第65話:告白

「ああ」


 きっと声を発したはずだ。答えてくれたことへの返事。あるいは知らず漏れた、ため息だったかもしれない。

 広大な白いエプロンと滑走路、それらを覆い尽くす果てしのない空。眼に映る全てが、ただ一色の闇に沈む。

 うるさく吹きつけ続けた風も、沈黙した。耳に届く音は、何もない。

 思考も、感情も、時間さえも。動くもののない静止した世界へ、形無は叩き落とされた。


 ――形無さん。

 重油の沼に埋もれる想い。そんな中、誰かの声が聞こえた。

 環だ。


「形無さん!」

「えっ、あ――」


 身体を揺すられて、正気を取り戻す。腕を掴むのは、青二。呼びかけてくれたのも。


「何をぼうっとしているの、大切って言うから答えたのに。からかってるの?」


 いかにも不快に眉を顰め、妻は喧々と責める。浅井浩二は奥歯を噛みしめ、己の妻と形無と、両者の出方を窺って見えた。


「いや、そんなことは。ええと」


 この次、何と言うつもりだったか。計画に沿って、この場で書き上げたシナリオが白紙に戻っている。


 ――しっかりしろよ、俺。やり直しは利かないんだ。

 どこまで話したか、記憶を掻き集める。どうにか、特殊な性癖を聞き出したと思い出した。


「夫の癖と、その宝田って女と。どういう関係があるっていうの」


 既に殺された話は聞いたはずだが、妻は浮気でも疑っているのだろう。夫の腕に爪を立て、逃さぬと息を巻く。

 怒りの方向は違うが、味方の増えたようなものだ。


「奥さん、あなたの思っているのとは違う。それに旦那が殺さずにいるのは、あなただけだ。他はみんな殺されたか、殺されかけた」

「殺された、って。ええ?」


 殺す。殺した。同じような言葉を、妻は何度も繰り返す。頭の中に辞書を探しても、何だかうまく解読が出来ないようだ。

 あれこれ我がままを言いはしても、夫の言いなりなのだろう。形無家のガラスを割って押し入ったことさえ、当然のことと信じさせられたに違いない。


「どういうこと? あなた、あの子だけって言わなかった? 一度だけって言ったわよね!」

「待ってくれ。言ったし、嘘じゃない。こいつが嵌めようとしてるだけだ。俺はそんなことしてない、信じてくれ!」


 妻が追い詰めてくれるなら、それも良いかと思った。ただでさえ誰かの悪事を問うのは、心に重い。ましてやそれが、環へ行った非道を暴く行為となればなおさら。

 けれども真に迫ったセリフで、妻は「そうなの?」と簡単に言いくるめられる。芸能事務所の裏方でなく、俳優になったほうが良かったのでないか。


「いい加減、認めろよ。あんたはあの日。平晟二十六年七月二十五日の夜、環を襲った。見てた奴が居るんだ。次の朝、トラックとトラックの間に捨てていったのをな」


 浅井はすぐに否定できず、「ぐっ」と唸り声を上げた。よくもこれほど分かりやすい男が、今まで見つかりもせずいられたものだ。


「お、おかしいじゃないか。それならどうして俺は、まだ捕まってないんだ。誰か見てたなんて、でまかせだ!」


 半ば認めたような言い分だが、気づいていないようだ。ただしこちらも、遺体を放置した瞬間を見たと言ったのは嘘になる。


 ――せめて石車が居てくれりゃあ、話が早いのに。

 曲がりなりにも逃走した車を見たのだから、信憑性は高まるはずだ。ちらり後ろを気にしても、まだ追いついてくる様子はなかった。


「調べたんだよ。トラックの運転手が起きてるとは考えなかったのか? 北海道の人でな、名乗り出れば面倒になると思ったのさ」

「うるさい。そんな無理やりな話が信じられるか!」


 有耶無耶にしようとする怒鳴り声。数十メートル離れた別のグループも、何人かが振り向いた。

 あからさまに動揺した姿に、妻も釣られた。両手で髪を掻き乱し、金切り声を上げる。


