第62話:積年のおもい
ホテルの植栽、柱の陰。見回したとて、居るはずもない。だがそうせずに居られず、「何を探してんの?」と呑気な声に苛々が募る。
「てめえ、どういうことだ。ここに居るんじゃなかったのか。船場の言うまま信じて、何が誰の言うことも鵜呑みにしないだ」
「そう言われてもね。僕は聞いたまま言っただけだよ。そういう約束をしたから」
食ってかかっても石車は、首をゆらゆらとどこ吹く風だ。その態度にまた腹が立つ。環を愛するという言葉さえ、やはり嘘だったと思えてしまう。本当に想っているなら、こんな不誠実をすまいと。
「約束だあ? お前、環がどうこうってのも方便じゃねえのか。下着泥棒とか痴漢とか、そういう奴らがでまかせで逃げようってのと同じじゃねえのか」
無闇に人を傷つけようとする者の気持ちが分からない。こうして石車を責めるのにさえ、襟首を掴むわけでない。
悪事を嘘でごまかそうとする気持ちなら、少しは分かる。形無自身、子どものころの悪戯で卒業はできていない。
「自分の理解の及ばないところを、そうやって決めつけるの。形無くんは変わらないねえ」
軽薄なその声に、言葉を詰まらせた。
決めつけは良くない。かつてそんなことを、繰り返し言う女性が居た。「自惚れですか?」と、彼女の声が耳に蘇る。
決めつけるのも、決めつけられるのも嫌い。束縛の強い父親に不満を漏らしながら、自分を大切に思ってくれていると理解を示した。
たくさん話せば、たいていの人と分かり合える。そんな言いざまそのままに、口下手な形無に根気よく話しかけてくれた。とても朗らかに、いつも笑っていた。
「君こそだよ。そうやって自分だけのものみたいに言って、ないがしろにした罪滅ぼしをしてる気分なんだろう?」
「俺はお前の、環のことを何でも知ってるみたいな、その言いかたが大っ嫌いなんだよ」
「何も知らないくせに、当然みたいな顔でそこに居る形無くんが邪魔だったよ」
言えば言うほどに、虚しかった。
どれだけの言葉を応酬しても。ありったけの気持ちを積み重ねても。どちらがいいと言ってくれる環は、既に居ない。
「形無さん!」
置いてきた青二が、建物から出て駆けてくる。検索結果の表示されているらしい、スマホを掲げて。
「そりゃ居ないよ、ハノイ行きは七時に出るって」
「七時って、おい。もう五十分しかないじゃないか!」
「そうだよ。飛行機って三十分前には乗らなきゃなんだろ? 今からじゃ……」
息を整える必要もなく、青二は無念の声を零した。時間がないと船場が言ったのは、そのことらしい。
――石車にはあれこれ教えて、どうして俺には。
「くそっ!!」
「諦めるのかい?」
悔し紛れの捨て台詞に間髪入れず、石車は不思議そうな顔で問うた。
「諦めるも何も、間に合わないだろうが! そりゃあすぐに追いかけたいが、パスポートなんか持ってきてねえ!」
「そう、諦めるんだね。じゃあ僕は、ここまでにさせてもらうよ。船場さんとの約束は、果たされたみたいだから」
しれっと言って、石車は背を向け歩き出した。エレベーターの降り際、置き土産に放屁していくような手口だ。
「待てよ。何だその約束ってのは」
「んん?」
歩いて羽田まで、それこそ間に合わない。どこへ何をしに行くつもりだったのか。感情を窺わせない男は、能面の翁を思わせる顔で振り返る。
「言うなって言われてるんだけど、まあいいか。契約は終わったんだから、規約も効力切れだよね」
「まさか、船場に雇われたわけじゃあるまいし」
繰り返しの問いに、石車も「契約だよ」と繰り返した。
「僕はヘリでもいけると思ったんだ。でもあの人はジェットを用意してくれた。ともあれ札幌から、はかな市まで飛んで帰る足と引き換えってこと」
最速の自家用ジェットとは反対に、遊覧飛行の答え。この男に、
「で?」
「ぶれないねえ。君の邪魔をするなと言われた」
「俺の邪魔?」
「形無は自分で真実を手繰り寄せたいはずだ。必要な情報を与えはしても、先走るな」
船場の真似のつもりらしい。森進一に似た顔で、低音を捻り出した。
「俺が自分で知るまでは手を出すな?」
「そういうことだね。諦めちゃったときの条件は聞かなかったけど、契約抹消ってことでいいでしょ?」
じゃあ僕は行くよ。そう言って、石車は歩み去る。急いで走り出すわけでなく、アワワ商店街に居たときと変わりなく。
「――待てって言ってるだろ」
「待たないよ」
どうすれば良いか。どうすべきか。次の一手が思いつかない。しかしそれでも、このまま石車を行かすわけにいかなかった。
そんなことをすれば、環だけを想い続けた時間が無に帰してしまう。地獄の底へでも追っていきそうなこの男に、環を譲る行為と思えた。
「誰が諦めたって言った。俺はまだ、諦めない。どうにかして、あの内弁慶をとっ捕まえてやる」
「へえ?」
――どうにかって、どうすんだ。ジェット機に乗ったって間に合わないのに。
今にも「お手並み拝見」とでも言いそうな石車を視界から外し、平手で頭を殴りつける。そうすることでアイデアが溢れ落ちないか、幾ばくか本気で願った。
「宝田さん。空港に警察官って居るんじゃないの」
「そりゃあ居る。だがここに居る男はその他大勢でな、手は貸せん」
青二が言ったのは正攻法で、確実だったろう。けれども宝田にしてみれば、こちら三人がグルになっての悪巧みかもしれないのだ。乗るわけにいくまい。
ただし「そんな……」と、苦しげな表情の青二に言いわけもあった。
「どのみち管轄が違う。お役所仕事と言われてもしょうがないが、県警を通さにゃ動いてもらえんよ」
埼玉県警の宝田が、警視庁に直接働きかけることは出来ない。それは組織の仕組み上、どうしようもないことだ。
無理を承知で頼んだところで、今すぐのことにならないと予想がつく。
――いや、でもそうか。その手があるじゃないか。
何と簡単な解決法があることか。難しく考えすぎていたようだ。形無はガラホを取り出し、何カ所かへ電話をかける。
「おい石車」
「何だい、形無くん」
腰に手を当て好青年ぶった石車は、悔しいが格好いい。しかしそれは見た目の話。中身はやはり、どうしようもない人間だ。
「ずっと言ってたな、俺はお前が嫌いだって。認めるよ、もちろん嫌いだ。嫌いでないはずがない」
「あらら、そこまで言われると泣いちゃいそうだ」
「でもな」
両手を眼の下へ当てただけの泣き真似には構わない。時間のない状況が解決したわけでないのだ。
「お前に酒を飲ませ続けたのは、腐れ縁だからだ。どんな形であれ、お前が本気で環を想ってたのだけは認めてやる」
「あれ、敗北宣言?」
「違え。そのうえで、お前にだけは譲らねえって言ってんだよ」
万歳の格好に上げかけた両手を、石車は「はいはい」と前に放り投げた。
「どんなに格好悪くても、俺は諦めない。それを証明してやる」
「期待してるよ」
口先だけの返事はどうでもいい。言うべきことは言った。
気になるのは、青二のほう。多感な少年を傷付けず、彼の父親に詫びさせる方法はまだ思いつかない。
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