第63話:鉛の泡沫

「空港ってのは、街なんだよ。夜にはほとんど誰も居なくなるけど、丸の内だって同じだ」

「うん、何となく分かる」


 羽田空港まで、なおも道交法違反を見過ごせない。宝田の主張によって、呉越同舟となった。

 狭いワゴンRに、男四人。しかも運転する宝田の隣は石車が座る。何が面白いのか、人工島ばかりの海を食い入るように見つめた。


「街で人が動けば、必ず生まれる物がある」

「必ず? 渋滞が出来るとか、じゃないよね」


 通勤時間帯だが、まだ道路はスムーズに流れていた。六時半には到着できそうだ。搭乗受け付け時間には間に合わないけれど。


「ゴミだ」

「ああ、うん。そりゃそうだね」


 青二はちょっと驚くと同時に、ゴミがどうかするのかと疑問を顔に浮かべる。


「空港運用の施設が出したゴミは、徹底的に管理されてる。収集、保管、最後には空港内で焼却まで」

「へえ、ゴミ処理場まであるんだ」

「そうなのか」


 薀蓄をひけらかすつもりはないのに、宝田までも関心を寄せた。話しているのは、どうやって浅井夫妻を引き止めるかだ。その意味では当然だが。


「でも土産物屋とか、テナントの出すゴミの管理は、他の街にあるテナントビルと大差ない。違うのは一つだけだ」

「何が違うのさ」

「きれいに掃除するのは当たり前で、そもそもゴミを出すなって指導が厳しいんだ。羽田は世界一クリーンな空港を謳ってるからな」


 ゴミ処理の話ばかりで、いよいよ分からなくなったらしい。青二は眉根を寄せ「それ関係あんの?」と拗ねる。


「大ありだよ」


 あってもらわねば困る。勝手の分からぬベトナムまで追う羽目になるのは、どうにか避けたい。


 ――そうなったらそうなったで、当然追うけどな。

 目前に迫った羽田空港を眺める青二を、ちらり横目で窺う。


「ヤッさん、どうなった?」


 駐車スペースを探す間も惜しく、先に行くとワゴンRを降りた。宝田が止めることはなかった。


『展望デッキに行ってごらんよ』

「――そうか、恩に着るよ。また早いうちに顔を出すから」


 すぐに電話をした相手は、はかな市駅裏のヤッさん。要望を聞いてくれたらしい。

 走り出すと、石車は着いてこない。いつも通り、ゆったり歩く。


「追いつくから気にしなくていいよ」

「そうする」


 青二を引き連れ、階段を上るときになって思い出した。あの男は、両脚を負傷しているのだ。


 ――連れていってやるか?

