第15話 月曜日──夕方

 六時間目が終わると、瑞紗は真っ先に教室を出る。今日は部活がないため、そうしても問題はない。しかし、瑞紗にも友人がいる。今日は彼女たちからの誘いを断ってまで向かう理由がその先にあった。


 瑞紗の目の先には自分の家がある。だが、用があるのはその手前、暁月の家だ。

 陸上部なだけあって、学校から家までおおよそ二キロあるが、わずか五分で家の前まで着いた。着いたのはいいが、流石にセーラー服のまま全力疾走したので息切れが激しい。


 瑞紗は陸上部の中では中位程度だが、女子の中では先輩をも上回る瞬発力を誇っている。陸上は中学生の時に何となくで入っただけだったが、あまりの楽しさに熱中していた。その日からは陸上には力を入れている。

 そんな瑞紗でも中位に属しているのは、決して才能がないからではない。瑞紗と暁月の通う学校、〇〇の陸上部が強いからである。

 つまり、この学校は陸上部に入部するために受験する生徒が多い。瑞紗もそのうちの一人だ。

 余談だが、確か暁月は家から一番近いから、とかいう理由だった気がする。思い出すと適当な理由だなと呆れる限りだが、同じ高校を選んでくれて嬉しかった。合格発表の日、二人で見に行った夜は興奮してよく眠れなかったほどだ。


 さて、では何故瑞紗は暁月の家のインターホンを鳴らさないのか。

 好きな──大好きな人の家に行くというのがどういう事なのか、分かるだろうか。

 そう。瑞紗はただ、恥ずかしがっている。一度も暁月の前でそんな素振りを見せた気はないが、暁月と会う度に毎回、心の鼓動がドキドキする。

 だから、暁月の家に行く前に必ず深呼吸をして落ち着かせている。

 今日は走った所為か、なかなか安定しなかった。


「よし!」

 ようやく息が整ったあたりで、気合を入れ、インターホンを押す。

 はぁーい、と女の子の声がした。

 声がして直ぐに玄関の鍵を開ける音が聞こえた。そして、玄関の取っ手が動いた。

「はぁーい、どちら様ー?」

 出てきたのは昨日出会ったばかりの咲だった。そういえば暁月の家に居候していることをすっかり忘れていた。


「こんにちは咲ちゃん。昨日ぶりだね」

「瑞紗!? どうしてここに? 何か用?」

「うん。暁月くん、体調崩したって聞いたから、お見舞いに来たんだ。上がってもいい?」

「えぇ、いいわよ」

 咲が許可していいのだろうか、とも思ったが暁月は一々そんなことで咎めたりはしないだろう。

 ありがとう、とお礼を言って瑞紗は暁月の家に上がる。

 毎回思うが、やはりいい匂いがする。新築という訳ではないが、薄ら暁月の匂いを感じる。

 一応のため言っておくが、瑞紗は匂いフェチではあるが誰かの匂いを嗅ぐなどの変態行為はしな──慎んでいる。

 何度も来ているため、暁月の部屋までの足取りが軽い。廊下の突き当たりにある階段を螺旋状に上っていき一番奥の部屋が暁月の部屋だ。


 部屋の前に着いた瑞紗は部屋を軽く二回ノックする。

 しかしなかなか返事がない。聞こえなかったのかも、と思い今度は少し強めに叩く。また返事はない。

 不安になった瑞紗は勢いよく扉を開けた。

「暁月くん!」

 部屋は前に見た光景と特に変わりようはないように見える。瑞紗は部屋を一周見渡すと暁月のいるベットまで急いで向かう。

 瑞紗が思っていた以上の重体なのかもしれないと疑った。


 しかしそれは、杞憂で終わった。

 暁月はぐっすりと眠っているだけだった。すやすやといいながら寝ているのが、狂おしいほどに愛おしい。愛でたくなってくる。

 そんな感情を抑え、暁月の顔色を伺う。何処にも異常はないようだ。

 暁月の具合を確認した瑞紗は、ほっと胸を撫で下ろす。

「ただの風邪、みたいだね。よかった……」

 心から安心した。

 しかし、暁月の気持ちよさそうに寝ている姿を見ると、少し暗い気持ちになる。その表情を自分に向けて欲しいからだ。

 だがそれくらいで瑞紗は凹まない。高校生はまだ終わらないのと、暁月と今でも仲良く出来ていると思っていることが理由だ。

 ただ、


「それにしても、咲ちゃんと智乃ちゃんなんていう新たな敵が出てくるとは思ってもいなかったよ」

 咲と智乃は恋敵だと──勝手に──思っている。二人にその気がなくても暁月が一緒に暮らす中でどちらかを本気で好きになる可能性だってあるのだから。

 もちろん逆も有り得る。むしろそれが一番なって欲しくないことだ。咲と智乃、どちらかが暁月を好きになってしまう。そうしたら、振った彼女に出来ることはなくなってしまう。そんな中告白しても、今更なんだよ、と言われておしまいだ。


 だから、それだけは絶対に避けなければならない。

「と言っても、わたしの事じゃないからどうしても避けようがないんだけどね……」

 瑞紗は深いため息をついた。

 一応、暁月が本当に寝ているかの確認のために頬を指でつんと触れる。

 昔から変わらない柔らかい頬の感触だ。もしかした瑞紗よりも柔らかいのかもしれない──きっとそんなことはないだろうが、本人的にはそう感じている──。そのまま指でつまみたい気持ちを必死に我慢する。


 ──今はこの部屋にはわたししかいない。咲ちゃんも智乃ちゃんも多分入ってこないと思う。暁月くんはぐっすりだし、大丈夫だよね


 瑞紗はゆっくりと、ベットに体重を乗せ、両腕で支え、そして、暁月の顔を合わせた。

 それでも起きる様子はない。


 ──起きなくて大丈夫、暁月くん? 起きないなら、このままもう少しだけ寝ていてね


 瑞紗の至近距離に暁月の顔がある。そのため、瑞紗はかなり緊張して顔が赤くなって噴火しそうになる。


 それでも、欲というのは瑞紗にも抑えられない。瑞紗はゆっくりと暁月と顔を近づける。少しずつ起きないよう、注意しながら。


 そして、生まれて一度もしたことのない──と暁月が言っていた──やさしい唇を、奪い取った。


 体が火照って来たせいか無性に興奮してしまい、部屋の扉が少し開いていたかどうかなんて、気にするはずもなかった。

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