第66話:射られなかった矢

 騒ぎを誰かが知らせたらしく、空港の職員がやって来た。それには宝田が身分を明かし、交番に連れていくと応対する。

 倒れた青二の母を職員は気に留め、介抱を申し出た。浅井浩二に「いいな?」と同意が求められ、その妻は運ばれていった。


「さて、はかな市へこっそり連れ戻すってわけに行かなくなった。言いたいことがあれば、今のうちだ」


 既に事実は認めた。遠巻きに、空港職員が見守る。浅井浩二は所在なさげに、気まずい表情を作った。衆目の集まるのが、居心地悪いらしい。


「は、早く行きましょう」


 ほんの数分前に我が妻へ向けた、高慢な笑みはもうなかった。スマホで撮影を試みる者も居る中、おどおどと顔を腕で隠す。


「待てよ。聞きたいことが一つだけある」

「何だ、早くしてくれ」

「でも俺の前に、少しくらい何か言っとかなきゃいけない相手が居るんじゃないのか」


 環を殺した犯人に聞かなければ、絶対に分からない真実を知っておきたかった。

 即ち、なぜ環だったのか。

 大宮周辺を含めたさいたま市に、飲み屋帰りの女など数え切れなかったはずだ。その中から、なぜ。


「青二――」


 話すべき相手を、浅井浩二は間違わなかった。

 初めて存在に気付いたように、はっと強ばる。見つめる息子の視線を受け止められず、盗み見る風に横目で見た。


「オレの言いたいことは、さっき言っちゃったよ。あと、何かあったかな」


 人生で一度くらい、子の意見や希望を聞き入れろ。

 この機会にどうしても言いたかったのはそれだと、青二は苦笑する。


 ――それは俺の為に言ってくれたんだろ。そんなんでいいのか。

 母はともかく、父にはもう二度と会えないかもしれない。別れでも罵倒でも、告げておくべきと思う。

 だが形無は、口を出すまいと決めた。


「ああ、そうだ。オレ、もう二度と父さんにも母さんにも会わないから。連絡とかしてこないでよね」


 八月の晴れた朝に、凍えた眼。寒さに震える唇。未熟な生涯を賭けた意趣返しが行われた。

 何も知らずそのセリフだけを聞けば、子どもっぽいとしか思うまい。けれども形無には少年の抱えた気持ちの万分の一くらいは理解が出来た。

 いつか許せる日がくるさ、とか。無責任な戯言を思いつくこともない。


「分かった。でも出来れば母さんには……」


 寒さは父親にも伝染した。怯えた息遣いで、何も知らなかった妻は許してくれと頼む。

 しかし青二は、ゆっくりと大きく。首を横に二回振った。


「そうか、分かった」


 父親の眉間に、不愉快そうな皺が寄る。息子もまたそれを見て、眼を細めた。

 浅井浩二が浅井青二を見ることは、もうない。「それで?」と形無に問う。一つだけの質問とは何か、と。


「俺の聞きたいのは――」


 突き止めたらどうしてくれよう。七年間を、呪い続けた。同じような苦しい目に遭わせたいと、法に触れぬ方法を真面目に模索しもした。

 そんな気持ちの延長線上に、たった今も在る。けれど、口から出たのは別の言葉だ。


「あんたにもらった手紙の通り、青二が落ち着くまで俺が面倒を見る。だけど親でなけりゃ承認できない手続きとか、あるかもしれない。そのときには、あんたか奥さんか訪ねてもいいか?」