 足を止めると、少年が背中を押した。見ると首を横に振る。


「行かなきゃ」


 あまりにも多くを背負った言葉だ。それでも彼は、先に行こうとしない。あくまでも形無の背中を押そうとする。


「悪いな」


 まだロビーの中央辺りの石車に向け、独り言ちた。

 人生の常道を嫌うあの男と、所詮分かち合えるものはない。だからこれでいいのだろうと思いながら。


「ここに居んの?」

「そのはずだ」


 四階に至る最後のエスカレーターでだけは、静かに立ち止まった。巨大な空港内を走って横断したのだ。息が切れた。

 江戸の街を表現した装飾が、やけに賑々しい。だのに人の居ないだけで、とても薄暗く闇を抱えて思える。

 それにとても長い。深呼吸をして、十分に息を整えた。けれどもまだまだ、果てしなく続いて見える。


「オレは何も言わないから。父さんがやったのか、白黒ついてからでいいよ。その後でも、何を言うんだか分かんないけどさ」


 自分が居るのなど気にするな。知りたいこと、聞きたいことを遠慮なく聞け。青二ははっきり言った。


「モヤモヤさせてもしょうがないんだよ。スッキリさせようよ」


 その言葉を最後に、少年は唇を堅く結ぶ。答えの選択肢は、それほど多くない。選んだのは、肯定の言葉。


「ああ、任せとけ」


 いかにも機械的な銀色の自動ドアが、スムーズに音もなく開く。河口を舐めた風が横殴りに、高らかな笛を鳴らして踊り狂った。

 額に手を翳し、人の姿を追う。近くに二グループ。合わせても十人足らずが居るだけだ。

 だがそこに浅井夫妻の姿はない。太いワイヤーの柵に触れられるまで、前に歩み出る。


「居た」


 船の舳先のように突き出した展望デッキの両翼は、それぞれ百メートルほどもある。南側の奥まったベンチに七、八人が集まった。

 浅井夫妻を除く残りは、ヤッさんの仲間だ。形無自身は、どの顔も知らない。

 いかにも客でございという素振りで空港内を闊歩し、ロスを減らしたい飲食店から残飯をもらって生きる者たちだ。


「ええと、形無ってんだけど」

「おや早かったね。あんたかい、あたしらなんぞに頼みごとすんのは」


 輪になった彼らの背に声をかけると、二十代半ばに見える男が振り返った。凄まじい早口に、たったこれだけの会話で急かされている気分になる。


「あんたたち、助かったねえ」


 別の男がからかうように、直立した浅井夫妻へ声をかけた。何のことかと思うが、藪から蛇を出すことはしない。

 おそらくの想像だが、彼らは芝居で夫妻を嵌めたのだ。一人だけ居た女が二つ折りの財布を示して、自分のポーチに入れた。きっとあれを、浅井夫人のバッグへ放り込んだのだろう。

 そうすればスリを疑って、責めることが出来る。


「――あんたの差し金か。人を泥棒扱いさせて、どういうつもりだ」


 ホームレスたちが去って、たっぷり一分ほど。沈黙を打ち破ったのは、濃紺のスーツを纏った浅井浩二。


「どうもこうも。後ろめたいことがないんなら、誰かに助けを求めれば良かったじゃないか。その辺に警察も居るだろ」

「そんなものないわ。他の人に迷惑がかかるから、穏便に済ませようとしたのよ。主人は優しいから」


 浅井浩二は唇を噛んだ。代わって答えたのは妻。毛嫌いするホームレスに囲まれて、相当なストレスだったのだろう。

 フォーマルなワンピースが、汚れはしないかと。よく吠える室内犬に似ているなと思う。


「優しい、ね。まあ――俺が引き止めたのはその通り。聞かなきゃならんことがあるんだよ」

「聞くって、質問する為にチケットを無駄にさせたの!?」


 拍車がかかってしまったらしく、妻はますますヒートアップする。これではまともな話が出来たものでない。


「そいつは済まなかった。話が終わったら弁償したっていい。百五十万も無事だったことだしな?」


 直ちに言い返そうとした妻は、百五十万と聞いて口を閉じた。

 憎々しげな眼だけは、いまだ噛み付いてくる。わなわなと震える指先も、落ち着かずにストールを握りしめた。


「何を聞こうと言うんだ」


 浅井浩二は、自分を落ち着かせる為か。それとも我慢して聞いてやるというあてつけか、大きくため息を吐いた。


 ――俺が誰だか、そりゃあ分かんないよな。

 宝田環という成人前の女性が、誰と親しかったか。親とか友人とか、交際相手とか。

 休みの日に大それた目的を決めず、気になった物を買って、食べて、ゆっくり過ごす。そんなことが好きだったのを知らない。

 不気味なストーカーに見初められて、怯える時間が長かったこと。その果てに無残な最期を迎えること。どれだけ心細かったかも知らない。

 そうさせてしまった張本人が、ここに居る形無という男と。世にも役立たずな駄目男だと知らない。

 命を奪うという最大限の干渉をした相手は、何と空疎な相手だろう。


「何だ。どうして泣く」

「うるせえ、あんたにそんなことを言われる筋合いはない。あんたも俺も、お互い何も知らないんだからな」


 言って強く、ふうっと息を吐いた。淀んで煮凝った魂を入れ替えるつもりで。


「あんた。宝田環って女を知ってるな?」

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