第59話:偽りの狂気

「えへへ。えへへへへ。えへっ。えへへへへへ」


 癇に障る、拗ねた笑声。石車への怒りがいまだ残るのは、きっとこの声のせいだ。


「うるせえ。笑ってないで早く答えろ」

「そこが僕と、形無くんとの違いだよ。僕と君は、そこが違ってしまうんだよ」

「違いだと?」


 わざとらしく石車は、自身と形無とを指さした。耳に届かぬものの、まだ表情は「へっへっ」と笑い続ける。


「だってそうじゃないか。形無くんは信じたんだろう? 宝田さんがもう調べたって言うから。僕は信じなかったよ。僕は環のことを、彼女自身よりも深く知りたい。だから他の誰の言うことも鵜呑みにしない」


 心底おかしい、そんな風に石車の笑いが響いた。静かな朝の街に「うふふふふ」と。腹を抱えて俯き、再び上げられた眼がぎらつく。


「信じ……信じるも信じないも、基地へ出入りする業者には全部聞いてるんだ。警察が嘘を言ってるってのか」

「さあ、結果としてそうなるのかな? でも僕にはそんなことどうでもいいんだ。警察の言うことは僕に必要じゃなかった。僕が恨みを晴らすのに要る情報は、そうじゃなかった」

「恨みって――」


 石車が見初めた相手を殺したから。計画に先を越したから。他に何かあるかと想像をしても、腑に落ちる答えはない。

 そもそも好んだ相手を殺そうとする時点で、理解の外だ。


 ――やっぱりこいつ、狂ってやがる。


「恨むに決まってるよ。僕は環を、ずっと永遠にしたかったんだ。なのにあんなやり方じゃ、犯人はそんなことさえ考えてない。ただ衝動的に襲って殺したんだ。僕の気持ちを踏みにじったんだ」

「いい加減にしろ!」


 抵抗したくともできない、青二に支えられてようやくの男を殴り飛ばすところだった。いや、半ばはやってしまったかもしれない。我慢ができずに掴みかかり、植え込みの中へ押し倒した。


「お前の自由になんかならねえ! 環は他にやりたいことなんか、いくらでもあったはずだ! それをどうこうなんて俺が!」

「俺が?」


 守りたかった。

 大切にしようと。何を大切にすればいいのか、深く知ろうとした矢先だった。

 機会は数えきれないほどあって。それは全て、環がくれたものだ。だのに自分はことごとく、ふいにしてしまった。


「俺が守る? 今さら?」


 石車の瞳は、ぼんやりとどこを見ているのか分からない。顔を突きつけ合ってなお、だ。先ほど一瞬に見せた強さは、すっかり失せた。

 そんな眼をした男に返す言葉を、見つけられない。掴んだ服をゆっくりと放し、代わりに腕を握る。突っ込んだ茂みから引き起こし、さっと離れた。


「頼む、教えてくれ。俺が何の役にも立たないのは、自分でよく分かってる。だから聞いて回るしかなくて。それでも結局、辿り着けそうもない。石車、教えてくれ。誰が環を殺した? お前はそれを知る為に消えたんだろ? 俺に本当のことを教えてくれ」


 節操がなさすぎるだろうか。直立の姿勢をとり、深く頭を下げた。青海楼の老執事よりも。


「僕には分からないよ。どうしてそう、気に入らない相手にも頭を下げられるのか。何より大切な知りたいことを、誰かに聞いて済ませられるのか」


 環のことを調べれば調べるほど、関係のありそうな話はいくつもあった。だが本当に事件と繋がるものは、一つとしてない。

 砂浜を掘れば掘るだけ、いくらも貝は出るのに、全てが貝殻だけ。ずっとそういう肩透かしの連続だった。膨大で徒労感に塗れた選定作業を、一人でこなすなど不可能だ。

 そして完遂したとして、なお。ざるの中に必ず真実があるとは限らない。


 ――いや、石車の言う通りか。俺は宝田さんに言われて、それをこなすことで精一杯のつもりだった。

 自分で独自に何か出来ないのか。検討をしたかと聞かれれば、頷くことが難しい。


「お前の言う通りだ。俺は何も知らない。たぶん本当には、知ろうともしなかった。今さらってのも間違いない。それでも知りたいんだ。頼む、この通り」


 植え込みの縁へ座る石車の足元へ、手をついた。土下座など、恥ずかしいと思わなければどうということもない。むしろ見え透いたおべっかとさえ思える。

 しかしこれ以外に、心からの願いと示す方法が思いつかない。


「待ちなよ」


 アスファルトに擦り付けようとした額を、石車の両手が受け止める。それは意外に力強かった。


「他の人の話は聞くのに、どうして僕の話は聞いてくれないんだい? 僕はね、君に教えるつもりだよ。だから船場さんに呼んでもらったんだ」


 目を合わせた石車は、笑っていない。僅かに微笑みめいたものはあるが、二十八歳の精悍な男の表情だ。

 病んだ心の傷から漏れ出るような、あのふざけた声は消え失せた。


「不思議かい? そんなことはないよ、僕は環を愛しているからね。形無くんと二度と出会うことのない、違う場所へ葬ろうと思った。それ自体は叶ったから、君には・・・何をしようとも思わない」


 不穏な注釈だと形無は気づかなかった。「じゃあ本当に時間がないから」そう言う石車を軽トラに乗せる。

 青二は快く「荷台でいいよ」と言った。逆に決して、待っているとは言わなかった。緩衝用の毛布に包まり、彼は荷物のふりをする。


「僕は探してたんだ。あの日、停まってたトラックを。アワワ商店街の入り口でね」

「七年間、ずっとか」

「そうだよ、それ以外に手がかりはないからね」


 道案内を石車に任せ、軽トラを走らせる。それはおそらく、東京方面へ。

 その道中。ずっと狂気を装っていた男はようやく、一昨日からの旅の話を始めた。

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