「ねえ、何が本当なの! 誰か教えて!」


 さすがにまずい。宥める為に「奥さん」と言いかけた形無にも、噛みつかんばかり。手負いの猫という風に、妻は威嚇する。

 同じく睨まれた浅井浩二は、「違う、俺には君しか居ない」と繰り返した。ああやっていつも、機嫌を取っているのだろう。


「母さん。オレ、ずっと見てたんだ」

「青二?」


 少年は、口を出さないと宣言していた。しかし先に掴んだ形無の腕を離さぬまま、一歩進み出た。


「形無さんが、好きな人の敵を探すところをさ。七年も同じことを思い続けて。どんなにつらくても、危なくても、情報を得る為なら何でもやるんだ。そんな形無さんが、でまかせで誰かを陥れるなんてしない」


 親の前に居る青二は、いつも俯いていた。そうでなければ、感情のまま牙を剥いていた。この親子に、落ち着いた話し合いなど存在しなかった。

 だが今、彼は母親の眼をまっすぐに見据えた。俯くどころか顎を上げて、高ぶることもなく、ひと言ずつをはっきりと。


「青二――でも。でもね、お父さんが居ないと、お母さんは何もあんたにしてあげられないのよ。お父さんが稼いできてくれるから、安心して生活ができるのよ」


 妻は。母親は、ともすれば裏返る声を咳払いで躾けた。我が子の声に向き合う気持ちは、ゼロでなかったらしい。


「安心した生活? オレにはそんなのなかった。でもそれを、あれこれ言うつもりはないよ。オレもこうしたいって希望はなかったからね」

「青二、あんた何てこと!」


 母親は目を見開いた。これほどの反論は未体験なのだ、信じられない気持ちは分からぬでない。


「またそうやって、親って立場で黙らせんの? 一回でいいからさ、オレの話を聞いてみてよ。もう二度と言わないからさ、オレの話を信じなよ」


 青二は怯まない。ほんの少し唇を噛む素振りと、形無の腕に震えが伝わっただけだ。


「母さん、よく言ってるよね。お金に困ったら、父さんはどうにか都合をつけてくれるって」

「ええ、そうよ。私が働いてるときだって、お父さんの言うことを聞いてたら間違いなかったもの」


 深呼吸をしながらのような、息を上げた会話。感情を押さえ込むのに、母親は必死らしい。


「それっておかしくない? 給料は良かったのかもしれないけど、そんなに都合よく急な収入ってあるもんなの? ねえ、刑事さん」


 対面する横に、いつの間にか宝田が居た。急に話を向けられて、刑事も親も驚いた顔をする。


「ん、臨時ボーナスか? 警察で言うなら、よっぽど大きな事件でも解決したときかね。一生働いて、何回かあれば優等生ってもんだ」


 まだ出番でないと主張するように、宝田は三歩離れたまま寄ってこない。厳しい風貌は警察かヤクザか、どちらに見えていよう。


「――ねえ、浩二さん。教えて」


 青二の母は、信じるとも信じぬとも言いはしない。深く頷くように青二と対していた視線を切り、一瞬の悩む間の後、夫に向け直した。

 その眼はまだ、どう贔屓目に見ても、浅井浩二を縋る気持ちに満ちている。


「教えても何も」

「本当ね? 私、あなたの言うまま生きてきたの。これからも信じていいのね?」


 夫の声に、ほっと表情が緩む。繰り返しの問いは、安堵を共有するものだったろう。

 しかし。

 浅井浩二は目を泳がせる。妻から逸らし、子から逃げ、刑事に慄き、形無を睨む。


「教えても何も、こいつらの言う通りだよ」


 吐き捨てたセリフは、半ば笑っていた。驚愕に震える妻を嘲笑い、自分の優位を保つ為か。それとも己の行く末に、そうするしかなかったのか。

 言葉を失い崩折れた母を、青二は受け止める。

 けれども抱いたままで居なかった。そっと怪我をせぬよう、屋根のない展望デッキの床へ下ろす。

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