘であっても切り捨てる覚悟を持っている」
「……そんなに椎名が大事ですか。血を分けた自分の子供を捨ててまで椎名を守りたいんですか。俺には理解出来ませんね」
「誰かに理解してもらおうなどとは思っていない。私が私であるために必要な事だ」
「そうですか」恭弥は一拍間を空けてこう続けた。「お願いがあるんですけど、聞いてもらっても?」
「何かね」
「神楽を殺す役目、俺に任せてもらえませんか。神楽との約束なんです」
「……まあ、いいだろう。それが娘の最後の願いだというならば、それくらいは父として叶えてやろう」
「ありがとうございます」
「その時まで、最早幾ばくもないだろう。覚悟を決めておきなさい」
秋彦は恭弥の手枷を解くと、地下室を後にした。
それから暫くして、桃花が現れた。
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