 出会った最初の日、受け取った封筒に入っていた便せん。浅井浩二の署名入りで、青二を頼むと書いてある。

 小さく折って財布に入れていたそれを取り出し、示した。

 急に老眼でも進んだか、浅井浩二は眼をぱちぱちと瞬かせる。数拍ほどそうした後、やはり理解しかねると言うように首を傾げた。


「そうしなきゃ、あんたが困るだろう」


 背を向けつつ、捨て台詞に答えがあった。一人で出口に向かうのを、宝田がのそりと着いていく。

 宝田だけで大丈夫か。不安に思ったが、空港の警備員が付き添ってくれた。立ち止まることなく、自動ドアの向こうへ。それからすぐ、死角へ消える。

 形無と青二と、二人で見送った。まだ何か起こるのか、期待をするギャラリーが一人残らず居なくなるまで。


 ――終わっちまった。

 充足感はなく、空虚な心地もない。ただ事実として終わったと、何度か自分に言い聞かせた。

 前に立つ青二がどんな気持ちで居るか、背中しか見えぬでは量れない。

 だが無理に知る必要もない。彼は自分が何を言うべきか、誰よりも知っている。形無に聞かせるべきことがあれば、必ず言ってくれるはずだ。


「やあやあ、お疲れさまだったよ」

「石車。お前、何してた」


 そろそろ帰ろうと思った。腹が減った感覚はないが、胃が空っぽだ。羽田ならうまい店もあろうと、青二に腹いっぱい食わせてやりたくなった。

 とぼけた顔で石車がやって来たのは、そのタイミングだ。


「エスカレーターの下だよ。犯人さんを見送ってた」

「いや、お前。お前だって言いたいことくらいあっただろうが。というか居ろよ、核心を聞いてきたのはお前なんだから」


 気遣うようなことを言ってしまって、途中から文句に切り替えた。が、石車は聞かぬふりだ。腕に提げた白いレジ袋を、ガサガサと探る。


「これ、おいしいんだってさ。奢ってあげるよ」

「奢る? お前が? 俺に?」


 自身のを含めて三つ。野菜のはみ出した、ローストサンドイッチが取り出される。空港内で買った物のようだ。


「ありがと、お腹減ってたんだよね」

「こんなに厳重にしなくてもいいのにねえ」


 青二は素直に喜び、透明なパッケージを破いて齧り付く。何となく、面白くない。

 彼が一瞬で外した物を、石車は難儀する。何度か危ういところを持ち直し、最後にやはり床へ落とす。


「ああ大丈夫、汚れてない」

「下手くそ」


 馬鹿にしたはいいが、宙で剥ぎ取るにはたしかに厳重すぎた。同じく危ういところを乗り越え、どうにか無事に口へ入れる。

 どうだと自慢する視線を向けたが、石車はとうに興味を失っていた。


「どうして上がって来なかった」

「脚が痛かったからだよ」

「エスカレーターまで来たんなら、変わらないだろ」


 当然の疑問だが、石車ははぐらかす。サンドイッチを食べながら、ワイヤーの柵へ向かう。


「風が気持ちいいねえ。空港って広いもんだ」

「おい、答えろよ」


 形無も三口食べたが、飲み物がない。食べるのを中断し、破いてしまったパッケージでどうにか包む。石車は咽るのを押して、食べ続けた。


「逆に聞くんだけど、形無くんは聞いたの? どうして環を殺したのか。それとも罵詈雑言でも浴びせたかい?」


 離陸の準備に入った旅客機を、石車は目で追う。青二は既に食べ終え、その石車を見つめた。


「いや……」

「だろうと思ったよ。ちょっと違うけど、その理由と似たような感じじゃないかな」

「似たような?」


 この男の言うように、なぜと問い質すか罵倒する。そんな姿が本来だったろう。そうしなかった理由を、言葉として明確には言えない。

 言ったところでどうなるのか。青二が居る前で聞くことか。きっとその辺りの気持ちとは思うが。


「だからまあ、はかな市へ帰ろうよ」

「言われなくても帰るけどな」


 どうあっても、答えたくないらしい。ならば代わりに、もう一つ聞いてみようと思った。

 今度は一度問うだけだ。何度も石車の意のままにされるのは、腹が立つ。


「お前さっき、俺が諦めたってどこか行こうとしたな。止めなかったら、どうするつもりだったんだ」


 お台場からはかな市まで、八十キロほどもあろうか。徒歩で帰るのは、相当なものだ。サンドイッチを買えたのだから、電車賃くらいはあるのかもしれないけれど。


「決まってるじゃない、ベトナムに行くんだよ。七年が七十年になったって、僕は辿り着く自信があるんだ」

「そうか。お前らしいんだろうな、それが」


 他人の目を欺く為、装っていた狂気。それとは別に根本のところで、石車は尋常でない。


 ――こいつ、俺を殺す気だったんだよな。

 手に付いたソースを無邪気に舐める、子どもっぽい男。石車を、恐ろしいと思った。


「そういえば、どうやって帰んの?」

「そりゃ車で、って」


 展望デッキを後にし、エスカレーターを下りた。途中、缶コーヒーも買い、ターミナルの出口へ。

 そこで問うた青二に、「あっ」と声を上げてしまった。


「俺の軽トラ、ホテルにあるんだった」

「だよ。電車とかで行けんの?」


 たしかあったはずだ。記憶をたしかめ、答えようとした。その間に石車が先んじる。


「電車があるよ。でもまた青二が荷台に乗らなきゃいけないねえ」

「今度はお前が乗るんだよ」

「ええ? まあいいけど」


 まだ聞きたいことはあった。けれども十個の質問に、一つ答えがあるかどうか。そんな奴よりも、青二を労ってやらねばならない。

 放っておく手もあったが、ものはついでだ。それくらいの情けは、腐れ縁にもあって良いだろう。


「あれ、誰?」


 ターミナルから駅へ道路を渡ろうと、安全確認に左右を見渡す。

 すると五十メートル先に止まっていた、大きな黒い車がやって来る。運転する何者かが、どうもこちらに手を振っているように見えた。


「船場?」

「じゃないな、ランクルは持ってないはずだ」


 ごつごつとしたオフロードタイヤを履いた、ランドクルーザー。知人の中に一人だけ、所有者の心当たりがある。


「友野だ」

「友野さん? 何か用事で来たのかな」

「たぶん違うだろ」


 真横に乗り付けた友野は、窓を開けて「乗れよ」と言った。ルーエンに一部始終を聞き、迎えに来たのだと。


「形無。役に立たなくて悪いな」


 助手席に青二が座り、形無はその背後へ乗った。斜め後ろから覗く友野の顔は、怒ったような悲しいような、複雑なものだ。


「そんなことないって。悪いのは、何もかも俺なんだよ」


 全てを話そう。決めた最初は、そんな自虐の言葉だった。

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