第61話:手は届かじ

「覆面かよ!」


 宝田が自分の持ち物のように乗り回していたワゴンR。拡声器など、よもや趣味で取り付けたとは言うまい。

 だが赤色灯は出さない。ぴったりと、二台分の車間もあるやなしやで追い縋る。


「止まれって言ってるよ」

「のんびり話す時間があるのか?」


 いかにも人ごとという態度で、石車は後ろを振り返る。実際この男は何もしていないのだが。

 ただそれを言うなら、形無とて同じ。パスポートの件も、もう証拠がない。だのになぜ、宝田は追うのか。理由のないのが逆に不気味だ。


「ワンカップを飲むくらいなら?」

「じゃあ無理だ!」


 ギアを一つ下げ、急加速をかける。シートから乗り出していた石車が、フレームに頭をぶつけた。


「関越からどこへ行こうってんだ?」

「羽田線に行こうと思って」

「羽田? なら、こっちのがはええ」


 既に流入路へ入りかけていた軽トラの鼻先を、主道に戻す。今度は窓ガラスに、石車のこざっぱりした頭がぶつかる。


「何だか賢くなりそうだよ」

「そら良かった」

「高速に乗らないの?」

「こっからだと、回り道になる。富士見新道から都道二三四に抜けたほうがいい」


 へえ。とは言うものの、石車はよく分かっていないようだ。運転したことがなければ当たり前だが。

 論より証拠とばかり、日の出時刻の住宅地を突っ走る。へばりついていた薄闇が真っ白な太陽光に切り裂かれ、街は純白に包まれていく。

 唸りを。いやさ悲鳴を上げるエンジンに喝を入れ、アクセルを緩めることはない。信号の少ない路線を選び、引っかかりそうであればわざと迂回して止まらぬよう走る。


「速いねえ。このままずっと行くの?」

「永福から首都高へ。そうすりゃ羽田線に直だ」


 明らかなスピード違反をしている。多少無茶な追い越しもした。しかし宝田は最初に呼びかけたきり、沈黙を守る。そこらのやんちゃな者どもより、よほど悪質な煽り運転は続くけれども。

 こちらを違反に問うなら、あちらも同じだ。赤色灯を点けぬ以上、緊急車両でないのだから。


 ◇ ◇ ◇


「間に合ったと思うよ」


 やがて到着したのは、お台場のホテル前。時刻は午前五時四十二分。およそ四十五キロを一時間足らずだった。


「ここに居るのか?」


 軽トラを降り、歩道に寄る。石車も同じく、建物を見上げた。

 たしか十六階建てだったろう。厭味なほど晴れた空に、海に向いた曲線の建物が優美だ。

 宝田も到着し、ワゴンRを降りた。が、危険な運転に疲れたらしい。息を整えるのに、しばし寄りかかる。


「そうだよ。部屋番号も聞いてる」

「部屋まで? それはおかしい、こともないのか」


 ここがただのマンションなら、船場が知っていても分かる。けれど現実はホテルで、滞在する人間は毎日入れ替わる。

 形無の知る中に、それでも条件に合致する者が居た。神経質そうな顔が脳裏に浮かぶ。


「おい石車、名前を――」

「浅井浩二。環を殺した奴の名前はね」


 ここで名を出すなと言うつもりだった。だがこの男は、言ってしまった。よりによって青二の居る、このときこの場所で。


「それ、ほんと……?」


 荷台でもぞもぞと毛布が動き、青くした顔を少年は覗かせた。


「僕の調べたのが、すっかり間違いでもなければね」

「おい石車!」


 肩を揺する、しかし事情を知らぬ男が察するのは不可能だ。それでも責めぬわけにはいかなかった。


「何だい? 青二の前で言うなって? 彼のお父さんだから?」

「お前、知ってて。知ってて言ってんのか!」


 どうしてこの男は、普通と違う道を行くのだろう。平均的で平凡なのが正しいとは言わないが、どうしてよりによって今そうするのだろう。


「いや、知らないけど?」


 アメリカのホームドラマよろしく、両手を広げてのポーズ。これで石車は、馬鹿にしているつもりはないのだ。

 自身の大事でないことに、重いも軽いもない。だから普段と変わらぬ応答をしてしまう。


「浅井浩二が怪しいって言ったのは、船場さんだよ。あの人の商品? が傷ものにされて、首を絞められてたってさ。青二が形無くんのところへ行ったのは、その後なんでしょ? だからそうかなって」


 やっぱりそうかと満足そうに、石車は頷いた。呆然と見つめる青二の視線を、真っ向から受け止めたうえで。


 ――こいつ、何なんだよ。本当に血の通った人間なのか?

 怒ることも忘れてしまった。言葉は通じるのに、根本がずれている。


「最初から知ってたのか」

「ううん、知らない。昨夜聞いたばかりだよ。脅して本当のことを言わせる為に、ベトナムに送るんだってね。でも先に僕が突き止めちゃった」


 へへっと笑声が溢れた。環の仇を目前にして、形無からは絶対に出てこない。


「行かないの? もしかしたら間違ってるかもしれないよ。そのときは僕が悪いから、青二に謝らなきゃ」

「お前、いい加減にしろよ」


 なおも続けるのを、さすがに聞き流してはおけなかった。

 掴んだ肩に力をこめ、強引にこちらを向かせる。けれどもやはり青二を前に、何を言って良いか言葉が出ない。


「……形無さん」


 数拍の沈黙を破ったのは、青二だ。先んじてため息もあったが、声は低くしっかりと発せられた。


「へ太郎の言う通りだよ。オレに謝るとか要らないけど、すぐに聞かなきゃ。お前がやったのかって」


 苦しげな表情の中、唇を無理に歪めた笑み。これも苦笑と呼ぶのだろうか。彼の感情を思い遣ることが、あまりにむごい。

 最低な親と嫌っていたからさもありなん。そう割り切れる非道を、この少年は持ち合わせない。


「おい、お前ら。今の話、本当だろうな」


 気分の悪さはとっくに戻っていたはずの宝田が呼びかける。


「ええ。聞いての通り、確証はこれからですけどね」

「分かった。そのときまで、その他大勢で我慢しといてやる」


 礼を言うのも何だかおかしい。言葉を交えず、会釈程度に頭を下げる。


「じゃあすみません宝田さん。車の番をお願いします」

「こんなボロ車、頼まれたって誰も持っていきやしねえよ」


 ホテルのフロントへ向かうのには、青二だけが同道した。意外なことに石車は、宝田と二人して居残ることを選んだ。


「そういえばこのホテルって、船場の手配で泊まってたんだよね? そんなとこにまだ居るのかな」


 フロントの直前で問うた青二の疑問は、形無も考えていた。だが抜け目など寸分もない船場が、石車に教えたことだ。間違いはなかろうと思っている。


「大丈夫だと思うけどな」

「オレ、飛行機の時間を調べてみるよ」

「え、ああ」


 青二は壁ぎわに身を寄せて、スマホを弄りはじめた。その間、待っていても仕方がない。「聞いてくる」と断って、宿泊状況をフロントに尋ねた。


「すいません、浅井浩二さんに会いたいんですが。あの子の親なんですがね、渡し忘れた物があるって」


 青二を指さし、石車に聞いた部屋番号も伝え、ピシッとした紺のスーツがキーボードを叩くのを待つ。


「お待たせ致しました。浅井さまは、昨夜チェックアウトされております」

「昨夜? あの野郎――!」


 石車の情報は、更新されていなかったらしい。思わず漏らした声に「お客さま?」と不審の声がかかるのをごまかし、ホテルのロビーを飛び出した。

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