第4話

 そも、「魍魎の匣」事件とは、千鶴という退魔師トップクラスの実力を持つ彼女の意思を奪い、命令のままに動く人形にしようという発想に端を発する。


 なぜそんな発想が生まれたかというと、千鶴は退魔師としては珍しく人格者であり、家の格や陣営というものを度外視し、無辜の民を守る事を至上としていた。


 そんな彼女の姿勢に惹かれ、本人の意図しないところで安倍派という陣営が築かれ始めていた。更に悪い事に、彼女の姓は安倍だった。今やその血族がどこにいるのかは定かではないが、この業界に生きる人間にとって安倍の姓は安くない。それほどまでに安倍晴明という陰陽師は退魔師にとっての憧れの存在なのだ。


 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというが、偶像として崇められ始めている千鶴の何もかもが老人達にとっては面白くなかった。


 かくして、完全に使役する事の出来ない妖の力を制御出来ると思い上がった老人達が、妖の封じられた魍魎の匣を利用して千鶴を操ろうとしたのである。その結果、千鶴は魍魎の匣の中の妖に飲み込まれ、制御不能の殺戮人形に成り下がってしまうのだ。


 退魔師トップクラスの実力を持つ彼女の暴走を止めるために、少なくない数の退魔師達が犠牲となった。それがまた、「夜に哭く」本編での御家騒動に拍車をかけた。


 だから、阻止する。


「この選択が後々にどう響くか……」


「……? 何か言いましたか?」


「あ、いえいえ、ただの独り言です」


「む、修行中に独り言とはいただけませんね」


 そう柔らかくたしなめる人物こそ安倍千鶴その人だった。


 艷やかなロングヘアを柔らかく紐で結い、その性格を反映するかのような優しい垂れ目の右下には不幸を象徴する泣きぼくろ。そして長身細身でありながらも出るところがしっかり出ているスタイルの良さ。


 二十七歳という恭弥の前世と合わせてほぼ同年代の彼女は、あくまで年下にそうするように優しくお説教をする。


「いいですか。禅とは精神の統一であり、強大な敵を前にした際に取り乱さないためだけでなく、自身の中を巡る霊力の流れを掴む修練なのです。ですから、そのように集中を欠いてはいけません」


 恭弥が転生した際、狭間恭弥という人間の設定はある程度定まっていた。十五歳で天涯孤独となった狭間家の長男。つまり、この世界にとって狭間恭弥という人間は十六年生きている事になっているが、恭弥の意識としては前世の年齢である二十六年とこの世界で過ごした一年で足して二十七年という事になる。


 そんな同年代の相手に、

「とはいえ師匠、今日は違う修行をしたいです」

 言葉の通り、恭弥は自身が狭間恭弥十五歳であると理解したと同時に、すぐに自身の生存率を上げるために千鶴に弟子入りしたのである。


 本来であれば狭間恭弥という人物は「夜に哭く0」の「魍魎の匣」事件で死亡する事になっている。それを回避するために彼女に師事し、実力をつける腹積もりだったのだが、残念ながら事件を阻止するだけの実力を身につける事は叶わなかった。


「違う、とは?」


「具体的には実戦訓練とか。なんでもいいからとにかく外に出たいです」


 根本的解決には至らないだろうが、少なくとも今夜千鶴が本部にいなければ今すぐ彼女が死ぬ事はないだろう。問題の先送りにしかならないのは理解しているが、今の恭弥の実力では事が起こってしまえばどうにも出来ない。


「珍しいですね、恭弥がそのような事を言うなど。ですが、今夜は会合があります。それが終わってからであれば可能ですが」


「それじゃ遅いんです。こう、なんて言うんでしょう。新しい力に目覚めそうなんです」


 我ながら酷い言い分だと思った。だが、千鶴はそんな子どもじみた言い分に対し、目を閉じて思案する素振りを見せた。その姿には千鶴の面倒見の良い性格が現れていた。


「しょうがありませんね。会合を早めに終わらせるようそれとなく動きましょう」


「……会合に出ないとダメですか?」


「お務めの一つですからね。何をそんなにぐずっているのですか。あなたらしくもない」


 ここらが潮時だろう。普段聞き分けの良い弟子で通っている恭弥がいつまでも引き下がってしまえば妙な勘ぐりをされてしまう。


 千鶴に限ってそんな事はないだろうが、正体がバレて妖認定されて討伐されてしまうなんて事になれば死ぬに死ねない。せっかく望み通り転生出来たのに下手な事は出来ない。


「わかりました。でも、くれぐれも老人達には気をつけてください。どうも何か企んでるみたいなので」


「そういう事ですか……それならそうと先に言えばよいでしょうに。わかりました。用心しましょう。そろそろ時間ですから私は行きますが、恭弥はそのまま禅を続けるように」


「わかりました」


 とは言えこのまま何もしなければ「魍魎の匣」は確実に起動してしまうだろう。恭弥は千鶴が部屋を出たのを確認して数分後、自身も部屋を出た。


 目指す先は「魍魎の匣」の保管庫。今の時間であればまだ匣は保管庫にある。会合が始まり、千鶴が匣を開ける前に確保する事が出来れば、修行を抜け出したのがバレてお説教を食らうだけで済む。


 もっと事前に匣の確保に向かって動きだせれば良かったのだが、下手なことをして当日に保管庫に匣がないという事態だけは避けたかったから出来なかった。


(見張りが二人か……けど、退魔師でなければいける……!)


 保管庫前にいる番兵は普通の人間だった。恭弥は二人の霊脈を断つ点穴を突き、一時的に気を失わせた。


「とはいえ、確保したところでどこに隠すかなんだよなあ。やっぱ千鶴さんに相談するしかないか……」

 なんていう考えは保管庫に足を踏み入れた瞬間無に帰した。

「無い……嘘だろ……? なんでだ……?」


 原作への介入はそこまで大きな事はしていないつもりだった。だから、原作通り匣は会合が始まってから運び出されるものだとばかり思っていた。


「どこで変わった……? いや、今はそんな事を考えている場合じゃない」


 どのような経緯を辿るにしても、最終的に匣は千鶴の元へと向かうはずだ。だとすればすでに匣は会合の間にある可能性が高い。


「クソ! クソ! 考えうる限り最悪なケースだ! どうする、どうする?」


 先程千鶴は気をつけると言っていた。それに賭けるか? いや、不確実過ぎるし、何よりもそんな言葉一つで老人達の企みを阻止出来るはずがない。なら、本部決戦用に取っておいた霊脈を開放するか。否。そんな事をしてしまえば最悪主人公が死んでしまうし何より原作すら始まっていないのに正史から大きく外れてしまう。


 ――見捨てるしかないのか。


 そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、「ソレ」は起こった。

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