最終節 還る場所

第64話:情報屋の手並み

 浅井浩二は「ん?」と。当てのない表情を浮かべた。

 吹き抜ける風が、一挙に冷えたように思う。首すじを、さあっと撫でられ震えた。

 だが、違うのか? と不審を抱きはしなかった。石車を信頼したからでない。そうであってほしいと、理不尽に願ったからだ。


「宝田なんて、そんな知り合い居ないわ!」


 夫の浮気を疑ったのだろう。妻は十分に顔色を窺って、また牙を剥く。

 だがやがて浅井浩二の見せていた疑問のグレーは、具体的な何かを思い出したように色を変えていく。

 形無はそれを、黒だと感じた。


「――ああ。かなり前に、殺されたって人だ。ニュースで見たのを言うなら、知っているとも」

「そんな事件あったの? あなた、よく覚えてるわね」


 七年前に数日ほど、報道を騒がせた大事件。関係のない人間なら、妻の反応が普通だろう。全国ニュースで数週も報道された連続殺人でさえ、形無は被害者の名など覚えていない。


「いや本当、記憶力のいい人間ってのは居るもんだ。所沢ナンバーの、白いレクサスとかな」


 当然に、しらを切るのは想定していた。だからまだ、浅井浩二が犯人だと突きつけはしない。

 知っている事実そのものを場に出してしまえば、相手はただ否定するだけで良いからだ。関係のありそうな単語を交え、反応を確認しつつ自滅を待つ。

 何しろ想定とは、七年をかけて練り上げたものだ。犯人を追い詰め、どう自白させるか。周到に考え抜いた。


「そ、それが何だ。俺の車はたしかにレクサスだが、青二から聞いたんだろう?」


 石車から聞いた車種と車両番号を違うことなく示しても、浅井浩二は強く否定した。

 何をしたとも言っていないのに。それが何だと強硬に。


「浩二さん――?」


 その態度を、妻も不審げに見つめた。これも演技なのかもしれないが、おそらく違うだろうと考えている。そう判断する理由があった。


「宝田環はどうやって殺されたのか、知ってるよな。ニュースでも言ってたことだ。あんたなら覚えてるだろうさ」


 追求を躱すのに最も簡単なのは、ここで「そこまでは知らない」と、とぼけることだ。

 だが嘘を吐く者に、それは難しい。知っていると言ったものを翻すのは、不自然でないか。どこまで覚えているのが自然なのか。出口のない迷路に迷い込む。

 躊躇なく出来たならば、相当の熟練者と言えよう。


「それは、し……」

「し?」

「知らん! どうしてそんなことを答えなきゃいけないんだ!」


 あらゆる方向へ視線を泳がし、開きかけた口を何度も閉じて、浅井浩二は憤って見せた。

 怪しい態度はともかく、逃れるのに有効ではあろう。警察でもない者に、そんなことを聞かれる理由はない。もっともな意見だ。


「そりゃあ、ごもっとも。奥さん、旦那に変なことを聞いて申しわけない」

「本当よ。何だって言うの」


 追求をやめ、話しかけるのも別の相手に。やましくない者なら、怒りが収まるまい。勝手に終わらせるなと、再開しようとさえするかもだ。

 けれども浅井は、そっと安堵の息を吐き、こちらの出方を窺った。


 ――環。こんな奴に、どんな目に遭わされたんだ。


 こいつに間違いない。揺るぎない確信で睨みつけた。気づいた浅井は、咄嗟に視線を逸らす。

 おそらく神経質で、弱い者には強く出るタイプだろう。首を絞めて殺すと結果を言えばそうだが、そこまでの過程に何をされたのか。

 嫌悪と、憤怒と、怨嗟。激情に呑み込まれそうだ。


「俺はプロの情報屋だ。ただのチクリ魔と舐めるんじゃない」


 ただのハッタリだ。それも、言わなくて良い類の。だけでは済まず、手の甲を噛み千切る。

 この場で確実に罪を認めさせる展望。今にも殴りつけたい本心。どうにか堪え、両者に根回しをした結果の廃棄物だ。

 

「プ、プロ? 情報屋って――」

「気にするな、名乗っただけだ。俺は今、奥さんと話してる。ねえ奥さん」

「は、はい」


 浅井浩二は情報屋なるものの価値を測ろうとし、妻は気圧された。

 結果論だが、日本人は肩書きに弱い。水質管理協会などという有りもしない団体名を信じ、高額の浄水器を買ったりする。

 だからある意味で、効果的だったのかもしれない。


「立ち入ったことを聞いて申しわけないが、よく首に布を巻いてますね。この間、古物市で会ったときもそうだった」

「え、ええ。まあ」


 ファッションにうるさそうな妻が、ストールに手を触れただけで黙った。少し気まずげな空気を醸し出し、僅かに顔を背ける。


「外して見せてもらうわけにはいきませんかね。セクハラになるなら取り消すし、謝るが」

「セクハラってことは。いえ、でも」


 妻は頬を赤らめ、対処に困ったと夫を見る。頼られた夫は言葉尻を取られぬよう考え、答えようとする。が、そんな時間は与えない。


「本当に申しわけないが、この質問にだけ答えてほしい。大切なことだ。首を縦か横に振るだけでもいいから」


 相手の手間を極力減らし、これだけと許しを得る。船場のような悪人ならともかく、普通は「ならば答えてやろう」と心の準備をする。

 きっと妻は事実を知らない。それで語気を緩めたのも意味を持つはずだ。


「あなたの夫は夜、変わった癖がある。その跡があって、隠している。だろ?」


 青二は言った。夫妻がケンカをしていても、首に何か巻いている日には機嫌が良くなる。つまり仲直りをするような何かが、夜間に行われた。

 その推論は、形無に取って極めて不愉快だ。同じことが環にもされたと認めることになる。


 ――環。

 心の中で名を呼んだ。それがどういうものか、形無自身にも分からない。


「ええと……」


 逡巡しつつ、妻は素早い動作で頷いた。

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